教区の歴史
トマス・アクィナス星野英一氏葬儀ミサ説教
2012年10月03日
2012年10月3日 東京カテドラル関口教会にて
第一朗読 ローマ14・7-9,10-11
福音朗読 マタイ11・25-30
(福音本文)
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい、そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
トマス・アクィナス 星野英一さんの葬儀のミサにおいてただいま読みあげられた主イエスの言葉であります。
星野さんは若い学生のときに洗礼をお受けになり、長い年月にわたり、敬虔なカトリック信者として歩んで来られました。
日曜日には所属の教会のミサに欠かさず参加される熱心な信者でいらっしゃいましたし、カトリック学生の指導に努められ、さらにカトリックの学識経験者として日本カトリック司教協議会の要請にこたえて多大なる貢献をされたお方です。この機会をお借りしまして心からの感謝をおささげいたします。
星野さんは病気療養中にイエス・キリストとの出会いを体験され、キリスト信者となり、キリストを人生の師と仰ぎ、キリストに従って人生を歩まれ、キリストの教えと生涯から光と安らぎ、慰めを受けておられました。
星野英一さんは偉大な法律学者であり、民法学の大家・碩学でいらっしゃいました。先生は民法の専門家であり同時にカトリック信者でした。
星野先生は、日本人にとって法律とは何であるのか、たびたび考察する機会を持たれたことと思います。「日本人は法律嫌いではないか」という論議があります。他方、キリスト教がなかなか日本社会に受け入れられるには至っていない、という現実があります。
この二つの現象の間に何か共通の理由があるのか、という問題について、一度ゆっくりお話を伺いたかった、といま残念に思っています。
先ほど読まれたイエスの福音ですが、イエスはすべての人を招き、招きに応じる人には安らぎを与える、と約束しています。しかし、軛と重荷を取り除くとは言いません。
それどころかイエスはわたしたちに、自分の人生の痛み、重荷を担うことを求めています。わたしの軛を負いなさい、言っています。ということは、わたしたちの軛は、イエスが一緒に担う軛である、ということです。
イエスがわたしたちに負わせるその軛は負いやすく、その荷は軽い、というのです。主イエスが何時も共にいてくださり、重荷を一緒に背負ってくださる、とわたしたちは信じます。
わたしたちキリスト教信者は、師であるイエス・キリストの姿をよりよく示すキリストの忠実な弟子でなければなりません。現在の日本においてわたしたちキリスト信者は、自分の軛を負いながら、同時に、復活した主イエス・キリストによる安らぎと光を人々に示す人でなければならないと思います。実にいま、そのことが問われています。
星野さんの人生の軛についてわたしは知るところが少ないのですが、ご苦労もおありであったと存じます。
主とともに生き、主のために生き、いま地上の旅路を終えられた星野英一さんを、いつくしみ深い主イエスが迎え入れ、永久の安息をお与えくださるよう祈りましょう。