菊地大司教

    諸聖人の祭日@東京カテドラル

    11月1日は諸聖人の祭日で、今年は日曜日となりましたから、主日にお祝いすることになりました。

    公開ミサを一時中止にした2月27日以降の主日、すなわち3月1日から、インターネットを通じて、大司教司式ミサを配信してまいりました。6月半ば、キリストの聖体の主日の次の日曜、6月21日から限定的ながらも公開ミサが再開されたこともあり、それまでの日曜午前10時の配信から、土曜日午後6時の配信へと変更して続けてきました。毎回、生中継した映像を、そのままYoutubeに残していますから、別途編集することの出来ない映像をその場で作成しなくてはなりません。関口教会の田村さんをはじめボランティアスタッフが、本当に努力してくれました。またできる限り、美しい典礼をと言うことで、聖歌隊としてイエスのカリタス会の志願者とシスター方が、交代で毎回参加してくださいました。毎回、さまざまな歌をご自分たちで選択し、週日にはよく練習してきてくださり、事前の準備も大変だったことだと思います。感謝します。

    幸いカテドラル内は他の小教区聖堂にはないほどの大きな空間がありますし、内陣から会衆席までの距離も空間も大きなものがあります。それでも互いに充分な距離を開けて飛沫感染を防ぐこと、ミサの最中でも必要に応じて手指の消毒を繰り返すことなど、いろいろ注意をしてきましたし、公開ミサが再開となってからは、関口教会の定めた方法で参加人数を絞り、また座席は一列ずつ移動させて前後左右2メートルを確保、歌唱は聖歌隊のみ、また聖体拝領直前には全員の手指をあらためて消毒するなど、感染対策をとってまいりました。

    小教区でのミサも徐々に再開されてきたこともあり、週末のさまざまな教会行事も再開しスケジュール調整が必要となってきたこともあり、カテドラルからの大司教司式ミサの配信は、本日をもって一時中止とします。今後は大きな儀式や祭日には中継をいたしますし、状況に応じては、あらためて再開することになるかも知れません。ミサの配信に協力してくださった多くの方に、心から感謝します。今後の配信の際には、東京教区ホームページでお知らせいたします。

    なお、今回の事態の中で、ミサの配信を始めた小教区も少なくありません。そういった小教区で、情報を公開しているところに関しては、東京教区ホームページで情報を提供していますので、ご覧ください。

    以下、諸聖人の祭日ミサ、10月31日土曜日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げたミサの説教原稿です。
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    諸聖人の祭日
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2020年11月1日前晩

    教会は、11月1日を諸聖人の祭日、そして11月2日を死者の日と定め、さらに11月全体を「死者の月」としています。11月1日には、すべての殉教者と証聖者を記念し、11月2日にはわたしたちに先立って御父のもとへと旅立ったすべての人を思い起こし、祈りをささげます。

    イエスをキリストと信じる私たちは、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

    同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉に信頼し、いつくしみ深い神が、その限りない愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

    親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠のいのちへの希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

    カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。わたしたちは、信仰における先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。教会共同体はこの世における目に見える組織だけのことではなく、信仰の先達との霊的な絆のうちに、普遍的に存在している実体であります。

    その中でも、諸聖人は、その生き方をもって、すなわちその言葉と行いを持って、信仰を力強くあかしした存在として、この世を歩む教会にとっての模範であります。

    教皇ベネディクト16世は回勅「希望による救い」において、「人間は単なる経済条件の生産物では」ないからこそ、「有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできない(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

    今日私たちが記念するすべての聖人や殉教者たちは、その人生における言葉と行いを通じて、また他者とのかかわりを通じて、この世の命を生き抜いた姿を通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確にあかしした存在であります。

    その人生において聖人や殉教者は、人とともに、人のために苦しみ抜きました。真理と正義のために苦しみ抜きました。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために、苦しみ抜きました。

    苦しみ抜き、生き抜いたとき、その真摯な生きる姿が、多くの人から尊敬を持って評価される生き方となりました。使徒言行録に記された初代教会の姿を思い起こします。

    「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2章44節~47節)

    聖徒の交わりである教会は、現代社会にあって何をあかししているのでしょうか。一致でしょうか、分裂でしょうか。愛でしょうか、憎しみでしょうか。いつくしみでしょうか、排除でしょうか。ゆるしでしょうか、裁きでしょうか。賛美でしょうか、ののしりでしょうか。

    山形県の北の外れに新庄という町があります。この郊外に今年で献堂10年を迎える小さな教会共同体が存在しています。所属している信徒の9割は、近隣の農家でお嫁さんとなったフィリピン出身の信徒の方々です。

    10年前、献堂式の時に、リーダーのフィリピン出身の女性信徒が、教会誕生までの道程を話してくれました。20年以上前の来日当初、教会が近くにはなかったため、毎日曜日にご主人に頼んで遠くの町の教会まで送ってもらっていました。それが続いていたあるとき、親戚の方から、「あなたは教会がないと生きていけないのか」と問い詰められたと言います。自分の信仰について真剣に考え抜いた結論は、「もちろん教会がなければ生きてはいけない」でありました。

    その日から、出会うすべての同郷の友人たちに声をかけ、日曜日に誰かの家に集まり、司祭を招いてミサを立ててもらい、共同体を育てていきました。

    私が彼女たちと出会ったのは新潟の司教となった直後の2005年です。大きな農家の居間でミサを捧げた後に、彼女たちから、自分たちの教会がほしいと懇願されました。近隣に定住した信徒がどれほどいるのか数えてもらったら、フィリピン出身の信徒が90名を超えていました。一緒に歩んでいた日本人信徒は3名です。

    新しい教会を作るなど、財力もないこの小さな教区では無理だと思いましたが、その5年後には、献堂式にまでこぎ着けました。彼女たちの熱心さに感銘した多くの人が、教区内外から支援を申し出て、廃園になった幼稚園の建物を手に入れて改築したのです。

    「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

    すべてをなげうってただ神のことだけを求め生きる人たちを、イエスは幸いだと呼ばれました。「教会がなければ生きていけない」と言う一途さが、周囲の人を巻き込んで、教会共同体を生み出し、教会の献堂まで実現してしまいました。

    わたしたちは、信仰に生きていると言いながら、何に全身全霊をささげているでしょうか。
    わたしたちは、共同体において一致していると言いながら、何をあかししているのでしょうか。
    わたしたちは、聖体の秘跡に養われていながら、何を告げしらせているのでしょうか。

    聖人たちに倣って生きること、すなわち聖性への招きは、すべての人に向けられた召命であります。もちろん自力でそれを達成できるものではなく、神からの恵みが不可欠ですが、同時に招きに応えようとする決意も必要です。聖人たちの生涯に目を向ければ、聖性への招きへの答えは、日々の小さな行動の積み重ねであることが分かります。その積み重ねを支えるのは、主に対する一途な思いであります。

    わたしたちの信仰の先達である諸聖人、殉教者の模範に倣い、わたしたちも苦しみを耐え忍びながら、勇気を持ってイエスの福音をあかしできるよう、聖霊の導きを祈りましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功