教区の歴史

教区の歴史

徳田教会主の洗礼の祝日説教

2013年01月13日

2013年1月13日 徳田教会にて

 

第一朗読 イザヤ40・1-5,9-11

第二朗読 テトス2・11-14,3・4-7

福音朗読 ルカ3・15-16,21-22(

 

(福音本文)

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。

すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降りてきて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。

「わたしの心に適う者」とは天の父の御心を完全に知り、かつ御心を実行するもの、と言う意味です。そして、天の父の御心とは、すべての人をご自分の命、ご自分の幸せに与らせること、ご自分と一致させる、ということです。

人が神の命に与るためには、聖霊によって新しく生まれ変わり、新たに造りかえられなければなりません。

イエスが洗礼を受けたのは、ご自分のためではなく、わたしたち人類のためでした。

洗礼の恵みに全人類をあずからせ、「イエス・キリストを通して、聖霊を豊かに注ぎ、キリストの恵みによってわたしたちを義とし、永遠の命を受け継ぐ者とするためでした。(テトス3・6-7参照)

イエスはわたしたちを罪から解放するために十字架上の死と復活の「過ぎ越しの神秘」をまっとうしました。

それはすべての人のあがない、救いのためでした。イエスの洗礼はこの流血の死の洗礼の先取りです。

わたしたち受けた洗礼は、キリストと共に葬られ、キリスト共に復活することを意味しています。

洗礼は生涯に一回だけのことですが、洗礼の意味する過ぎ越しの神秘は全生涯にわたって生き抜くべきキリスト者の基本的な生き方です。それは日々自分に死に新しく生まれ変わることを意味しています。

次のマザーテレサの祈りはこの生き方をよく現していると思いますので紹介します。

  イエスよ、わたしを解放してください。

   愛されたいという思いから、評価されたいという思いから、

   重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、

   好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、

   認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、

   侮辱されるという恐れから、見下される恐れから、

   非難される苦しみの恐れから、中傷される恐れから、

   忘れられる恐れから、誤解される恐れから、

   嘲られる恐れから、疑われる恐れから、

     アーメン。