教区の歴史

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平和旬間2014 中央地区・渋谷教会「平和を願うミサ」説教

2014年08月10日

2014年8月10日 渋谷教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

浜矩子さんが先ほどの講演の最初で言われましたように、今日、年間第19主日の答唱詩篇85のなかに次のような1節があります。

「いつくしみとまことはめぐり合い、正義と平和はいだき合う。」

しかし、浜先生が言われたように、現実には」正義と平和がいだき合う」というようにはなかなかうまくは行きません。むしろ「正義と平和はいがみ合う」、「正義と正義がにらみ合う」というようになってしまいます。

戦争は多くの場合、自国の正義を主張し、自存自衛を理由に行われます。戦争は自国を守るために行われるのです。誰でも自分が一番かわいいのです。それは本能的と言っていい欲望です。対立する双方の国が同じように感じているのです。自分を守るためには相手を倒さなければならないとさえ考えます。いや考える前にそのための行動に走ってしまうのではないでしょうか。

太平洋戦争も日本帝国の自存・自衛を理由にして開戦したのでした。 

今日の「平和を願うミサ」のために選ばれた第一朗読は、「知恵の書」です。

「あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」(知恵11・25-26)

自分が存在するのは神のみ旨によるのであり、神の目に自分はかけがえのない尊い存在なのです。

この聖書の教えは平和を考えるために極めて大切です。神が自分を慈しんでくださるのなら他の人の存在も慈しんでおられます。どんな人でも、自分にとっては受け入れにくい相手でも、神はその人を、自分と同じように、大切にしてくださっているのです。このことは平和を考えるときに心に刻まなければなりません。

平和を考えるとき、神はすべての存在を慈しまれる、というメッセージは大切な要点ではないかと思います。

誰でも大切でなくてはならないかけがえのない存在です。それなのに人は何故、憎みあい傷付け合うのでしょうか。その深い闇があります。

主イエスは憎しみにはとらわれませんでした。イエスは十字架によって「敵意という隔ての壁」を取り壊されたのです。

今日の第二朗読を思い出しましょう。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2・14-16) 

中近東では、同じ神を信じているはずの人々が争い合い、中近東で戦闘を繰り返しています。どうしてそのようなことになるのでしょうか。

しかし、わたしたちは、それにもめげずに、十字架にかかった主イエスを信じ、平和の使徒として証を立てたいと望みます。

宗教とは敵味方を超えるものです。第二次世界大戦の悲しい結果を思い起こしながら、敵味方を超えて、すべての戦争犠牲者の平安を祈りましょう。

まず日本帝国の側で戦争に参加し、あるいは敵の攻撃にあって亡くなられたすべての犠牲者のために祈りましょう。

そして日本からの攻撃によっていのちを落とされ、傷ついてすべての方々のために祈りましょう。

1986年の東京カテドラルでの日本司教協議会会長白柳誠一大司教の説教を繰り返します。

「わたしたちは、この戦争に関わったものとして、アジア・太平洋地域の二千万を越える人々の死に責任を持っています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します。

わたしたちは、このミサにおいて、アジア・太平洋地域におけるすべての戦争犠牲者の方々の平安を心から祈り、日本が再び同じ過ちを犯さないだけでなく、アジアにおける真の人間解放と平和に貢献するよう、教会としての責任を果たす決意を新たにします。」 (『戦争から何を学ぶか』新世社、より)

この決意をわたしたちも守り行わなければならないと思います。