大司教
四旬節第一主日@東京カテドラル
2020年03月05日
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、東京教区では3月1日と8日の『公開』のミサの中止を決定しています。詳細については、この投稿の前の二つの投稿をご確認ください。(公示へのリンクと、補足説明のリンク)
3月1日と8日ついては、主日のミサにあずかる義務を免除いたしましたが、教区共同体の主日におけるともに祈りを捧げる務めと、祈りのうちに一致するために、また霊的に聖体を拝領することでキリストとの内的一致にあずかるために、主日の午前10時、カテドラルで捧げられるミサをインターネットで放映することにいたしました。
ミサは東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂で捧げられ、構内に修道院のある師イエズス修道女会と近隣に修道院のある聖ドミニコ宣教修道女会のシスター方数名に、お手伝いいただきました。
また映像を作成するにあたっては、字幕などの課題をクリアして作業を進めてくださった、関口教会の信徒の方に感謝いたします。
以下、当日のミサの説教の原稿です。
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今年の四旬節は、これまで経験したことがない四旬節となってしまいました。新型コロナウイルスの感染拡大をなるべく緩やかのものとするために、この二週間ほどが最も重要な期間であるという専門家会議の見解を受けて、主日のミサをその期間に限って非公開とすることを決めました。
ミサの中止という言葉が一人歩きしていますが、教区共同体という視点から見れば、ミサは続けられています。中止とされているのは公開のミサですが、司祭は主日の務めとして今日もミサを捧げており、そのミサは、たとえ「信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為」として、共同体の公のミサであります。
とはいえ、感謝の祭儀は「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点で」ありますし、「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサにあずかることと、聖体を拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって欠くべからざる重要なことであります。
その意味で、現在のような状況は、あってはならないことでもあります。未知のウイルスからの感染を避けるために、わたしたちはしばらくの間、集まることを止めているのですが、それは決して共同体を解散したという意味ではありません。やむを得ない状況の中で集まり得ないときにも、共同体は存続し、ともに主の日に祈りを捧げる義務は消失していません。
また教会の伝統は、聖体拝領を通じてキリストとの内的な一致を目指すために、秘跡を通じた拝領と、霊的な拝領の二つがあることも教えています。
こうやって映像を通じてともに祈りを捧げるとき、またそれぞれの家庭で祈りを捧げるとき、それはひとり個人の信心業なのではなく、キリスト者の共同体のきずなのうちにある祈りであり、その祈りのうちにあって、ぜひキリストとの一致を求めて、霊的に聖体を拝領していただければと思います。
この不幸な状況は、同時に、わたしたちに様々な信仰における挑戦を突きつけております。ちょうど主イエスが、その公生活を始めるにあたり40日の試練を受けられたように、わたしたちもいま、復活の喜びに向けて心を整える40日間にあって、大きな試練に直面しております。
先ほど朗読された福音によれば、40日の試練の中で、イエスは三つの大きな誘惑を受けておられます。
まず空腹を覚えた時に、石をパンにせよとの誘惑。次にすべての権力と繁栄を手にすることへの誘惑。そして神への挑戦の誘惑。この三つの誘惑が記されています。
第一に、人間の本能的な欲望や安楽にとどまることへの願望。第二に、権力や繁栄という利己的な欲望。第三に、人間こそこの世の支配者であるという思い上がり。
悪魔からの誘惑とは一体どういうことか。それは、神から離れる方向へと人をいざなう、さまざまな負の力のことでしょう。そういう誘惑はどこからか降りかかってくるのかといえば、実は、外からやってくるものではない。その多くは、結局のところ、わたしたち一人ひとりの心の中から生み出されている。わたしたちの心の反映であるように思います。
わたしたちがいま直面している試練はどうでしょう。
東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコは、「わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています」と述べて、わたしたちが視点を、自分から他者へ移すようにと、むなしく輝く虚飾のシャボン玉を打ち破って外へ出向くようにと呼びかけられました。
その上で教皇は、そのために必要なことは、「知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です」と指摘されました。
得体の知れないウイルスによる感染症が蔓延しつつある現在、感染の事実や発症の実態が目に見えない度合いがとても強い今回のコロナウイルスの感染拡大ですが、そのためにどうしてもわたしたちは疑心暗鬼の暗闇の中に閉じ込められたような気分になってしまいます。
確かに慎重な感染対策を行って、一人ひとりの身を守る行動は不可欠ですし、実際教会はいまそうしているわけですが、それが同時にわたしたち一人ひとりの心の内にも防御の「壁」を築き上げる結果になっていないでしょうか。
心が守りの姿勢になるとき、どうしてもその防御の「壁」はより堅固なものになり、自分を中心にした心の動きに、とらわれてしまいがちになります。それこそ悪魔の誘惑であります。
教皇は、「知恵と勇気をもって」行動せよと呼びかけます。
教皇は、「無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢」をもって、いのちを守る姿勢を証しせよと呼びかけます。
教皇は、「実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度」が必要だと呼びかけます。
2009年に新型インフルエンザが蔓延したとき、日本の司教団の部落差別人権委員会はメッセージを発表して、次のように指摘していました。
「「感染源」という発想から感染者探しにエネルギーを注ぐと、たくさんの「容疑者」を作り出していく危険があります。・・・感染症対策という名で社会防衛策がとられると、菌やウィルスよりも人々の間に不安や恐怖が伝播して偏見や差別を社会の中で醸成していく危険があります」
これもわたしたちが悪魔の誘惑に屈して築き上げてしまう心の防御の「壁」のなせる業であります。
わたしたちは体の健康を守るための防御壁を必要としていますが、その壁が、心の中にまで防御の「壁」を築き上げないように心したいと思います。
「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、パンの必要性を否定をしてはいません。しかしイエスは、それよりも重要なものがあるのだとして、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と述べられています。
人は、自分のいのちを守るためにパンを必要とするが、それ以上に、神の言葉、すなわちすべてのいのちを守るための神の一人ひとりへの思いが実現することこそが、人を生かすのだ。
他者への思いやりの心は、単なる人間としての優しさに基づいているのではなく、神の言葉を実現させたいという信仰における確信に基づいています。その確信は、神ご自身が大切に思われているすべてのいのちに対する思いやりの心、豊かな想像力を持った配慮を、わたしたちに求めています。
この困難な時期、教会共同体においてつながっている兄弟姉妹に思いを馳せ、そのつながりの中でわたしたちは一致へと招かれていることをあらためて思い起こしましょう。そして体の防御の壁が心の「壁」になってしまわないように、神が愛されるすべてのいのちへと、わたしたちの心の思いを馳せましょう。
(「司教の日記」2020年3月3日より)