教区の歴史
豊島教会堅信式説教
2017年11月26日
2017年11月26日、王であるキリスト
説教
今日は、「王であるキリスト」の祭日でして、ミサの中で堅信式が行われます。
主イエス・キリストは、その人類の歴史の最後の日、王として、わたしたちに対して最後の審判を行う、という教えが、今日語られています。
わたしたちは、それぞれ、自分の生涯の行いについて、王であるキリストから、裁きを受けなければなりません。その裁きの基準というのは何であるかと言いますと、4度も繰り返し言われていますが、「困っている人を助けたかどうか」ということが、裁きの基準になっています。
「飢えている人に食べものを与える」、「渇いている人に飲みものを与える」、「着るものがない人に衣服を与える」、「病者を訪問する」、「寝るところがない人に宿をお貸しする」、「牢(ろう)につながれている人を訪問する」。この6つの善い行いをしたかどうかということが、最後の審判のときの裁きの基準になります。
一年前の王であるキリストの祭日は11月20日であり、その日は、「いつくしみの特別聖年」が終了する日でした。
フランシスコ教皇様は、いつくしみの特別聖年という特別な期間を設けられて、「わたしたちの神様は、いつくしみ深いかたですから、「たしたちも、主イエス・キリストに倣い、いつくしみ深い者でありなさい」とお教えになりました。そして、「いつくしみ深い行いとは何であるか」ということを、具体的にお話しになりました。
そのいつくしみのみわざには、7カ条ありました。もっとも、正確に言うと、14カ条になりますが、14をふたつに分けて7つずつ、身体で行う善いわざ、精神で行う善いわざとに分けました。身体で行う善いわざは、いま申し上げた6カ条と、7つ目に「死者を埋葬する」ことが加えられています。
そして、精神的ないつくしみのわざは、次の7カ条です。
「疑いを抱いている人に助言すること。」
「無知な人に教えること。」
「罪人を戒めること。」
「悲しんでいる人を慰めること。」
「人から侮辱されたときにゆるすこと。」
「煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶこと。」
「生者と死者のために祈ること。」 このようになっています。
「この14カ条を実行してください」と教皇様が言われたのです。
神様が、わたしたちにお望みになっていること、それは、いつくしみ深い者であるということです。そして、いつくしみ深い者であるかどうかということは、人間、心と体から成り立っているものでして、心と体は、はっきりと分けることができませんが、「心と体の両方を使って、毎日、いつくしみ深い者であるように努めなさい」という教えです。
最後の日、人類の歴史で言えば、主イエス・キリストの再臨の日、個人の歴史で言えば、人生の最後のとき、死ぬとき、わたしたちは審判をうけなければならない。「どれだけ、神様のいつくしみを実行したか」ということが、基準になります。そして、「飢えている人に食物を与えるということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ」と言われました。少し考えてみますと、どうしてそうなのかという気がしないわけでもありませんが、はっきりとそのように言っておられます。
神様自身は、飢えたり、渇いたりすることはありません。着るものがないから困るということはない。しかし、わたしたち人間は、世界中の現実を見れば、多くの人が、毎日、食べるものをきちんと与えられていない。着るものもない。今夜、寝るところもない。
そのような方がたくさんいらっしゃる。そのような人のためにするということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ、と言われた。実に、胸に迫るようなお言葉です。
さて、わたくしは、2000年9月3日に、東京大司教に就任いたしました。そして、間もなく、12月16日に、次の大司教さんと交代いたします。
就任したときに、決意表明を行いました。それは、どのようなことであったかと申しますと、この東京教区という信者の共同体は、人々に開かれた、温かい、潤いのある、そのような教会になりたい。困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人、傷ついている人、落ち込んでいる人、人生の意味に戸惑っている人、寂しい人などが、自分の場所を見いだす、ほっとする、安らぎを与えられる、慰め、喜びを見いだす、そのような教会、そのような人々の交わりとなるように努めたいという内容です。
もちろん、既にそうなっているから、みなさんは信者になった。しかし、多くの人は、心の飢えを持っています。そのような人々に応える、そのような教会になりたい。そのために、わたしたち自身の間で、お互いに受け入れ合い、愛し合い、助け合う、そのような交わりが出来ていなければならない。もちろん、出来ていますが、非常に足りないと思う。
あのような人々のようになりたい。あちらに行けば、わたしは何か助けられる。そのように思っていただけるような教会になりたい。そのために、力を尽くしますから、みなさまも、どうぞ、助けてください。神様、この願いを実行できるように、わたしに力をお与えください。そのような祈りを献げました。
教皇様に辞任をお願いして、許可されましたので、わたしは東京教区の仕事から離れます。
この5年間、隣のさいたま教区の責任者も兼務していますので、両方は大変だろうから、より負担の重いところは終わってもよいが、あなたは残った方を、しっかりしなさい、ということだろうと思っています。
それから、東京教区に所属する引退司祭、名誉司教であることには変わりありませんので、みなさまとまったく関係のない存在になるわけではありません。
われわれは、すべて、いつか神様の前に出て、裁きを受けなければならない。お前はよくやったと言っていただけるような、自分でありたい。
大変微力であり、罪深い者でありますが、それでも、神様のいつくしみに信頼し、少しでも神様のいつくしみを実行する者として、歩んで行きたいし、皆さまも、そうしていただきたいと、心から願っています。
日本の教会は、400年、500年と長い歴史を持っています。なかなか、わたしたちの信仰が、人々に伝わっていかない。他方、自分がキリスト信者であると自覚していない人であっても、主イエスが教えているような善いこと、困っている人を助けるということを、多くの人々が実行しています。教会に来ない人の方が、かえって、よくそのようなことをしているかもしれない。人間の価値はどこにあるのかというと、どれだけ、神のいつくしみを実行したかどうかというところにあります。
ですから、わたしたちは、もっと心して、神のいつくしみを実行する者となりますよう、聖霊の助けを願いましょう。
今日、堅信を受けられるみなさん、堅信を受けるということは、主イエス・キリストの教えを実行する者となるということです。
イエス・キリストという名前を使わなくても、イエス・キリストがおっしゃっているいつくしみのわざを、どうか、日々実行するように心掛けていただきたいと思います。