教区の歴史

教区の歴史

東京教区アレルヤ会総会・ミサ説教

2009年04月24日

2009年4月24日 東京カテドラルにて

 

聖書朗読 使徒たちの宣教(5・34-42)
福音朗読 ヨハネによる福音(6・1-15)

 

今日は復活節の第2金曜日です。今読んだヨハネの福音の6章です。6章は、ご聖体の教えであると言われております。パンの奇跡の話です。

皆様ご存じのように私の司教の紋章は、この話から取ったものです。5つのパンと2匹の魚の図柄を使った紋章でございます。教会のあり方、教会というのは、こういうことではないかとこの話が教えてくれているように思います。大勢の群衆が集まってきました。そして食事の時になっても多くの人が十分に食べるだけの食料がなかったわけです。どのくらいの人が集まっていたでしょうか、5,000人と書いてあります。その中に子どもがいて、その子どもが持っていたのがパン5つと魚2匹だった。それが増えていって5,000人を養っても余ったという話であります。貧しい人が集まってイエス様のお話を聞いて、そしてご聖体をいただく、それが教会の姿です。普通は分ければ1人分が減ってしまいます。100人に分ければ100分の1に、1000人いれば1000分の1になりますが、分けても分けても減らないどころか増えていく、そういうお恵みが教会にはあります。

今の日本の社会は、荒れ野のようなものです。厳しい状況です。人が生きるのは難しい。そういう環境で、教会というのは、その荒れ野の中に湧いている泉――そこに来た人が自分の命を養う、力をいただく、癒していただく、元気にしていただく、ホッとする、そういう荒れ野のオアシスでありたいと思います。是非、オアシスとしての役割を果たしてゆきたいと思っております。 

「大勢の群衆が集まっている」この群衆というのはどういう人達であったかというと、貧しい人、困っている人、病人がたくさん集まっていたのだと思います。助けを必要としている人、いろいろな苦しみを背負っている人々だと思います。

私は苦しみということを思う時に仏教の言葉で四苦八苦(しくはっく)という言葉を思い出します。仏教って素晴らしい教えではないかと思います。人生は苦しみである、ということをお釈迦様はおっしゃった。そして、その苦しみからの解放、解脱を説いたのが仏教の教えだと思います。わたしたちの場合は、イエス・キリストを信じて、そして十字架によってわたしたちの罪を贖ってくださったイエス・キリストの恵みに与る、復活の命に変えていただくということを信じています。復活の命はこの地上で始まっている、その復活の世界があるのだということを周りの人にも示していくのが教会であります。 

それはともかくとして「四苦八苦」に戻りますと、人間が生きているといろいろな苦しみに出会います。まず4つの苦しみというのが「生老病死(しょうろうびょうし)」です。「生老病死」とは生まれること・老いること・病むこと・死ぬこと、です。生まれるのが何で“苦”なのでしょうか。生まれると言うことは自分で希望したわけではないのですから、いつ、どのようなところで、どういう風に生まれるかは、わたしたちには選択できません。生まれながらに背負わせられているいろいろなことがあります。「生病老死」に加え、さらに4つの苦しみがあります。「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」です。 

「愛別離苦」とは愛する人と別れなければならない苦しみです。この反対が「怨憎会苦」。オンというのは怨みという字で、ゾウは憎しみです。怨む、憎むものに出会う、気にくわない人に出会うというと分かりやすいですね。好きな人と一緒にいたいけれど、嫌な人とは一緒にいたくない、そういうのは人間の煩悩なのでしょう。両方とも人間関係の苦しみです。人間とは他の人と合う・合わないということがあり、それはどうしようもないことであって、それが人生なのでしょう。

「求不得苦」とは、求めても得られない苦しみ、グは求めるという意味ですけれど、人間というのはいろいろなものを欲しがる、でも手に入らない。今の時代は消費社会で、人間の欲望を刺激するような、いろいろな情報があってどんどん欲しくなってしまう、もっともっと欲しくなってしまう、そういう中で、求めても得られない苦しみ(求めなければ苦しみはない訳ですが)、そういう人間の性というのがあります。

それから最後が「五蘊盛苦」という言葉なのですが、人間にはいろいろな感覚があって、特に五感というものがあります。五感から生まれるいろいろな執着、その執着から出てくる苦しみでしょうか。わたしたち人間には、いろいろな欲望があって、その欲望が満たされるように充足を求めているが、それが得られない。得られないことから生ずる苦しみ、それを仏教では教えているのだと思います。 

しかし、わたしたちキリスト教信者にとっては、死から命への過ぎ越しが私達の信仰であって、古い人が新しい人になります。古い人というのは、自分の思い、自分がこうであるという自分中心の考え、それから自分のいろいろな希望とか欲望、そういうものから成り立っているわけです。そのどうしようもない自分の思い、自分の欲望をもつ古い人間が洗礼の時に水の中で沈められて死に、水から引き上げられて新しい人として生まれ変わる、ということです。そのようにパウロがローマの教会の手紙(6章)で教えております。復活徹夜祭で洗礼式がありますけれども、毎年同じその箇所が読まれます。

人間には四苦八苦という苦しみがありますが、苦しみに打ち勝ってイエス様が十字架にかかって、人間の苦しみを自分の苦しみとして背負ってくださったのでありますから、わたしたちも毎日、自分の思いではなく神様の思いに生きることができるように、イエス様から力をいただきたい。今日もご聖体をいただいてこの恵みを多くの人に伝えていきたい。5,000人のパンになったようにわたしたちも(ここにいる人は何百人もいるわけではありませんけれども)、一人に伝え、またその人が伝えてゆけばパンの奇跡のように恵みが広がってゆくのだと思います。