菊地大司教

    主の降誕、日中のミサ@東京カテドラル

    12月25日午前10時に、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた主の降誕・日中のミサの説教原稿です。
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    主の降誕・日中のミサ
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2020年12月25日午前10時

    お集まりの皆様、インターネット配信を通じて共に祈りをささげておられる皆様、主の降誕おめでとうございます。

    多くの地域では、昨晩でクリスマスは終わり、年末年始に向けての準備が始まっているのかも知れません。しかし、教会では降誕節が始まったばかりです。神のみ言葉の受肉の神秘を、わたしたちは信仰におけるさまざまな視点から見つめ、黙想し、喜びと感謝のうちにこの時期を過ごしてまいります。

    さきほどの福音は、ヨハネ福音の冒頭でありました。それはイエスの物語の冒頭であるにもかかわらず、飼い葉桶も、マリアもヨセフも登場せず、ましてや羊飼いも天使も登場しません。

    ヨハネによる福音の冒頭にはただ、「はじめに言があった」とだけ記されています。その受肉され人となられた神のことばは、わたしたちが普段何気なく口にする言葉とは異なり、いままさしく生きている神の言、神の思いそのものが人となられ実在している。それこそが誕生した幼子なのだと私たちに伝えています。

    誕生した幼子。言葉を知らない幼子であっても、父ヨセフと母マリアとの関係性の中で示される存在そのもの。成長した後には、その語る言葉と行い。それこそが神の思いそのものを具体的に表すのであり、そこにこそいのちがあり、人を照らす希望の光があるのだと、ヨハネは私たちに伝えます。暗闇に輝くいのちの希望の光。そのいのちの言を、ヨハネは福音書に綴っていきます。

    パウロはヘブライ人への手紙で、人となられた神のことばとは、すなわち、かつて預言者を通じて語りかけようとしてこられた神が、いまや直接語りかけている証左であると教えます。神はその思いを間接的に伝えようとするのではなく、人となってこの世に来られ、人類の歴史に介入することで、わたしたちに直接語りかけようとされています。

    今年わたしたちは、まさしく暗闇の中にあります。年の初めから今に至るまで、新型コロナ感染症は収束せず、それが未知の感染症であるが故に、なかなか確実なことを確信を持って知ることが出来ず、半ば闇の中で右往左往しています。世界の各地では、多くの方がいのちの危機に今でも直面していますし、比較的影響が軽く住んでいる日本でも、いのちの危機は終わったと断言することは出来ていません。

    病床にある多くの方のためにお祈りいたします。医療関係者の方々の献身的働きに感謝します。もちろん病気はこの感染症だけではありませんから、いのちの危機に直面し、不安の中にある多くの方々のために、主の降誕の日にあたり、不安と恐れの闇を照らすキリストの光がもたらされるように心から祈ります。

    1995年に教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅「いのちの福音」を発表され、「死の文化」と「いのちの文化」という対比する二つの文化の存在を指摘されました。「文化」とは社会を支配する価値観と言えるかも知れません。そして、信仰に生きるわたしたちにどちらの文化を選択するのかと問いかけました。教皇はいのちの尊厳をないがしろにする現代社会の傾向をさまざま指摘した後に、このように記しています。

    「現代世界には、いのちを脅かす重大な脅威が無数にあります。これらに直面するとき、人間はまったくなすすべがないと圧倒されてしまいます。善は、悪に勝利を収めることが出来るだけの力を持たないと感じるのです(29)」

    その上で教皇は、「そのようなとき、ずべての信仰者を含む神の民は、『いのちのことば』であるイエス・キリストへの信仰を、謙虚に勇気を持って表明するよう招かれるのです」と記します。(29)

    教皇はさらに、「イエスのことばと行い、またイエスその人をとおして、人間には人間のいのちの価値についての完全な真理を『知る』可能性が与えられました」と指摘します。(29)

    賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、ありとあらゆる脅威にさらされてきました。それはいのちへの直接の脅威であったり、武力や暴力による脅威であったり、人間の悪意による脅威であったり、排除や差別による攻撃であったり、政治的意図や政治的支配欲による脅威であったり、政治思想に基づく圧政であったり、貧困や疾病による脅威でありました。今年はその脅威に、未知の感染症が加わりました。いのちは常に、なにがしかの脅威にさらされています。

    その中にあって、わたしたちは「いのちのことば」に耳を傾け、そのあかしに倣い、自らの言葉と行いで、「神の言」を具体的に生きるよう呼ばれています。

    この数年の間、世界では、利己的な思想や価値観が広まり、助け合うことや支え合うことが意味を失い、孤独や孤立のうちに取り残される人が多く見られるようになりました。異質な存在を排除し、自己の価値観を守ることに専念する社会は、寛容さを失います。教皇フランシスコは、しばしば誰も排除しない社会の実現を呼びかけ、隔てる壁を打ち壊し、広がる溝に橋を架けるようにと諭してきました。

    心の不安を増幅するような事態の頻発は、疑心暗鬼の闇をひろげてしまいます。疑心暗鬼の相互不信には、対立を引き起こす負の力があり、寛容さを広める前向きの力はありません。

    そういう中で、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら、簡単に生み出されてしまう可能性があります。自分たちを守るためなら、異質なものは排除しても構わないという考えは、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、「死の文化」に彩られた社会です。闇の中を歩んでいる今だからこそ、教会はあらためてこの社会の中で、「いのちの文化」を強調していかなければなりません。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

    イエスの誕生にこそ、また神の言の受肉にこそ、神の愛といつくしみとゆるしの深さがはっきりと表れています。自らが創造された人間を、神は愛し抜かれていたからこそ、忍耐に忍耐を重ねて、しばしば預言者を通じて道をただそうとしてきた。しかし人間はなかなかそれに従わない。そこで神はすべてを終わらせることも出来たであろうに、そうではなく、自ら人となり直接語りかけ、そして最後には人間の罪をすべて背負い十字架の上でその身をあがないの生け贄として捧げ、永遠の生命への道を開かれた。私たちの信仰の核心です。

    今日、イエスの誕生を祝ってここに集う私たちは、神の尽きることのない愛といつくしみとゆるしの結果として、私たちに与えられた「神の言」にあらためて触れています。神の思いそのものである「神の言」に触れ、包まれる機会を与えられています。私たちがクリスマスに教会に集まって喜びの思いを抱くのは、単にイエスの誕生を祝っているという喜びではなく、つきることのない神の愛といつくしみとゆるしに、あらためて包み込まれているからではないでしょうか。弱い私たちは、日々、神の呼びかけに耳を傾けずに、様々な裏切りを積み重ねています。にもかかわらず、神はわたしたちを見捨てることなく、このクリスマスにあたって、あらためてヨハネ福音の呼びかけを通じて、わたしたちに、その愛といつくしみとゆるしの深さを感じさせてくださっています。感謝のうちに、降誕節を過ごしてまいりましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功