教区の歴史
本郷教会ペトロ祭ミサ説教
2013年06月23日
2013年6月23日 年間第12主日 本郷教会にて
説教
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9・23)
非常に厳しいお言葉です。イエスは、ご自分の受難、死、そして復活の予告をした直ぐ後にそのように言われました。この言葉は、イエスの受難と復活という文脈のなかで読み取らなければなりません。
イエスは弟子となるものに、各々自分の十字架を背負ってイエスに従うことを求めています。しかし、自分の十字架を担うものはキリストの復活にも与ることになる、とイエスは教えています。
ところでイエスは次のようにも言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
この言葉はよく教会の掲示板などに掲げられています。実際、この本郷教会の玄関の掲示板にもこのイエスの言葉が出ています。
もし、掲示板に、「疲れた者、云々・・・」と言う聖句ではなく、いきなり、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)と言う聖句が掲げられていたら、それを読んだ人は怯(ひる)んでしまい、「教会にいってみよう」とは思わないだろうと想像します。
人が生きるとは大変なことです。人生には四苦八苦の苦しみが伴うのです。人は安らぎを求めているのです。そのような人にいきなり「十字架を担いなさい」と言うのは、酷(むご)いことです。
しかし、「十字架を背負ってついてきなさい」と言われる方が、また、疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とも言われました。
さらに続けて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・29-30)と言われたのです。
十字架と軛は同じでしょうか?似てはいますが同じであるとはいえないでしょう。しかし、それが重荷であり苦悩であり、苦痛である、と言う点は共通しています。
「十字架を担いなさい」といわれた同じイエスが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」といわれたことをわたくしは深く心に留めたいと思います。
今日は本郷教会の保護の聖人ペトロをお祝いする、本郷教会ペトロ祭の日です。
受難の予告を聞いたペトロは、言いました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています。」(ルカ22・33)いわば大見得を切ったのです。
しかしその結果は惨めでした。イエスの予告通り、ペトロは鶏のなく前に三度、「イエスを知らない」と言ってしまったのです。ペトロは自分の弱さを知りました。そのペトロをイエスは赦します。イエスの愛に包まれ、ペトロは深く悔いあらため、ローマで殉教の最期を遂げました。
人生は苦労の連続であり、労苦はまるで人生の軛のようです。しかし、イエスはいわれました。
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
神の御心にしたがってそれを担いささげるときに、それはイエスの過越の神秘につながる愛の行為となります。
使徒パウロも言っています。「今わたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1・24)
どうか主イエスよ、あなたがともに担ってくださる軛は負いやすく軽いことをさとらせてください。わたしたちが自分の十字架を背負うことを通して、死からいのちへの過越の神秘を深く悟ることが出来ますように。アーメン。