教区の歴史

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イエスの聖心・ミサ説教

2012年06月15日

2012年6月15日、東京カテドラル関口教会にて

 

第一朗読 ホセア11・1,3-4,8c-9

第二朗読 エフェソ3・8-12,14-19

福音朗読 ヨハネ19・31-37

 

(福音本文引用)

  その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。

そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。

しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。

これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 

昨年3月11日、東日本大震災が勃発したときに、全能の神が存在するならばどうしてこのような大災害が起こるのか、という疑問が意識されました。東日本大震災は自然災害です。人間が起こした災害ではありません。

ところで、他方人間による害悪が存在します。戦争はその最たるものですが、とくに第二次大戦中起こったアウシュヴィッツでのユダヤ人六百万人の虐殺は深刻な問題を提起しました。すなわち、「全能も神が存在するのにどうして神はこのような悪の存在をゆるしたのか」という問題です。

「そのような大虐殺は起こらなかった」とか「それは是認されるべき正当な行為だった」という主張は論外です。

確かにそのような大惨事が起きたのです。これは否定できない事実です。

誰が引き起こしたのでしょうか?それはユダヤ人の根絶を意図した人間の行なった犯罪行為です。神を信じる人がどうしてそのような残酷な犯罪を行うことができるのでしょうか?

神がそのようなことを命じた訳ではありません。決して、神がそのようなことを望んだのではありません。

ではこの事実をどううけとったらいいのでのしょうか?それとも、虐殺者は神を信じていなかったのでしょうか?

神は人間に自律性を与えました。人間が善悪を判断し、悪を避け、善を行うことのできる能力を備えた存在として人間を創造しました。神は人間を人格のある存在として創造し、人間に自由を与えたので、その結果、神は、いわば、自分の全能の力を制約することになったのです。

神は被造物が神の愛にそむく行為を阻止できないし、それを甘んじて受けなければならないことになりました。神は人間が神の望みに反しないように強制することはあえてなさらないのです。

神はただ人間の良心に訴えます。神は人間の裏切りと違反を見て、怒り、嘆き、悲しみ、悶えています。

きょうの第二朗読で預言者ホセアは言っています。

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

 (略)

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。(ホセア11・8-9)

 

きょうはイエスの聖心の祭日です。イエスの聖心は槍で貫かれたイエスの心臓によって表されるイエスの愛、本当に人間であったイエスの人間的な愛を現表しています。

マリア訪問会の修道女、聖マルグリッド・マリー・アラコックに現れたイエスは彼女に次のように告げた、と言われています。

「この心を見なさい。これは、人間を非常に愛し、人々にその愛を示すために涸れ果てるまで何一つ惜しまなかったものなのに、多くの人々から、その報いに、特に聖体の秘跡において、忘恩、不敬、さらに冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。最も辛いのは、わたしに献身した人々もそうした態度をとっていることである。したがってわたしの望みは、聖体の祝日の翌週の金曜日に、わたしが聖体において受けたすべての辱めを償うための祝日を設け、その日には償いの心を持って聖体拝領することである。」(新カトリック大事典、イエスのみこころ、より)

神の苦しむ愛は創造する愛です。苦しみを自らの身に受けることにより、神の支配の完成へ向けて歩み続ける愛であります。

現代世界に存在する悪と戦う力を与えてくださるよう、イエスの聖心に祈り求めましょう。