教区の歴史

教区の歴史

習志野教会・敬老のお祝いのミサ説教

2011年09月18日

2011年9月18日 年間第25主日 習志野教会にて

 

第一朗読 イザヤの預言(イザヤ55・6-9)

第二朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ1・20c-24,27a)

福音朗読 マタイによる福音(マタイ20・1-16)

 

先日の非常に暑い日のことです。カテドラルの庭で炎天下、数人の人たちが作業をしていました。その様子をみながら、ぶどう園の仕事とはどんなものだろうか、今日のような炎天下での激しい労働だろうか、などと想像しました。

今日は天の国をたとえるぶどう園の労働者の話です。

夜明け前から働きだした人は日の暮れるまで働き、やっとその日の終わりに1デナリ(オン)の賃金をもらいます。ところが夕方5時ころ雇われた人も同じ1デナリをもらいました。しかも「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を」払わせました。こんな不公平な話はありません。働いた時間あるいは働いた仕事量に応じて、そして働き始めた順番に応じて支払うのが常識の考え方であります。このぶどう園の労働者の待遇はこの社会ではありえない話です。しかし、この話は「天の国」のたとえ話です。

ではイエスは何を教えているのでしょうか。

まずこの「不公平」ということを考えてみたいと思います。賃金の不公平を言う前のもっと根本的な段階で、人生自体の基本的な不公平がありはしないでしょうか?すなわち「人生の不公平」と言うことをわたしは指摘したいと思います。イエスはこの問題へわたしたちの目を向けさせたいのではないかと思います。

そもそもわたしたちの人生自体が不公平ではないかと思います。人の能力や体力には大きな違いがあります。恵まれた人もいますが、能力において劣り、また病気や障がいに苦しむ人もいます。出生と言うことだけ取り上げてみればわかりますが、恵まれた環境に生まれた人もいれば劣悪な環境の中で生を受ける人もいます。そもそも人はすでに生まれながらに不公平な条件を背負っているのです。これは人生の不条理です。人生には、自分で努力すれば獲得できる部分もありますが、努力では何ともしがたい部分もあります。人生の多くの部分は与えられたものであり、自分で選び取ったものではありません。

5時ころ雇われた人は、働きたくとも仕事が見つからなかった人です。仕事がないのはつらいことです。そして仕事がないのは必ずしも本人の責任であるわけではありません。ぶどう園の主人は仕事のない人たちに同情し、5時からであっても仕事をつくり、一日分の報酬を支払いました。これはむしろ人生の不公平を是正するための措置ではないかと思います。午後5時の人に自分を置けば、ぶどう園の主人のこのやり方は非常に有難いと感じます。これが神様のなさり方であります。これは天の国のたとえなのです。

神様は呼びかけています。

「わたしのぶどう園で働きませんか?」

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる」と今日の第一朗読で、預言者イザヤを通して主は言われます。

神様の思いとは何であるのか?人の尺度では測りきれない思いです。神様は仕事にあぶれた人に声をかけ、病気の人、障がいを持つ人、家庭に恵まれなかった人、教育の機会を与えられなかった人、社会の中で排斥された人、差別された人に、声をかけます。

先週の主日の福音を思い出しましょう。「自分の兄弟を7の70倍 赦しなさい」と言う話でした。赦す動機は多額な借金に苦しんでいる家来を見て王が憐れに思ったからです。この「あわれに思い」のギリシャ語原文は、深く同情する、こころがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む、ということを意味する言葉です。7月31日の福音の一節、

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」(マタイ14・14)

に出てくる「深く憐れむ」も同じ言葉です。

神の目は、病気に苦しむもの、不条理に苦しむもの、弱い立場におかれたものに注がれるのです。

イエスがなさったみ業の中で、何が目立つかといえば、「癒し」ということです。イエスは病気に苦しむ人、障がいで苦しむ人を自分のぶどう園に招き、彼らを癒します。

イエスの弟子たちであるわたしたち教会は午後5時の人にどのような態度をとっているでしょうか?このイエスの愛をどのように実行しているでしょうか?午後5時の人をえこひいきするほどに主の愛を実行しているでしょうか?

どんな人でも招かれ受け入れられ、喜んで働ける主のぶどう園をつくるためにわたしたちは派遣されています。

このぶどう園の労働者の話に出てくる労働者のなかで、自分は何時に働き始めた人でしょうか?自分を、午後5時の立場の人だと思える人は幸いです。