教区の歴史
東葛飾宣教協力体合同堅信式
2012年11月03日
2012年11月3日 豊四季教会にて
第一朗読 申命記6・2-6
第二朗読 ヘブライ7・23-28
福音朗読 マルコ12・28b-34
(福音本文)
〔そのとき一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。〕「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
これより東葛飾宣教協力体-亀有教会、松戸教会、豊四季教会の三教会の合同堅信式を行います。30名の方が堅信を受けられます。この方々がより深く強い信仰の恵みを受けられますように祈りましょう。
またここに集うすべて皆さんが信仰を深めることができますよう、聖霊の導きを願って祈りましょう。
ご存知のように教皇ベネディクト十六世は「信仰年」を宣言しました。「信仰年」を告げる自発教令「信仰の門」で教皇はイエス・キリストを「信仰の創始者また完成者であるイエス」(ヘブライ12・2)というヘブライ人への手紙の言葉を引用し、「信仰年」を過ごすに際し、イエスを信仰者の模範に仰ぐよう勧めています。
わたしたちは、イエス・キリストを、三位一体の神の第二位の神として信じています。イエス・キリストはわたしたちの信仰の対象です。しかし「信仰年」にあたり大切なことは、イエスを信仰する者の模範とし、イエスの生涯から信仰を学ぶことであると思います。
実に、ナザレのイエスはわたしたちにとって、信仰者の最高の模範であります。イエスが「信仰の創始者また完成者」であるということは、イエスは信仰についての最高の指導者、信仰とは何であるのかを教える完全な教師という意味です。
使徒ヨハネは言っています。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17・3)
また、ヨハネの福音は「イエスは、道、真理、いのちであり、イエスによらなければ誰も父のもとに行くことができない」と教えています。(ヨハネ14・6参照)
イエスの生涯は父への信仰の生涯でありました。イエスの父への愛は父への信仰に基づいています。そして、父を愛すること、それは父のみ旨を行うことに他なりません。父のみ旨とは隣人を自分のように愛することであります。
ところで、わたしたちにとって「隣人を自分のように愛すること」は決して容易なことではありません。
わたしたちは自分の隣人のことをどれだけ理解しているでしょうか?わたしたちは自分自身のことを、理解してもらっていないと感じることはありませんか?隣人を良くは理解できない場合にどのようにして隣人を愛することができるのでしょうか?
難しい課題です。わたしたちはこの点において謙虚でなければなりません。
イエスにとって神を愛するとは隣人を愛すること、隣人とは自分以外のすべての人、敵をも大切にすることを意味していました。
イエスは父のみ旨に従い、安息日に、病人や体の不自由な人々の癒しを行いました。イエスにとって、隣人を愛するとは、安息日であっても病気で苦しんでいる人を病から解放することでした。
その結果、安息日を汚したという冒瀆の罪を犯したとされ、ユダヤ人の指導者である律法学者やファリサイ派の人々を敵に回すことになり、十字架に追い詰められることになりました。
イエスにとって隣人を愛するとは、苦しむこと、十字架を担うことを意味していました。そしてイエスはわたしたちに向かい、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)と言っています。
イエスは敵への愛を貫き、十字架上で神から見捨てられるような苦しみを耐え忍ばれたのでした。そしてわたしたちの「永遠の大祭司」となられたのです。今日の第二朗読、ヘブライ人への手紙が教えている通りです。
わたしたちは日々の労苦、苦しみ悲しみ、思い通りにならない数々の事柄を、大祭司イエス・キリストの犠牲にあわせて、天の父へお献げいたしましょう。
信仰年の課題、福音書を学びイエス・キリストをより深く知ることであります。
自分を捨てて隣人を大切にすることを学ぶことであります。聖霊の助けを求めて祈りましょう。