教区の歴史

教区の歴史

豊多摩北宣教協力体合同堅信式説教

2011年09月11日

2011年9月11日 豊島教会にて

 

第一朗読 シラ書(シラ27・30-28・7)

第二朗読 使徒パウロのローマの信徒への手紙(ローマ14・7-8)

福音朗読 マタイによる福音(マタイ18・21-35)

 

今日の福音は「心から兄弟を赦さなければならない」ことを教えるたとえ話です。

「その家来の主人はあわれに思って、彼を赦し、その借金帳消しにしてやった。」(マタイ18・27)

「あわれに思い」のギリシャ語原文はスプランクニゾマイ(splanchnizomai)と言う言葉で、深く同情する、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む、ということを意味する言葉です。

7月31日の福音にも出てきたことばです。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その仲の病人をいやされた。」(マタイ14・14)

この「深く憐れむ」がスプランクニゾマイ」という言葉です。動詞です。

実はこのスプランクニゾマイは有名な放蕩息子の話にも出てくる大切なことばです。

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(ルカ15・20)

ここに出てくる「憐れに思い」もスプランクニゾマイです。

この放蕩息子、そして1万タラントの借金を抱えている家来、どちらも、もうどうにもならない惨めで難しい状況に置かれています。自分ではどうにもならない、もうなりふりかまわず赦していただくしかないのです。絶体絶命の状態で赦しを願う必死の態度に心を突き動かされたのが今日の話の王でありました。いうまでもまくこの放蕩息子の父も今日の話の王も天の父をさしていると考えられます。放蕩息子の話も、今日の「7の70倍赦しなさい」の話も、罪ある人を赦す神の深い愛、自ら傷つきながら罪人を受け入れ、はらわたが痛むほどいとおしむ神の愛、を教えています。

しかし悲しいかな、この家来は、自分への借金のために苦しむ仲間を赦せませんでした。人間は本当に自分勝手です。そしてこの自己中心の家来の姿がわたしたち自身の姿ではないでしょうか?

 

わたしたちは、自分が赦されているもの、あるいは赦されなければならないものであるという自覚がない、あるいは忘れてしまっているのではないでしょうか?逆に、人から受けた仕打ちを忘れることができないでいるのです。シラ書の作者はその問題をよく理解しています。

「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。」(シラ27・2)

「自分と同じ人間に罪の憐れみをかけずして、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。」(シラ30・4)

同じく今日の第2朗読エフェソの手紙でも「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」(4:26)といわれています。

もしわたしたちが自分のことを、この家来のような状態にある、どうにもならない、赦してもらうしかない人間だ、と考えてみたらどうでしょうか?他に人に対する怒り、憎悪、恨みは小さなことになり、それに打ち勝つことは容易になるでしょう。しかし、実は、わたしたちは、自分のことをそこまでは深刻に考えてはいないのではないか、と思います。

イスラエルの神は民の背信に怒り傷つきます。傷つきながら民を赦します。エレミヤの書で言われています。

「エフライムはわたしのかけがえのない息子

喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに

わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り

わたしは彼を憐れまずにはいられないと

主は言われる。」(エレミヤ31・20)

神による罪の赦しはおん子イエスの十字架という形で現れます。十字架は神の大きな痛みを現しています。「赦す」とは「痛む」ということに他なりません。わたしたちは神様から、痛みを伴う赦しをいただいているのです。そうであれば、ほんの少しの痛みをささげて赦すことは難しくはない筈です。

わたしたちは毎日主の祈りを唱えます。

「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します。」

堅信を受けられる皆さん。皆さんも神からも人からも赦しを受け、赦されなければならない弱くもろい罪人です。受けている赦しを深く悟り、人を心から赦すことができるよう恵みを祈りましょう。