教区の歴史

教区の歴史

世田谷南宣教協力体合同堅信式説教

2015年10月18日

2015年10月18日 年間第29主日、上野毛教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

先週の日曜日、カテドラルでは「子どものミサ」がささげられました。ミサのテーマは「誰が一番偉いのか」で、福音朗読の箇所はの個所はマルコ9・34-37でした。

この個所の内容は、今日のマルコ福音書の内容と重なっています。イエスは言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりまさい。」(マルコ9・35)

イエス自身、仕える者として、神の身分でありながら、自分を空しくして、しもべの身分となり、へりくだって、十字架の死に至るまで父である神に仕える者、従順な者となりました。(フィリピ2・6-8)

それはわたしたちのため、わたしたち人類のため、すべての人の罪のため、すべての人の救いのためでした。

今日の福音でイエスはさらに次のように言っています。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10・45)

今日はこのイエスの言葉に焦点を当ててみましょう。

「身代金」とは何を意味しているのでしょうか。これは本来、奴隷を買い戻すために支払う代金を意味しました。しかし今の文脈では、「人を罪から解放するための神の救いの業」と考えるほうがわかりやすいでしょう。

罪をおかす人は皆、罪の奴隷であると言えます。「自分は罪人であり、罪からの解放が必要だ」という自己認識がまず必要であります。自分は罪人である、という認識がなければ、イエスを救い主として受け入れることに意味を見いだせないでしょう。

神はイエスをこの世にお遣わしました。それは罪人であるわたしたちのためです。

「わたしたちのため」の「ため」には二つの意味があると思います。まず「わたしたちの罪が原因で」という意味です。次に「わたしたちを罪から解放するために」という意味、解放するためにという目的の意味です。わたしたちを救うため、罪から解放するためです。神はイエスを人間として遣わし、罪ある人間を愛し、罪から解放します。罪からの解放する愛の行いには苦しみが伴います。

今日の第一朗読イザヤ書は言います。

「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ53・11)

人の罪を負うということは、その人のために痛みを負い、苦しみを受けることです。愛する者は愛する相手のために苦しみを受けることを避けません。

今日の第二朗読ヘブライ書は言います。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4・15)

イエスは人間として試練に会い、多くの苦悩を体験しました。イエスの苦しみの体験の原因はわたしたち人類の罪でありました。また、イエスの受難は、わたしたちの罪の解放のためでした。

わたしたちは、自分で自分の問題、罪と弱さという問題を克服できません。神の助け、めぐみが必要です。イエスは同じ人間としてそのための助け、めぐみを与えるために人となり、受難、十字架を体験します。

イエスの生涯の意味を信じて生きること、イエスの生き方に倣って歩むことがキリスト者の信仰生活であり、霊的生活です。霊的生活とは聖霊に従う生活を言います。今日は堅信の秘跡により聖霊の賜物が授けられます。それは、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心です。*

聖霊は神の愛、イエスの心です。わたしたちはイエスを通して示され与えられた恵みに感謝し、イエスの心である聖霊を受けて、神の愛=アガペーを生きるよう願いながら聖霊の導きを祈りましょう。

*この祈りの文言は以下の箇所に対応しています。
イザヤ11章1〜2節:
 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
 その根からひとつの若枝が育ち
 その上に主の霊がとどまる。
 知恵と識別の霊
 思慮と勇気の霊
 主を知り、畏れ敬う霊。