教区の歴史
年間第13主日説教 聖ペトロ聖パウロの祝いとともに
2009年06月28日
2009年6月28日 関口教会にて
今読み上げられましたマルコの福音の中で、2つのいやしの話が告げられております。12年間出血の止まらない女性がイエスによっていやされたという話と、12歳の少女が瀕死の状態から蘇らされたという話です。出血症の女性の場合、イエスはその女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。この「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの話は他でも告げられている話です。イエスが信仰を賞賛する話はいくつも出てきます。
他方、この12歳の少女のいやしの場合、「タリタ・クム」という言葉が大きな力となっています。イエスは「タリタ・クム」というアラム語を使われました。イエスの時代、普通使われていた言葉はアラム語という言葉でありました。イエスはこの少女に向かって「少女よ、起きなさい」とアラム語で言われました。聖書では言葉の力ということが強調されています。言葉には力があります。その言葉の指し示す内容を実現する力があります。この場面で弟子たち、イエスの弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネがこの場面に居合わせました。マルコの福音ですから、マルコはこの3人のだれかから聞いたのでしょうか。マルコはパウロと一緒にいた人のようです。この「タリタ・クム」というイエスから発せられた言葉のこの肉声が人々の心に強く刻まれました。彼らの心に響いて、いつまでも忘れることができない。それで敢えてこのアラム語の発音をそのまま表記して、それがいろいろな言葉に福音書が訳されるときも、敢えてこの原語がそのまま伝えられたと思われます。
そういう言葉は他にもいろいろあります。エッファタという言葉、「開きなさい」という意味ですが、それも同じことです。イエスの口から出た言葉そのものを人々はいつまでも思い起こし、そして何度も心の中で響かせていたと思います。福音書全体を読みますと、本当に何度も何度もイエスが人々をいやした、悪霊を追い出した、病気をいやした、障がいをいやしたという話が出て参ります。
イエスは本当にいやしの人でありました。そのイエスのつくったわたしたちの教会、イエスから力を頂き、聖霊の恵みを受けてわたしたちもイエスに従って人々をいやし、そして励ますイエスの働きにあやかりたいと本当に思います。特に毎日使っている言葉を、人をいやし励まし助ける良い言葉として使いたいものです。
今日は、折角の機会ですので、先日開催された司教総会について一言だけお話したいと思います。わたしたち日本のカトリック教会の司教は6月に毎年定例司教総会をもっています。今回の総会で一番重要な議題は裁判員制度ということでした。この裁判員制度をわたしたちカトリック教会はどのように受け止め、どのように応えていったらよいか。これは大きな問題であり、課題です。司教たちもそして東京教区の司祭もこの問題を取り上げ、勉強し、話し合いました。そして皆様に一言でもわたしたちの考えをお伝えする必要を感じ、先日メッセージを発表しました。
カトリック教会の中にはいろいろな立場、役割があります。大きく分けると司祭、修道者といういわゆる聖職者と、皆さんのような信徒の方の2つに分けることが出来ます。司教・司祭・修道者には、教会の掟、彼らが守るべき教会法の規定があります。この世にあって、しかし、この世に対して距離を置いて、神の国の到来をあらわす、そのような役割を担っています。教会法典の中に、公職、公の職務に就くことについての規定があります。「司祭、修道者は国家権力の行使を伴う公職を受諾することは禁じられる」という規定です。この裁判員という職務は教会法が禁じる公職に該当するかどうかが大きな争点でありますが、私どもは教会法の専門家の意見を聴き、また教皇庁にもお尋ねしてこの禁止条項にあたるのではないかという結論を出しました。そして司祭、修道者が指名された場合、辞退するように勧めますという結論を出しました。
信徒の場合ですが、大変大きな負担をかける制度であると思われます。日本国憲法で保障されている基本的人権に関わる重大な問題ではないかと思われます。憲法は意に反する苦役を受けない権利、思想信条の自由、信教の自由、表現の自由などを保障しています。このような規定に抵触しないだろうかという不安があります。他方、この機会にこの任務を引き受けて立派に自分の立場、意見を表明することが教会の役割として適切ではないかと、大変だろうが頑張ってもらいたいという立場もあると思います。
皆さんに宛てた手紙の一部を朗読します。
「日本カトリック協議会は、既に開始された裁判員制度には一定の意味があるとしても、制度そのものの是非を含め、さまざまな議論があることを認識しています。信徒の中には既に裁判員の候補者として選出された人もいて、多様な受け止め方があると聞いています。日本カトリック司教協議会は、信徒が裁判員候補者として選ばれた場合、カトリック信者であるからという理由で特定の対応をすべきだとは考えません。」
カトリックだからこうしてはいけない、こうすべきだという結論は今のところ出していません。今度の制度は、国民の市民の意見を裁判に反映させよう、市民の感覚を裁判に生かし、そしてより迅速で公平な裁判をしようという意図があると聞いています。そうでありますが、いろいろな不安、問題もあります。それで各自がよく考え、よく学んで自分の良心に従って対応してください。
こういう文章も入れました。
「さらに死刑制度に関与するかもしれないなどの理由から良心的に拒否したい、という方がいるかも知れません。私たちはこのような良心的拒否をする方の立場をも尊重します。」
良心的拒否ということもあり得るのだということです。そしてこの死刑ということについてカトリック教会は、どのように教えているか、教皇様は何とおっしゃったか、是非皆さん、この機会に学習してください。また十戒の中には殺してはならないという掟(第5戒)があります。それと死刑はどういう風に関係するのだろうか。そして裁いてはならないとイエスが言っています。この機会に私たち自身、宗教者としてキリスト者としてこの教えをどのように受け止めるべきかをよく考えていかなければならないと思います。