教区の歴史
潮見教会ミサ説教(年間第5主日)
2011年02月06日
2011年2月6日 潮見教会にて
第一朗読 イザヤの預言(イザヤ58・7-10)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント2・1-5)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ5・13-16)
今日の福音は、有名なイエスの言葉「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」が出てくる、マタイ5章の山上の垂訓の箇所です。
「あなたがたは世の光である。」
「あなたがたは世の光でありなさい」といわれたのではなく、「あなたがたは世の光である」といわれました。
実にキリスト者は世を照らす世の光であります。
イエズス様自身、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず,命の光を持つ」(ヨハネ8・12)と言われました。キリストを信じキリストに従うものがキリスト者です。イエズス様ご自身が世の光です。
ニケア・コンスタンチノープル信条では、イエス・キリストは「光よりの光」と呼ばれています。父である神は光の源であり、イエス・キリストは光である父から生まれた「神よりの神、光よりの光」です。わたしたち教会はイエス・キリストから光を受けてこの世を照らします。第2ヴァチカン公会議の『教会憲章』は教えています。
「キリストは諸国民の光であり、教会はキリストから光を受けてすべての民をキリストの光で照らすことを望んでいる。」(第1項)
教会は世の光です。しかしその光の明るさは時代と場所によりさまざまです。教会の歴史のなかで、多くの聖人が出てきて非常に輝かしい明かりを灯しました。しかし今にも消えそうな、風前の灯のような暗い光であることもあったかもしれません。それでも、光が消えてしまうことはありませんでしたし、これからもないでしょう。教会はキリストの光をもって世を照らす世の光です。
ところで「世の光」であるとは具体的にどんなことでしょうか?今日の第一朗読から学ぶことができます。
(わたしの選ぶ断食とは)
飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
あなたの傷は速やかにいやされる。
あなたの正義があなたを先導し
主の栄光があなたのしんがりを守る。
(中略)
飢えている人に心を配り、
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出て
あなたを包む闇は、真昼のようになる。
食べること,寝ること、着ること、という、誰にとっても大切な基本的な必要が満たされていない人がいます。この人たちの願いに応えることこそ、わたしたちが世の光であることを示すことではないでしょうか。
使徒パウロはキリストから光を受けて世を光で照らした人です。本日の第二朗読によれば、彼はわたしたちと同じ弱い人間として、衰弱し、不安、恐れに襲われたことがありました。その彼の弱い人間性を通して神の力が働いたのでした。
1月23日は蟻の町のマリア、エリザベット・マリア 北原怜子さんの命日です。毎年このころ、潮見教会はミサのなかで北原怜子さんを記念していると思います。3年前の2008年1月は帰天50周年で、わたくしも招かれてミサをささげました。そのとき以来、毎日、個人として、
「主のはしため、エリザベット・マリア北原 怜子の取次ぎを求める祈り」をささげてきました。本日は後ほどこの祈りをご一緒にささげたいと思います。北原 怜子さんは敗戦後の貧しい日本でキリストの光を掲げた人でした。貧しい人と共に生き、貧しい人のために生きた人でした。
それから50年がたち、現代はまったく異なる状況にあります。現代も貧困の問題があります。しかし、それだけではく。現代の貧しさはいわば無縁社会の貧しさです。血縁、地縁、社縁の縁が弱くなり、薄れ、あるいは崩壊してしまいました。孤立した人が増えています。人とのつながりがないまま、自死を遂げる人がここ13年間、毎年3万人です。
同じ神様のもとで、人と人とがつながり、互いに支えあい助け合う社会を建設していく、ということがわたしたち教会の使命ではないでしょうか。
1月9日のカテドラルでの「年始の集い」で申し上げたように、今年は命の尊厳を学び、命を大切にし、心と心をつなぐことを共に目指したいと思います。そのために是非、司教協議会発行の二つの文書をお読みいただきたいと思います。できれば、集まって輪読などしながら、一緒に勉強していただけると嬉しいです。
一つはちょうど10年前に出されました、この本、『いのちへのまなざし』です。もう一つはこの冊子、『自死に現実を見つめてー教会が生きる支えとなるため意―』です。カリタス・ジャパンの啓発部会発行です。是非お読みください。