教区の歴史
市川教会ミサ説教(四旬節第四主日)
2013年03月10日
2013年3月10日 市川教会にて
第一朗読 ヨシュア5・9a,10-12
第二朗読 二コリント5・17-21
福音朗読 ルカ15・1-3,11-32
今日の福音は有名な、ルカの15章の「放蕩息子」のたとえです。
この話には、分かりにくいところ、納得できない部分があると思います。腑に落ちない部分があります。それはこの父親の弟に対する態度ではないかと思います。
弟に甘いのではないか?兄が怒るものもっともではないか?父は、このようなわがままな息子にはもっと厳しくしなければならないのではないか?甘やかしては他の人に示しがつかない、などと思いませんか?
仏教の法華経に「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」という、よく似た話があります。およそ次のような話です。
放蕩息子の話のように、ある人に、家を出て行った息子がいました。父は自分も家を出て息子を捜しまわり、あるところに、新たに立派な家を構えました。
そこへみすぼらしい男が来て食べ物を乞いました。それは変わり果てた息子であることに気が付きます。しかし父はすぐには親子の名乗りはせず、彼に卑しい業をさせて性根をたたき直し、修行がすんで、彼を自分の息子に相応しい人間に更正させてから、やっと自分が父であることを名乗り、彼を自分の跡継ぎであると認め、関係者に紹介します。
どちらかというと、仏教の話のほうが納得できます。ルカ15章の放蕩息子はしっくり行きません。しかしここで「父はおかしい、しっくり行かない」と感じる自分の心を見つめることが大切だと思います。
「イエスは徴税人や罪人と一緒に食事をしている」とファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスを非難しました。そこでイエスは彼らに向かってこのたとえ話をしたのです。怒って家に入ろうとしなかった兄はファリサイ派の人々や律法学者たちを指し、この寛大な父は天の父を指していると思われます。
イエスにとって天の父とはこの父親のような心の寛い(ひろい)、慈しみ深い方でした。
ところで、旧約聖書を読むと、どちらかといえば、神が怒りをあらわしている場面が目立ちます。神は、イスラエルが神との約束を破り、他の神を拝むなどしますと、激しく怒り、憤りを発しています。神が怒りのあまり、イスラエルを滅ぼし尽くそうとするが、モーセになだめられて思いとどまるという場面が出てきます。(出エジプト記32・7-14)
しかし旧約聖書を通してよく読んでみれば、この主なる神は同時にあわれみの神、赦す神でもあります。イスラエルの民は、次第に、神はゆるしとあわれみの神であるというメッセージを受け取るようになりました。イエスは、人を赦し受け入れる、慈しみ深い神を示しています。
ルカ15章に出てくる三つのたとえ(「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえ)は、すべて、一人ひとりの人間のかけがえのなさを述べています。どんな人でもその命はかけがえがないのです。すべての人は神の子です。誰でも人はかけがえのない存在として神に受け入れられています。
この「放蕩息子」の話は、自分を誰の立場に置くかによって読み方が変わってきます。自分が弟である場合、この話は本当に福音になります。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15・32)
父には強い喪失感、「いないという気持」があったのでした。父にとって「弟がいない」ことは、実に寂しく辛いことだったのです。神はわたしたちのことをそのように思ってくださるのです。どんなにでたらめで勝手な人間であっても、その人のことをかけがえのない大切な存在と思ってくださるのです。このメッセージが福音であると思います。
神の愛は罪のある人間、問題のある人間を受け入れ包む愛です。神は、罪を悪として退けますが、同時に、わたしたちの罪の問題を自ら引き受けたのでした。イエス・キリストの十字架がその父の心を示しています。きょうの第二朗読でパウロは次のように言っています。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(二コリント5・21)
教皇ベネディクト16世は回勅『神は愛』で神の赦す愛と十字架の関係を教えています。
二週間後に受難の主日、そして聖週間を迎えます。主イエスの受難と神の愛の神秘をより深く信じることが出来るよう祈りましょう。
(本日の福音書は、有名な箇所であり、長いので本文引用は割愛しました。もう一度聖書を開いて読んでいただけるとよろしいと思います。)