教区の歴史

教区の歴史

吉祥寺教会堅信式説教

2010年06月20日

2010年6月20日 吉祥寺教会にて

 

第1朗読 ゼカリヤの預言12:10-11,13:1

第2朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙

福音朗読 ルカによる福音9:18-24

 

今日の福音でイエスは言われました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9・22)

この預言の通り、イエスは排斥されて十字架につけられ殺されてしまいました。何故イエスは十字架につけられたのでしょうか?

福音書によればイエスは律法学者、ファリサイ派の人々など当時の宗教指導者たちと激しく対立していました。その様子を福音書が述べています。本日の福音書はルカですので、今日はルカ福音書のなかで該当する箇所をいくつか取り上げてみます。

イエスは安息日に手のなえた人の癒しを行い、律法学者、ファリサイ派の人々の怒りを引き起こしています。「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」(ルカ6・11)とルカは告げています。

またイエスはファリサイ派と律法学者の偽善を非難し、言われました。

「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(ルカ11・39)

律法学者に対しては、

「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしないからだ。」(ルカ11・46)

このような辛らつな批判を受けて彼らはイエスに対して「激しい敵意を抱」(ルカ11・53)くようになります。

13章では、18年間も腰の曲がったままの女性を安息日に会堂で癒し、会堂長を立腹させます。

14章でも、安息日にイエスはファリサイ派の人の家で水腫の人を癒しています。ついに祭司長たちと律法学者たちは、イエスに殺意をいだき、「イエスを殺すにはどうしたらよいか、と考え」(ルカ22・1)るようになります。

イエスを死に追いやった人々は聖書の教えをよく知っている人たちであり、掟を守ることに熱心な宗教者たちでした。そのような信仰に熱心な人々がイエスを十字架に追いつめたのです。彼らの信仰理解に対立するイエスは実に邪魔な存在になり、その結果、イエスは抹殺されなければならなくなったのだ、と思います。

イエスと律法学者、ファリサイ派の人々との間には、越えがたい溝がありました。それは、神とはどんな方であるのか、についての基本的な理解の相違です。イエスは神を父と呼び、神は愛であることを示し、神の愛を実行しました。安息日の癒しは神の愛の実行に他なりませんでした。しかし当時のユダヤの指導者たちにとって安息日の癒しは神の十戒の一つである第三戒を犯す重大な罪でありました。彼らは安息日のイエスの言動が神の愛の実践であるとは到底理解できないことでした。彼らの偽善と頑なさを非難するイエスに対して彼らは激しい怒りをおぼえ、その存在を疎ましく思い、抹殺しようとするにいたったのです。

人は自分の思いが相手に通じないと悲しく思い、また時に不快に思い、さらに否定をされれば、怒り、憤りを感じ、その存在を否定したくなることもあります。わたしたちは誰とも穏やかに、平和に暮らしたいと願っています。しかしイエスは律法学者、ファリサイ派の人々が怒ることを承知の上であえてその挙に出たのだと思います。イエスにとって神の愛を否定することはできないことでした。イエスはいのちをかけて神の愛をあかししました。敵を愛するよう教え、十字架上で彼らの赦しを祈りながらいのちをささげられました。実にわたしたちは、特に司祭はこのイエスに従う牧者として歩むよう召されています。

 

先日、6月11日のイエスのみ心の祭日に『司祭年』が終了しました。この機会に、わたくしは大司教メッセージ『司祭の休養・霊的生活の刷新』を発表いたしましたので是非皆さんに読んでいただきたいと思います。

このメッセージの中で預言者エゼキエルの教えを述べています。

牧者の務めは羊を養うことです。しかし羊を養わないで自分を養う牧者がいる、と預言者エゼキエルを通して主なる神は激しくそのような牧者を糾弾しています。牧者は群れのために働くものであり、自分の満足のために働くものではありません。牧者が群れを養うどころか群れを傷つけ、群れを支配することによって自分の満足を得ようとする、というようなことはあってはならないことであり、まことに恥ずべきことであります。

もちろん、司祭の務めには困難がともないます。司祭は大きなストレスを受けています。そのために、健康を損なったり、疲れがたまったりします。精神的に不安定になり、焦りを覚え、不快感、怒りなどを抱くこともあります。だからとぃって自分の不満の解消のために信徒を傷つけたり信徒に対して不適切な言動を取ったりしてもよいわけではありません。わたしたちは自分の満足を求めて司祭になったのではありません。苦しみをイエスの十字架に合わせておささげするためにわたしたちは司祭になりました。

ところでそのような牧者として人々によく仕えるためには、いつも心身と霊魂の状態をよい状態に保つことが必要です。そのためにもっとも必要なことは心身の休養と祈りであります。イエスはしばしばさびしいとことに退いて祈っておられました。

わたくしは司祭評議会と相談し、司祭の休暇休養の制度を確立することを決心しました。この点につき皆さんのご理解をお願いいたします。

今日の説教はパウロ6世の次に祈りをむすびとします。

「願わくは、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活があかあかと輝いている福音宣教者、神の国が宣べ伝えられ、教会が世界の只中に建設されるために喜んで命をささげる福音宣教者から福音を受け取りますように。」