大司教

年間第三十主日@東京カテドラル

2020年10月26日

10月最後の主日となりました。年間第30主日です。次の日曜は11月1日で、今年は諸聖人の祭日が次の日曜に祝われます。そのため、前晩である10月31日土曜日18時の配信ミサも、諸聖人の祭日となります。

なお、東京カテドラルからの大司教司式配信ミサは、次の土曜日、この10月31日の配信を持って一旦区切りを付けさせていただきますが、現在ではイグナチオ教会をはじめ多くの小教区で配信ミサが行われるようになりましたので、是非そちらをご利用ください。東京カテドラルからの大司教司式ミサの次の配信予定は、主の降誕深夜ミサの予定です。カテドラルからの配信予定については、随時、東京教区ホームページでお知らせいたします。

先週10月17日土曜日午後には、受刑者・出所者の社会復帰支援などを行うNPO法人マザーハウス(代表:五十嵐弘志さん)の主催で、受刑者と共に捧げるミサがイグナチオ教会で行われ、教誨師などで関わる司祭たちと一緒に、司式をさせていただきました(上の写真)。これも配信ミサで行われました。詳しくは、マザーハウスのホームページなどをご覧ください。当日のビデオもホームページからご覧いただけます。

また10月18日の午後には、碑文谷教会で26名の方の堅信式も行われました。当初は世田谷南宣教協力体(上野毛、田園調布、碑文谷)の合同堅信式の予定でしたが、現在の状況から、碑文谷の方だけの堅信式となりました。また宣教協力体の各教会から主任司祭と役員の方に集まっていただき、ミサ後に短い時間でしたが、現状についてのお話を聞かせていただくことも出来ました。

先般、典礼秘跡省から送付された指示に従い、堅信を授ける際には直接指で聖香油を塗るのではなく、一人ひとり脱脂綿で塗油をいたしました。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

以下、本日10月24日土曜日18時から行われた年間第30主日ミサの、説教原稿です。
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年間第30主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月25日前晩

教会にはいのちの福音を告げしらせる使命があります。神のことばがひとりの人として誕生した受肉の神秘こそが、すべてのいのちの尊厳を明確に示し、すべてのいのちに比類なき価値があることを明確にしています。

「いのちを守るための行動」などという呼びかけが繰り返される中で、今年わたしたちはいのちが危機に直面する事態を実際に体験し、いのちの価値、そしていのちの意味をあらためて考えさせられています。

災害や疾病など、人間の力の及ばないいのちの危機が存在する反面、世界には人間が生み出した様々な事由から、危機に直面させられている多くのいのちがあります。

教皇フランシスコは先日の一般謁見で、「社会内の不正義、不公平に与えられる機会、貧しい人を社会の周縁に追いやること、貧しい人への保護の欠如」を、「より大きなウィルス」とまで指摘されていました(8月19日一般謁見)

また2018年の一般謁見では、「戦争、人間を搾取する組織、被造物を投機の対象とすること、使い捨て文化、さらには人間存在を都合良く支配するあらゆる構造によって、いのちは攻撃されています。そうして考えられないほど大勢の人が、人間にふさわしいとは言えない状況で生きています。これはいのちへの侮蔑であり、ある意味での殺人です」とまで述べておられます(2018年10月10日)。

感染症への対策を強める中で、明らかに拡大している貧富の格差。社会の不安が増大する中で頻発する、異質な存在への排除の傾向。統制を強める国家による圧政の結果としての、民族や思想に対する迫害。排除の力が強まる中で、顧みられることなく孤立するいのち。

一年前の訪日で、教皇フランシスコは日本の現状を次のように話されていました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。(東京ドームミサの説教)」

いまや、その始まりから終わりまで、すべての段階でいのちは危機に直面しています。

マタイによる福音は、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えるイエスの言葉を書き記しています。

第一の最も大切な掟は、当然ですが、心と精神と思い、すなわち感情もいのちも知性も、人間の存在のすべてを尽くして、いのちの与え主である神を愛せよと教えます。

そして第二の掟として、「隣人を自分のように愛せよ」と教え、その二つを持ってすべての掟の土台となるのだとイエスは教えます。

教皇ヨハネ・パウロ二世は「いのちの福音」で、「『殺してはならない』というおきては、自分の隣人を愛するという積極的な命令の中に含まれ、いっそう完全な形で表現される(41)」と記し、隣人愛の教えは、そもそも「殺してはならない」という、神の十戒の第五の掟に基づいているのだと指摘されます。

しばしば繰り返してきましたが、今回の感染症に直面する中で、教会が選択した公の活動の停止という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、いのちを守るための積極的な選択でした。それはカテキズムにも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者をいのちの危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

わたしたちはあらためてこの危機的な社会の状況の中で、いのちを守ることの大切さを強調したいと思います。

教皇ヨハネ・パウロ二世は「いのちの福音」の中で、いのちを守ることに対する厳格な教会の姿勢を明確にすると同時に、それは人を裁くためではないこともはっきりと言明されています。

例えば「いのちの福音」には、次のように記されています。
「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

すなわち、わたしたちはいのちの危機を生み出しているさまざまな社会の現実に目を向け、その社会の現実を、「いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導く」務めがあります。いのちを危機にさらしている事態そのものを指摘することも重要ですが、同時にそういった危機的状況を生み出している社会のあり方そのものを変えていこうとすることも大切です。

いのちの危機を生み出す社会の状況を、教皇ヨハネ・パウロ二世は、「構造的罪」とよび、それを打破するために世界的な連帯の力が必要であると指摘されています。

出エジプト記は、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」と記していました。

イエスの言葉と行われた業は、弱い立場に置かれているいのち、すなわち危機に直面しているいのちに対して、わたしたちが積極的に関わらなければならないことを明確に示しています。わたしたちはこの世界にあって、時として、まるで自分たちがこの世の支配者であるかのように振る舞います。そのとき弱い立場にある人への配慮の心は消え失せてしまいます。

しかしわたしたち自身、この世界を自ら生み出したわけではなく、そもそもいのちすら自分で生み出したものではない。すべては神から与えられ生かされている立場であることを考えるとき、いのちの危機に直面する人へ思いを馳せるのは当然の務めであります。

パウロはテサロニケの教会に対して、その生活が周囲に対する模範となっているとの賛辞の言葉を贈ります。そして「主の言葉があなた方のところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなた方の信仰が至るところで伝えられて」いると記しています。

わたしたちの教会は現代社会にあってどうでしょうか。

教会が、いのちを守る場として、この不安が支配する時代に希望の光を輝かせる存在となるよう、またいのちの福音を自信を持って告げしらせる存在となるよう、聖霊の導きに身をゆだねながら、確実に歩みを進めたいと思います。