教区の歴史
平和を願うミサ説教
2009年08月08日
2009年8月8日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
2009年8月8日、今日はご一緒に平和を願うミサをお捧げしています。
平和について、特別に考え、思い、祈る、平和旬間をいま過ごしておりますが、時々知らない方から、手紙をいただくことがあり、その中には、平和について考えさせられるような内容のものがあります。どう答えたらよいのかと思わせられるような手紙です。
「なぜ、キリスト教徒は大量虐殺をするのですか?」という質問がありました。
この言い方にひっかかります。この日本語の「は」、というのは何でしょうか。どういう意味なのでしょうか。「キリスト教徒『は』」というのは。
キリスト教徒でない者は虐殺をしないという意味でしょうか? あるいは、キリスト教という宗教がそういうことを認めているということでしょうか? 実際に、大虐殺、ホロコースト、イラク戦争、ユダヤ人大虐殺、そういうことがありました。それをしたのもキリスト教徒ではないのか、そういうことをどう思うのか、なぜあなたがたの宗教はそういうことを許しているのか?宗教を信じているのになぜそういうことをするのか?そういうことでしょうか。
キリスト教徒『は』戦争と結びついている、2000年、2001年ころのことだったでしょうか。イラクに侵攻したアメリカとその連合軍、その頃、一神教の問題というようなことが指摘され、私も随分考えさせられました。
「キリスト教徒は」と言われて、たじろぐ、あるいは恥ずかしいと感じる点がないわけではありませんが、そもそも、人類はなぜ、戦争ということをするのか。なぜ、戦争というものが起こるのか。大変、重大な、大きな問題です。一人の人間として、一人のキリスト教徒、一人の宗教者として、この問題に真剣に対峙して、向き合っていかなければならないと思います。
「殺してはならない。」十戒の第5戒に禁じているのであります。戦争は、その殺人の最たるものであります。いろいろな理由から正当防衛の戦争もありえるというようなことを教えておりましたが、今日、あらゆる戦争は、神の御心ではないということを私たちは信じております。
神がお造りになったこの世界、そして神が造られた私たち人間。いつも思いますが、神は天地を創造され、そしてそれがきわめて良いものとされました。特に人間は神の似姿であり、神の創造の傑作であります。その人間が、殺し合う。どうしてそういうことが起こるのか。神がそのようにさせるのか。断じてそのようなことはないのであります。
では、なぜそういうことが起こるのでしょうか。
1981年、日本に来られたヨハネ・パウロ二世教皇は、広島、長崎を訪問され、そして有名な言葉を残されました。
「戦争は人間のしわざです」
戦争は神が引き起こすものではなくて、人間が行うものであります。決して、戦争は神の御心ではありません。
神は、しばしば御心に反するさまざまな悪を行う人間に対し、激しい怒り、憤りを示し、そして、もう滅ぼしてしまおうとさえ言われたと旧約聖書は伝えています。そして、人間を創ったことを後悔されたとも出ております。ちょっと考えさせられますね。神様が後悔するなんて。
神は人間を造り、そして、良いことを行うように、この世界を神のお望みになる調和のある平和な世界に築くように、とされました。しかし、人間はそうはしませんでした。その結果、神は激しく怒り、しかし、滅ぼそうとはしません。私は、ホセアの預言者(11章8-9節)の言葉を思い起こします。次のような言葉です。
「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
神様なのに、といいましょうか、神様は身もだえするような葛藤を体験しています。そのことを預言者が私たちに伝えています。神は人間を創った。その人間が、まったくとんでもないことをしている。お互いに殺し合いをしている。両方ともかけがえのない、いとおしい存在であるのに。この世に存在するものは全部、神様の御心によって存在するのに。
「あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか」と知恵の書は言っています。神は、存在するものすべてを愛し、いとおしんでくださった。その愛しいもの同士が、憎み合い、いがみ合い、殺し合う。その時に、その両方をいとおしく思われる神がどんな思いをされるでしょうか。
神様は人間でないから平気だよというような神理解もあるかもしれません。しかし、聖書によればそうではなく、神ははげしく心を動かされます。そして、忍耐し、人間が回心し、和解し、そしてこの世に神様と結ばれる平和な世界の実現のために働くよう望んでおられます。
聖書の毒麦のたとえを思い起こします。神は今すぐ悪を滅ぼしてしまおうとはされない。すぐに毒麦を集めて焼いてしまおうとはされない。待っておられる。全能のゆえに、すべての人を憐れみ、回心させようと、人々の罪を見過ごされ、忍耐して待っておられるのだと思います。
その忍耐の神に応えて、私たちは、どうしたらよいのでしょうか。何をすることができるでしょうか。
今年の平和旬間の祈り、「子どもとともに」。このあと祈りますが、どんな人間も同じように大切にしてくださる神様、どんな人間も愛しく思ってくださる神様、その神様は私たちの状態を見て、どんなに心を痛めていらっしゃることでしょう。その神様の痛み、それはイエス・キリストの十字架となってあらわれました。わたしたちはその神様の御心をしっかりと受け止め、そして平和のために働きたいと思います。何をすることができるでしょうか。どうしたら良いでしょうか。
自分にできることを見つけ、実行していきたい。どんなささやかなことでもしっかりと毎日それを続けていきたいと思います。そうすることによって、イエス・キリストの復活に与ることができると私たちは信じます。
復活して使徒たちに現れた主イエス・キリストは、使徒たちを、平和を告げ知らせる使徒として派遣されました。私たちもその使徒の系譜に列なり、罪をゆるすと共に、主の平和を宣べ伝える、表していく、使命を担っております。
1986年、この大聖堂でアジアの司教会議が行われ、当時の司教協議会会長であった東京大司教の白柳枢機卿様がここで説教をされました。先ほど幸田司教様が麹町教会でおっしゃったことですけれども、日本がアジア太平洋の方々にかけた多大な甚大な苦痛、損害に対し、日本人として、教会の人としてもお詫びし、その責任を認め、二度と過ちを繰り返さないこと、そして平和のために貢献する決意を新たにすることを誓われました。
1945年から50年経った1995年、日本の司教団は『平和の決意』を発表し、この決意を引き継ぎ、さらに深めることを誓いました。
さらに戦争が終わって60年後の2005年には、非暴力によって私たちは平和のために力を尽くしますと宣べました。
白柳枢機卿様は今、病気とたたかっておられます。白柳枢機卿様の回復を祈ってくださるようにお願いするとともに、枢機卿様と一緒に私たちが平和の使徒として力を尽くすことができますように、主の恵みを願いましょう。
人間は罪という汚れを持ち、そして自己中心という免がれない重大な問題をもっております。神様の恵みによらなければ、平和のために尽くすことができない。でも神様の恵みを求めれば、ささやかではあっても平和のために尽くすことができると信じます。
今日ご一緒にお祈りいたしましょう。