教区の歴史

教区の歴史

カテドラル大改修工事の完成感謝ミサ説教

2007年09月30日

2007年9月30日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

朗読箇所
第一朗読 イザヤ32・15-18
第二朗読 エフェソ2・19-22
福音朗読 ルカによる福音6・47-49

 

この度の大改修工事にあたり、わたくしは皆様にお祈りをお願いいたしました。そのお祈りのなかに「東京カテドラルとそこで行われる神の民の典礼が、あなたの愛と光を現すものとなり、また、多くの人にあなたのいやしと励ましを伝える場となりますように」という言葉がございます。 

カテドラルとは何ですか。カテドラルは何のためにありますか。カテドラルは何を目指すものですか?わたしはこの問いに対して祈りをもって応え、その応えをさらに深めていただきたいと願いました。この祈りのなかに、「愛と光」「いやしと励まし」という言葉があります。カテドラルと教会の使命、任務を表すためにはこの4つの言葉が非常に大切であり、鍵になる言葉ではないかとわたしは考えました。カテドラルとは神の愛と光、いやしと励ましを伝え現す神の家であります。もちろん、すべての教会は同じ使命をもっていますが、カテドラルは東京教区のすべての教会の中心として特にそうであります。 

今日の福音でイエスは言われます。

「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」 

今日はカテドラルの外装の大改修工事完成を祝ってミサを捧げております。実は建築で大切なことは基礎工事であると聞きました。福音が告げるように、どんな立派な家をその上に建てても、しっかりした基礎の上に建てられていなければ、何かがあるとすぐに壊れたり崩れてしまいます。わたしたちのカテドラルは堅固な基礎、岩の上に建てられた神の家であります。その基礎とは今日の第2朗読で言われているように、イエス・キリストをかなめの石とし、使徒や預言者を土台とする基礎であります。教会はイエス・キリストとその弟子たちを土台として建てられた神の家であり、キリストと使徒たちの土台の上に建てられた神の家族であります。 

イエスの弟子である使徒たちはイエスをとおして、イエスの生涯をとおして神の愛を知りました。特にイエスの十字架と復活という出来事を体験し、神の愛を知り信じたのです。復活によって彼らは真にいやされ励まされたのです。この弟子たちの体験を今ここで現し伝える神の家がカテドラルであり、そこで行われる典礼であります。カテドラルは復活された主イエスをとおし、聖霊の導きにより、神の愛と光、いやしと励ましを現し伝えるために建てられた神の家です。 

カテドラルがそうであるならば、ここに集うわたしたち神の民は神の霊を受け、神の住まいとなり、日々の生活のなかで神の愛と光、いやしと励ましを現し伝えるはずの神の民であります。わたしたちの置かれているこの世界の現実は非常に厳しいものであり、わたしたちはこの大都会で、あたかも「荒れ野」に置かれているように感じ、時として傷つき、疲れ、失望してしまいます。そして自分自身の中にまだ闇が存在していることにも気づかされます。 

しかし、預言者イザヤは言います。

「荒れ野は園となり、園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。」 

その時には、必ず実現する正義、平和、信頼の世界をイザヤは告げています。平和、安らぎ、憂いのない休息の世界が実現する、そのようにイザヤが預言しています。実に慰めに充ちたことばです。実は、わたしたちはすでにこの預言はイエスの神の国の福音に、またイエスの復活によって実現していることを信じています、たとえ現実の世界がいかに厳しい荒れ野であっても。教会は神の国到来のためのしるしなのです。いまは神の支配の完成へと向かうときであり、わたしたち教会はその証人なのです。エマオの弟子たちが復活されたイエスに出会ってイエスの復活の証人となったように、わたしたち教会も現代の世界において神の愛と光、いやしと励ましを現し伝える復活の証人、しるしとなって歩むこと、それが教会の使命であると思います。