教区の歴史
イエスのみ心・説教
2013年06月07日
2013年6月7日 東京カテドラル関口教会にて
説教
きょう、キリストの聖体の祭日の後の金曜日はイエスのみ心の祭日です。「み心」は、かつては、「聖なる心・聖心」と書いて、「みこころ」とよんでいました。イエスの聖心は槍で貫かれたイエスの心臓によって表されるイエスの愛、本当に人間であったイエスの人間的な愛を表しています。
聖母訪問会の修道女、聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647-90)に現れたイエスは彼女に次のように告げた、と言われています。
「この心を見なさい。これは、人間を非常に愛し、人々にその愛を示すために涸れ果てるまで何一つ惜しまなかったものなのに、多くの人々から、その報いに、特に聖体の秘跡において、忘恩、不敬、さらに冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。最も辛いのは、わたしに献身した人々もそうした態度をとっていることである。したがってわたしの望みは、聖体の祭日後の翌週の金曜日に、わたしが聖体において受けたすべての辱めを償うための祝日を設け、その日には償いの心を持って聖体拝領することである。」(新カトリック大事典、「イエスのみこころ」の項目参照)
このようにして17世紀にフランスで始まった「イエスの聖心」への信心は急速に広まり、「聖心」の名をつけた修道会、学校などが数多く設立されました。
人間であるイエスは人間からの愛の応答を求めています。神であるイエスが人間の忘恩を嘆くのはおかしい、という気がしないでもありません。しかし、人間イエスには、自分の愛をわかってほしいという熱い思いがあると考えられます。旧約聖書で告げられている熱情の神の愛も、人間の背信に怒り、また心を痛める神の愛として描かれています。
実際、それほどまでに人間を愛する神に対して人は無関心であり、冷淡であり、神の心に無知でありました。
今日のルカの福音15章は、見失った一匹の羊を求めて探し回り、見つけると喜んでその羊を担いで家に帰る羊飼いの姿をわたしたちに伝えています。神にとって一人の人間はそれほど大切なのです。
旧約聖書のエゼキエルも、「失われたものを、尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」牧者を告げています。
今日の第二朗読は、罪人のために死んでくださったキリストの愛を語っています。
わたしたちが神の愛に気が付き、神の愛を知り、信じたときに、神への応答が始まります。
どうして人は神の愛を信じないのでしょうか?もし、人が、人生において誰かからかけがえのないものとして大切にされた体験がない場合に、そうなるのかもしれません。
神の愛を知るためには、人間に伝えられた神の愛、人間が実行している神の愛の体験が必要です。わたしたちキリスト者は神の愛を信じた者です。
わたしたちは自分の信じたこと、つまり「神の愛である」ということを生活のなかで実行しなければなりません。日々隣人との出会いとのなかでわたしたちはどのように神の愛を実行しなければなりません。
神の愛に生きるとは新しい人になるということです。自分のエゴイズムと闘う、ということです。エフェソ書では次のことばが心に浮かんできます。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなた方は、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦しあいなさい。」(エフェソ4・30-32)
そうできますように、そのようでありますように。
主なる聖霊、どうかわたしたちを助けてください。
アーメン。