教区の歴史
四旬節第五主日・聖パトリック祭ミサ説教
2013年03月17日
2013年3月17日 豊島教会にて
第一朗読 イザヤ43・16-21
第二朗読 フィリピ3・8-14
福音朗読 ヨハネ8・1-11
(福音本文)
[そのとき]イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ことしは、今日、四旬節第5主日が、豊島教会の保護の聖人、聖パトリック司教を記念する日である3月17日にあたります。そこで今日は英語ミサのグループと日本語のミサのグループが一緒に四旬節第5主日のミサをささげることになっていると伺っております。
皆さんご存知のように、今日は新教皇フランシスコが選出されてからはじめての主日であります。教皇フランシスコは3月19日(聖ヨセフの祭日)に就任ミサをささげ、数々の問題の山積する教会の最高指導者としの任務を開始されます。貧しい人々のための教皇として生きる決心を表明している教皇フランシスコを聖霊が導き支えてくださるよう、祈りましょう。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
羞恥と恐怖で震(ふる)え戦(おのの)いているこの女性を取り巻いて律法学者たちやファリサイ派の人々がまさに石打ちの刑を実行しようとしていたとき、イエスが言われたことばです。
このような場面を今の日本社会では想像することが出来ません。当時のユダヤの社会では事情がまったく違っていました。姦通は「罪」というよりむしろ犯罪の意味のほうが強かったと思います。大きな反社会的行為であり、集団が断罪して犯罪者を排除することになっていました。
この女性はどのような事情でこのような罪を犯すに至ったのでしょうか?相手の男性の責任はどうなるのでしょうか?福音書は何も語っておりません。
律法学者たちやファリサイ派の人々はイエスに執拗に回答を迫り、どう答えてもイエスが窮地に陥るように仕向けます。この彼らの態度にイエスに対する彼らの悪意が見え隠れしています。
彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
彼らはこのイエスの言葉を聞いて、たじろぎ、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」のです。
わたしたちは、大体において犯罪者ではありません。しかし罪人でないとは言えません。神の前に罪を犯したことにない人は誰もいません。また、異性との関係において不適切なことがないとは言い切れるひとも少ないでしょう。
「誰もあなたを罪に定めなかったのか」というイエスの問いに女は「主よ、誰も」と答えます。「罪に定める」は「断罪する、有罪判決をする」という意味です。「わたしもあなたを罪に定めない」とイエスも答えます。
しかし罪を犯してよいとは言われませんでした。そうではなく、「これから、もう罪を犯してはならない」とイエスは言われました。
わたしたちに掟を守るよう求める神は正義の神であり、「不信心と不義にたいして天から怒りを現されます。」(ロマ1・18)
しかし神はまた同時に神はあわれみと慈しみの神です。神は自らをなだめて処罰を思いとどまる、という表現も見られます。(ホセア11・8-9参照)
イエスは罪人を招き、赦す父である神を示されました。神は赦し救う神です。
罪を赦す、とは罪を犯してもよい、と認めることではありません。罪は罪、悪は悪です。
しかし、人間は闇の中に置かれ、正しいことをわきまえ知り行うことが難しい、弱い、罪深い存在です。「原罪」ということをしみじみ思い知らされます。
兄弟の罪を赦すとは、兄弟の罪の結果を共に担う、ということであります。ともにその痛みを担う、ということです。
そのような神の愛と赦しをより深く知り実行できますように、祈りましょう。