教区の歴史
上野教会ミサ説教(年間第4主日)
2011年01月30日
2011年1月30日 上野教会にて
第一朗読 ゼファニヤの預言(ゼファニヤ2・3,3・12-13)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・26-31)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ5・1-12a)
今日の福音は有名な山上の説教です。イエズス様の回りには多くの貧しい人、病気の人、障害のある人、苦しみを背負っている人が集まりました。この世は苦しみの世です。今日のミサの集会祈願で司祭は祈りました。
「神よ、目を開けばこの世界に苦しみのない朝はありません。・・・」
仏教での四苦八苦といいます。四苦とは、生病老死です。また宗教を求める人々の動機は、貧、病、争の苦しみである、という説もあるようです。
人生は苦しみです。
イエズス様はガリラヤの丘に上り、集まっている人たちに話しかけました。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。・・・」
「心が貧しい」という表現は、日本語では悪い意味に聞こえます。心が狭い、頑なである、卑しいなど、否定的な意味に聞こえます。そこで、フランシスコ会訳聖書では
「自分の貧しさを知る人は幸いである」
となっています。自分の貧しさを認める謙遜な人、という意味だと思います。謙遜な人は幸いだ、ということでしょう。
ルカの福音では、「心の」がなくて、単純に、
「貧しい人々は幸いである」
となっています。
なぜ貧しい人々は幸いなのでしょうか?
貧しい人は何も頼りにするものを持たないので、ただ神様だけを頼りにする、だから幸いだ、と説明されています。
確かにひたすら神様だけを頼りにするならその人は幸いです。しかし貧しい人が必ずしも神様だけを頼りにするとは限らないのではないでしょうか?
貧しいことがいいことなのでしょうか?
確かに貧困と清貧は区別されねばなりません。清貧はよいことですが貧困はあってはならないことです。貧困は無くさなければならないのです。
イエズス様はまず言われたのです。
「祝福されている、あなたがた貧しい人たちは!」
「神様はあなた方と共にいる、あなたがたを祝福してくださる。人生の不条理、四苦八苦、貧・病・争の苦しみを背負うあなたがたよ、神様はあなた方の苦しみをわかっていらっしゃる。その苦しみを共に背負われる。」
イザヤの預言に「主の僕」が出てきます。主の僕は人々の病を背負い、人々の咎の結果を引き受けます。この僕の姿はイエズス様の生涯によって完全に実現されました。イエズス様はわたしたち人類の罪の贖いのために十字架にかかられたのです。
「障害はおめぐみか」をめぐる有名な議論があります。病気はお恵みでしょうか?なぜ障害、病気が存在するのでしょうか?
岩橋神父様はなぜ昨年12月27日の夜、転倒し、重い病気にならなければならなかったのでしょうか?
わたしにはわかりません。なぜ?何度もその問いが浮かんできます。
障害、病気は不条理な事実です。そもそも人生には不条理が沢山あります。
イエズス様はまず不条理である障害、病気を癒す人でした。そしたまた人々の苦しみを背負って歩んだ人でした。
イエズス様は十字架の死を経て復活されたのです。不条理を越えることができるのは、この信仰、復活の信仰しかない、と思います。
「苦しみと死の謎は、キリストにより、キリストにおいて解明されるが、キリストの福音がなければ、(苦しみと死の謎は)われわれを押しつぶしてしまう。キリストは復活し、その死をもって死を破壊し、われわれに生命を与えた。」
この信仰とともに、岩橋神父様の回復のために祈りましょう。