教区の歴史
修道会訪問ミサ説教(カロンデレットの聖ヨゼフ修道会 東京修道院)
2007年11月03日
2007年11月3日15時
カロンデレットの聖ヨゼフ修道会 東京修道院(大田区)にて
いまから年間第31主日のミサを捧げます。
今日の福音はあのザアカイの話です。ザアカイは徴税人の頭であった、とあります。徴税人はユダヤ人でありながら異邦人である支配者の手先になり税の徴収を請け負っていた、ということで嫌われ蔑まれていました。不正なこともしていたと言われます。またザアカイは「罪深い男」とも言われ、罪人と見なされていました。そのザアカイの家に泊まりたい、宿をとりたいとイエスがはっきりと言ったので人々は驚き、ザアカイは喜びました。罪人の家に泊まるとは罪人を受け入れその仲間になるということ、彼らが蒙(こうむ)っている差別、蔑みを自分も受けるということを意味します。ザアカイにとってそれはどんなにか嬉しいことであったでしょう。
第1朗読は第2正典の『知恵の書』から取られています。大変好きな箇所です。特に次の箇所が大切です。
「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。」(11・24-26)
この世界に存在するものはすべて神のお望みによるのです。神はすべてのものを愛し、慈しまれます。ましてすべての人は神の愛から造られ、神の幸福に与るために生まれ、神の栄光を示す存在です。それぞれの人は皆神の作品であり、それぞれが固有の価値、独自の存在です。同じ人間でありながらそれぞれが互いに異なり、それぞれの人が特色ある存在です。しかし、この世界には問題・課題がたくさんあり、そのままでは神の栄光の現れとは言えません。テサロニケの教会への手紙が言うように、まだ「主の日」は来ていないのです。でも「主の日」が来ると、問題は解消し、すべての存在、すべての人間はその輝きに到達することができるでしょう。
わたしは最近「差別」について改めて考えています。差別と言えば悪い意味ですが、人がそれぞれ他の人とは違う独自の価値を認められるならば差別は克服されるのではないでしょうか。イエスは差別されていた徴税人、娼婦、サマリア人と出会い、その仲間と見なされ、彼らの友となったのでした。それぞれの人をその人として認め、大切にしたのだと思います。皆さんも「差別」と「区別」という課題を考えてみませんか。