大司教

年間第二十九主日・世界宣教の日@東京カテドラル

2020年10月18日

年間第29主日です。10月の終わりから二つ目の日曜日は、世界宣教の日と定められています。説教の中で詳しく触れました。

福音を宣教することは教会の大切な使命です。カトリック教会のカテキズムには、こう記されています。

「洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようにお命じになりました。福音が伝えられてこの秘跡を願うことの出来る人々の救いのためには、洗礼が必要です」

同時にカテキズムは、「神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」とも記され、望みの洗礼や、洗礼を受けずになくなった幼児の救いについて、神ご自身の御手の中にあるいつくしみによる救いの可能性にもふれ、詳しく解説されています。是非一度、カテキズムの1257番以降をご覧ください。

わたしたちは、すべての人が洗礼の恵みにあずかるように目指して、福音を広く伝えていく努力を続けていかなければなりません。ですから教会にとって福音宣教は、欠かすことのできない務めであります。

さて昨日、10月16日、ベタニア修道女会の初誓願式と終生誓願式が行われました。例年であれば、修道会の本部がある徳田教会で行われますが、今年は新型コロナの感染症対策のため、広いスペースでと言うことで、東京カテドラルで行われました。

初誓願を宣立されたシスターフランシスカ齋藤美紀さん、終生誓願を宣立されたシスターテレサ川鍋真澄さん、おめでとうございます。それぞれ派遣される現場で、福音をその言葉と行いであかしされますように、活躍を期待しています。

ベタニア修道女会は、東京教区立の修道会です。当時東京を含む日本の再宣教を福音宣教省から委託されていたパリ外国宣教会のフロジャック神父様が始めた社会福祉の事業がうみだした姉妹たちの会が発展し、1937年に教皇庁布教聖省(現在の福音宣教省)の許可のもと東京のシャンボン大司教によって認可されたものです。詳しくは、ベタニア修道女会のホームページをご覧ください。

教会は、例えば教区などの単位に分けられ、それぞれが司教などの教区長によって司牧されています。一見、さまざまな修道会や宣教会が、それぞれの事情で勝手に活動しているように見えますが、教会法の定めに従って教区長の認可がなければ、その地域で活動することはおろか修道院を作ることも出来ません。ですから、ある意味、すべての修道会や宣教会は、教区長の招きによって教区内に存在しています。多くの修道会や宣教会は、教区長が海外から招いたものですが、中にはベタニア修道女会のように国内で創立された修道会も少なくありません。いくつご存じでしょう。東京教区にも、複数のそういった、日本国内で誕生した修道会が働いておられます。

以下、本日10月17日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげた、年間第29主日公開配信ミサの説教原稿です。
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年間第29主日・世界宣教の日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月18日前晩

教会は10月の終わりから二番目にあたるこの主日を、毎年、「世界宣教の日」と定めています。教会の最も大切な使命である福音宣教への理解を深め、その活動のために祈る日であり、また世界中の教会が、福音宣教にあって互いに助け合うための献金の日でもあります。

バチカンには福音宣教省という役所があり、日本のようにキリスト教国ではない地域の教会を管轄しています。その福音宣教省には教皇庁宣教事業と名付けられたセクションがあり、この世界宣教の日に集められた世界中の献金を集約し、宣教地における教会の活動を資金的に援助する事業を行っています。各国にはこの部門の担当者が司教団の推薦で聖座から任命されており、日本の教会では、立川教会の門間直輝神父様が、日本の代表として教皇庁宣教事業の活動をとりまとめておられます。昨年は日本の教会からの献金が、福音宣教省の指示に従い、インドの教会活動の援助などに使われたと聞いています。

さて、教会にとって福音宣教は最も大切な使命の一つであります。あらためて引用するまでもなく、例えば、マルコ福音書の終わりには「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活されたイエスによる弟子たちへの宣教命令が記されています。

第二バチカン公会議の教会憲章は、その冒頭で、「諸民族の光はキリストであり、そのため聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げ、教会の面に輝くキリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む (1)」と、教会に与えられた福音宣教の使命を再確認しています。

本日の第二朗読、テサロニケの教会への手紙でパウロは、「わたしたちの福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」と記しています。同じパウロは、コリントの教会への手紙に、次のように記していました。

「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(1コリント1章17節)。」

もちろんわたしたちは、何かを信じようとするとき、論理的に構築された事実を理解し、十分に納得した上で、その次の決断を下します。十分に納得するために、さまざまな知識を積み重ねていきます。もちろんそういった知識の積み重ねの重要さを否定することは出来ませんが、しかし、パウロは、そういった知識の積み重ねを、「言葉の知恵」と言い表します。

テサロニケの教会への手紙では、「ただ言葉だけによらず」と記し、コリントの教会への手紙では「言葉の知恵を用いずに」と書いています。福音は積み重ねられた知識によってだけではなく、ほかの方法でこそ告げられなくてはならないと指摘しています。

それは、わたしたちの伝えようとしている福音が、イエスそのものであり、イエスはわたしたち人間の知恵と理解を遙かに超える存在であるからです。すなわち人知の積み重ね、言葉の知恵を遙かに凌駕する存在だからであります。

そのことをイエスご自身は福音の中で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と表現します。

すなわちこの世の価値観によって構築された世界と、神の価値観によって構築される世界は、全く異なる存在であって、神の価値観に基づく言動は、この世の価値観ではその意義を計ることが出来ないからにほかなりません。その二つを無理に一緒にしようとするとき、神の価値観に基づく言動は、妥協のうちに失われてしまいます。

それでは言葉の知恵によらないイエスの存在そのものは、どこで知ることが出来るのか。

パウロは、コリントの教会への手紙でそれを、「キリストの十字架」であると言い切ります。同じことをパウロはテサロニケの教会への手紙では、「力と、聖霊と、強い確信」と言い表します。

キリストの十字架は、神ご自身が、自ら創造された人間のいのちを愛するがあまり、自らその罪科を背負い、究極の理不尽さの中で、自らをご自身への贖罪のいけにえとされた事実、すなわち神の愛の目に見える行いそのものであります。

ですからパウロは、テサロニケの教会の人々が、「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」を神に感謝します。キリストの愛を、目に見える形で生き抜いている教会の姿への感謝です。

わたしたちはキリストの十字架というもっとも強烈な神の愛のあかしを目の当たりにして、神の愛の価値観に虜にされ、その神の愛の価値観に基づいて生き、語り、行動することを通じて、福音をあかししていくのであります。

教皇フランシスコは、本日の世界宣教の日にあたって、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と言うタイトルでメッセージを発表されています。

教皇は特に、感染症の非常事態に直面しているわたしたちは、「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです」と記しています。

その上で教皇は、そういった体験を通じてわたしたちは、「自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。・・・皆でともに舟を漕ぐよう求められていて、だれもが互いに慰め合わなければならないのだと」と、共通の理解を持ち始めていると指摘します。世界的な規模での連帯の必要性に、わたしたちは気がつかさせられています。

こうした状況のなかにあるからこそ、教会は福音宣教の必要に目覚め、さらに取り組まなくてはならないと教皇は指摘し、次のようにメッセージで述べています。

「宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へとわたしたちを変えるのです」

教会共同体は、未知の感染症の状況の中でどのような道を歩むべきなのか迷っています。すべてのいのちを守るために、これまで慎重な道を選択してきました。こうした状況にあっても、いやこうした状況だからこそ、わたしたちにはそれぞれの生きる場での福音宣教者となることが求められています。不安が渦巻く困難な状況のなかにあっても、だれひとり忘れられてはいないのだ、神から心をかけられないいのちはありえないのだ、愛されていないいのちはないのだと、声を大にしてこの社会のただ中で叫びたい思いであります。

世界宣教の日に当たり、あらためて、「だれを使わすべきか」と問いかける神の声に気がつきましょう。そして自信を持って、「私がここにおります」と応えましょう。日々の生活の中で、自分が生きる姿勢、人と関わる姿勢、配慮の心、そして語り記す言葉をもって、愛といつくしみそのものであるイエスの福音をあかししてまいりましょう。