教区の歴史

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司祭叙階40周年記念ミサ説教

2013年11月04日

2013年11月3日 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

信仰年に際して教皇フランシスコは回勅『信仰の光』を発表しました。この回勅のなかで教皇は「記憶」ということを述べています。

宗教というものは偉大な出来事の記憶から成り立っています。キリスト教はイエス・キリストの記憶、イエスとの記憶の分かち合いにより成立しました。ナザレのイエスという人に出会った人がイエスの弟子になり、その出会いの記憶を後世に伝えたのです。

今日の福音のヨハネによると、弟子たちも、天の父とイエスの関係をよく理解していなかったようです。弟子のフィリポは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(ヨハネ14・8)と言っています・そのフィリポにイエスははっきりと言いました。

「わたしを見た者は、父を見たのだ。・・・わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハネ14・9-10)

ここでイエスは父である神と一体であると宣言しているのです。

イエスが十字架の刑に処せられたのはたぶん紀元30年頃のことでした。愕然とした失意の弟子たちは復活したイエスに出会い、大いに喜び、励まされました。そして弟子たちは復活したイエスから聖霊を受け、教会が設立されました。この体験により弟子たちは、「イエスが復活し生きておられる」という確固とした強い信仰を抱くにいたりました。そしてこの信仰は次の世代へと語り告がれたのです。

使徒パウロは生前のイエスには出会っていません。彼はたぶん紀元34年頃、復活したイエスに出会います。パウロはこの体験に基づき、既に成立していた教会の指導者たちとイエスの復活の証言を分かち合いました。ペトロをはじめとする使徒たちと「イエス・キリストの記憶」を分かち合い、イエスを信じて受け入れ、自分の信仰として受け入れたのです。

しかし「ナザレのイエスは誰であるのか」という問題は引き続き論議されました。やがて迫害が終わり、325年に「ニケアの公会議」が開催され、「イエス・キリストとは誰であるのか」についての結論が出されました。この共通理解は「ニケアの信条」として簡潔な文体でまとめられたのです。

もちろん、信仰の記憶を伝える最も重要な文書は聖書です。しかし新約聖書が成立するまえから教会は信仰の体験を種々の文言にして後世に伝えてきました。いわば聖書もその伝承の部分であると言えましょう。

ニケアの信条はその後381年に、聖霊の神性を宣言する箇条を追加して「ニケア・コンスタンチノープル信条」となり、そのまま今日に伝えられています。信条とは、教会が信仰の真髄を後世に伝達させるために作成した、信仰告白のための簡潔な文言です。

ある日曜日、わたしは房総半島を車で南へ下り、鴨川教会に向かっておりました。朝8時になるとNHKでは「音楽の泉」が放送されます。何げなく聞いていてその内容がクレドと筝曲の六段のくしきつながりを解説するものであることに驚きました・・・。

 

古代の教会にとって父である神の存在は問題がありませんでした。問題はイエス・キリストです。公会議は結論しました。

Et in unum Dominum Jesum Christum,Filium Dei unigenitum. Et ex Patre natum ante omnia saecula. Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero. Genitum, non factum, consubstantialem Patri: per quem omnia facta sunt.・・・

 

ここではconsubstantialis と言う難しい用語が使われています。この言葉をニケアの信条に採用することには強い抵抗があったそうです。この言葉は聖書にはないからです。しかし言おうとしている内容は、ヨハネの福音が言っていることと同じです。

「わたしを見た者は、父を見たのだ。・・・わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」(ヨハネ14・9-10)

 

さてわたしたちの課題は、聖書とクレドなどを媒介にしてわたしたちに伝えられた信仰の記憶を、今どのようにして自分の体験とし、自分を照らす光、自分を生かす命とするのか、ということです。そしてこの信仰体験、生きた信仰の体験を、この2013年の日本において、どのように多くの人に伝え現し証していくのか、ということです。

キリシタンの時代には「六段の調べ」という日本文化のなかに信仰が定着しました。現代においてさらにどのようにしたら信仰の記憶の分かち合いをわたしたちの生活のなかに根付かせることが出来るでしょうか。

聖霊がわたしたちを照らし励まし、信仰の光を掲げることが出来るように導いてくださるよう、祈りましょう。