教区の歴史

教区の歴史

復活節第二主日説教

2017年04月23日

2017年4月23日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、復活の第二主日です。
聖ヨハネ・パウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と名付けられております。
2015年12月8日から、昨年の11月20日、「王であるキリスト」の日までの1年余り、「いつくしみの特別聖年」をわたしたちは祝いました。
神はいつくしみ深い方であることを深く学び、そして、わたしたちもいつくしみ深い者であるようにと努める、特別な1年でした。
神のいつくしみを知り、いつくしみに生きるということは、わたしたちキリスト者が、毎日心掛けるべきことです。

イエスの弟子たちは、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストから神のいつくしみを学び、そして、キリストの復活という出来事に出会って、わたしたちの教会を創立しました。

いま、読まれました福音は、ヨハネによる福音の20章です。ヨハネによる福音が伝えているところを、今日、分かち合いたいと思います。

「週の初めの日の夕方」という言葉から始まっております。「週の初めの日」というのは、今日(こんにち)でいえば、日曜日に当たります。
弟子たちは、どちらかの家に集まって、その家に鍵をかけていた。それは、ユダヤ人が恐ろしかったからです。イエスの身の上に起こったこと、それは、非常に残酷な、恐怖を起こさせる出来事でした。弟子たちは、イエスを裏切り、見捨て、逃げてしまいました。
どちらかの家に集まって、肩を寄せ合っていたのでしょう、家に鍵がかかっていたにもかかわらず、イエスが入って来られて、
「あなたがたに平和があるように」
と言われた。

どのようにして、扉を通って来たのでしょうか。

「あなたがたに平和があるように」。
この言葉を、司祭はミサを献げるときに、何度も唱えます。そして、わたしたちも、手紙を書くときなどに、挨拶として使っている言葉です。
「平和」とは、旧約聖書以来、使われている、非常に重要な言葉であり、欠けたところのない神のみこころが、十分に実現している状態であるとされています。

この場合、弟子たちにとっての「平和」は、何であるか。ユダヤ人に逮捕されたり、処刑されたりするという恐れもあったでしょうが、恐らくは、何よりも、主イエスと離れている状態、イエスが取り去られてしまった。そして、自分たちは彼らを見捨て、彼らはイエスを見捨ててしまった。いわば、「裏切ってしまった」という罪の意識、後ろめたさが、彼らの平安を奪っていたのではないかと思います。
「あなたがたに平和があるように」
とイエスは言われたので、彼らの心は平和で満たされました。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」
とあります。

そして、更に、イエスは彼らに聖霊をお与えになりました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。

イエスから、罪の赦しを受けた弟子たちは、更に、人の罪を赦すことができるように、聖霊を受けました。

さて、その大切な場面に、12人の中で1人の弟子、トマスは居合わせなかった。疑い深いトマスと言われますが、トマスはイエスのご出現を信じなかった。トマスは、それから8日後、つまり、今日の典礼は復活の日から2週間目を想定した日ですが、トマスの前に現れて言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
トマスは、イエスに答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。

さて、今日の第二朗読におきまして、最初の教会の人たちのことが述べられています。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

わたしたちは、すでに、復活の出来事があってから、2千年以上経過しているときの信者です。ペトロの手紙の相手となっている人たちは、復活の出来事を信じている神の民、いつ頃のことでしょうか、1世紀か2世紀の初めか、大部分の人が、地上のイエスに出会ったことのない人たちであろうと思われます。
イエスに会ったことがない、復活したイエスに出会ったことがないのにもかかわらず、イエスを信じている、そのように著者が言っている。わたしたちの方は、更に、そのようなことになる。

わたしたちは、復活を信じ、キリスト者となっております。現代において、復活を信じて生きるということは、更なる努力が必要です。たびたび、神の言葉、キリストの言葉を聞き、ご一緒にお祈りし、励まし合い、困難の中に、神の導き、復活の光を見つけるように努めなければならないと思います。

わたしたち教会は、キリストの復活を告げ知らせる、神の民です。キリストが復活した、死と罪に打ち勝ったという信仰を、人々に表す団体、イエス・キリストが、いまも復活して、わたしたちのところに来てくださるという信仰、イエス・キリストの復活の現存、復活したイエスがいてくださるという信仰を表す、そのような印である教会です。

わたしたちを見て、イエス・キリストの復活の印があると、多くの方が見てくださるような、わたしたちでありたい。
そのためには、わたしたちは、よく祈る神の民、神のいつくしみを実行する神の民、お互い助け合っている神の民、最初の教会のような教会でなければならないと思います。