教区の歴史

教区の歴史

志村教会献堂50周年記念ミサ

2017年11月12日

2017年11月12日、志村教会

[聖書朗読箇所]

説教

いま読みました、ヨハネの福音で、主イエスは言われました。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。
わたしたちは、エルサレムから遠く離れ、2千年のときを経過して、東京の、ここ、志村の教会で、神への礼拝を献げています。

イエス・キリストという土台の上に建てられた、わたしたちの神の民、そして、聖霊がお住みになる、神の神殿を、私たちは造り、そして、教会としての歩みを続けております。
わたしたちは、ナザレのイエスという、地上の生涯を送られた人と、その弟子たちの造られた教会、聖霊降臨のときに、聖霊の注ぎを受けて造られた教会を継続させ、発展させています。教会は、イエス・キリストに倣い、イエス・キリストの霊に倣って歩む、神の民です。
とは言うものの、人間の集まりである、教会は、いつも、過ちを犯し、罪に陥ってきましたし、不適切な状態に陥ることも、しばしばありました。しかし、わたしたちの教会は、いつも、新しく生まれ変わるという、努力も繰り返してきました。

50年前、第2ヴァチカン公会議が開かれました。東京教区でも、教区大会という、特別な刷新のときを持ちました。日本のカトリック教会は、福音宣教推進全国会議を開催し、イエス・キリストの望まれる教会に、少しでも近づこうという努力を繰り返してきました。

イエスは、当時の宗教指導者、具体的には、祭司、律法学者、ファリサイ派の人々と呼ばれる人々鋭く対立した人です。「歯に衣を着せない」という言い方がありますが、正に、痛烈に、彼らを批判したために、彼らの憎しみを買い、そして、最後、十字架上で処刑されるという一生を終えた人です。
彼らの言うことは、守り、行いなさい。しかし、彼らの言動に見習ってはならない。言うだけで、実行しないのだ。彼らは、白く塗った墓のようなものだ。外側は綺麗だが、中身は醜いものでいっぱいだ。そのようなことを、堂々と、本人たちの前で言った。

いまのわれわれはどうでしょうか。イエス・キリストの教えを頂いていますが、その教えを、どれだけ実行できているでしょうか。教会は、ひとつの組織になりましたので、組織を維持したり、管理したりという仕事が、必要となります。わたしは、そのような仕事をしてきました。
イエス・キリストが教えたように生き、教えたことを実行する。それが、わたしたちの、生涯かけての使命です。

教皇フランシスコは、特に貧しい人に心を向けるようにと言われました。貧しい人のための祈りの日というものを定められました。来週の日曜日が、その日に当たると思います。
貧しい人は、たくさんいる。経済的に貧しい人、この日本にも、そのような方がいます。精神的に貧しい人は、もっと多いです。迷っている人、生きがいを失っている人、どうすれば良いか、分からない人、そして、孤独に苦しむ人がたくさんいます。
日本という国は、非常に驚くことですが、自殺する若い人が、非常に多いです。どうして、若い身空で、毎日楽しく過ごせば良いのに、どうして、死ななければならないのでしょうか。追い詰められた、精神的に行き詰まったという状況があるのではないでしょうか。

イエス・キリストが、今ここにいたら、その人たちに向かって、何を言い、何をしたのでしょうか。その、イエスの役割を、わたしたちは、担わなければなりません。自分たちのことは置いて、そのような人々の声に、耳を傾けなければならないと思います。

1987年に、第1回福音宣教推進全国会議が開かれました。その時わたしたち教会は、開かれた教会、困っている人、悩んでいる人、迷っている人に、開かれた教会でなければならないと考えたのです。どのような人も、自分の場所を見いだすことができるような、そのような教会になろうという決意をしました。
また、思い起こせば、ベネディクト16世が即位されたときに、現代の荒れ野ということを言われて、「本当に、この世界は、人々にとって、生きづらい世界になっている。わたしたちは、荒れ野にあるオアシス、泉のような教会になっていこう。もっと、もっとそうなろう」ということを呼び掛けられました。

この東京というところは、どのようなところでしょうか。わたしは、いまの住所に17年間住んで、本当にこちらは生きづらいところだと思いました。生まれて、一番長く住んだところは故郷であって、そちらには、高校を卒業するまでの18年間、後は転々として、何回転居したのかを数えてみましたら、20回でした。
人々の安らぎ、救い、そして、自分のいる場所が見いだせる、そのような、わたしたちの教会でありたい。ところが、教会に行っても、何をしに来たのだという顔をされる、そのような声があります。

どうか、志村の教会は、これからも、誰でも歓迎される、そのような教会として、成長していただきたいと、心から願っております。今日は、おめでとうございます。