教区の歴史

教区の歴史

司祭叙階式説教

2005年05月08日

2005年5月8日午後2時、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

 朗読箇所
イザヤの預言 11:1-10
コリントの信徒への手紙I 12:4-11
ルカによる福音 4:16-21

 

わたしたちが待ち望んだ小池 亮太、豊島 治、二人の助祭の司祭叙階式の日を迎えました。二人の司祭叙階は東京教区にとって大きな喜びです。

わたくしはきょうの叙階式にあたり、教会の使命、とくに東京教区と東京教区の奉仕者である司祭の使命と任務について申し上げたいと思います。

新しい教皇ベネディクト16世は就任ミサの説教で次のように言われました。

「この世界には荒野がある。牧者は自分の羊を荒野から導き出していのちを豊かに与えてくださる神のもとへ導かなければならない。」

このことばは強くわたしの心に響きました。わたしたちはあたかも荒野で生きているようなものです。荒野は生命にとって甚だ不利な環境です。いのちに不可欠の水がない、食べ物が乏しい。気候が厳しく危険が多い不毛の地です。人間にとって生きることが極めて難しいところです。聖書では、荒野は神から呪われたところ、悪霊の住処(すみか)とされています。イスラエルは荒野を40年間放浪し熾烈な試練の時を体験しました。

今の世界にも荒野があります。この世界には戦争、紛争、飢餓と貧困、疫病、環境破壊など人類の生存を脅かす様々な問題が存在しています。

荒野は人の外にあるだけではないのです。わたしたちの心の中にもあります。それは孤独という荒野、壊れた愛という荒野、心が闇に覆われ、人生の目標と意味が見えない、わからない、という荒野です。心の中の荒野が外の荒野をつくり広げています。また逆に外の荒野が人の心に荒野をつくり出し広げているということもあります。 

主イエスはサマリアの女に言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)

わたしたち教会はいわば荒野の中の「オアシス」でなければなりません。危険で苦労の多い荒野を旅する人を癒し、休ませ、労わり、養い、力づけ、希望を与える、それが教会です。しかし、もしわたしたちのなかに命の泉がなければどうして人を休ませ助けることができるでしょうか。主イエスから「永遠のいのちへ至る水」を受けなければわたしたちは教会の使命を果たすことができません。「永遠のいのちへ至る水」とは神のいのちである聖霊に他なりません。

「わたしたちの教会がすべての人に開かれた共同体、とくに弱い立場におかれている人々、圧迫されている貧しい人々にとって、安らぎ、慰め、励まし、力、希望、救いとなる共同体として成長するよう、力を尽くします。」

これはわたくしの着座式の決意表明です。わたしたち教会が、切に救いを求める人々にとって「オアシス」でなければならないと痛感します。

お二人にお願いします。わたくしはこの決意を守り実行したい。どうかわたくしに力を貸してください。 

ナザレのイエスは主の霊に満たされて神の国の到来を告げ知らせました。復活したキリストから聖霊を受けた使徒たちは力強く栄光のキリストをあかししました。今わたしたちにとって最も必要なのは同じ聖霊の恵み、導きです。

いまわたしたちは主なる神に、切にお願いします。

どうか主よ、預言者イザヤが告げ知らせた主の霊でありイエスご自身の霊であり聖霊降臨のときに使徒たちの心を満たした神の霊、聖霊をわたしたしたち一人ひとりに豊かにお与えください。

どうか主よ、わたしたち教会が主の霊の助けによって、救いの泉、永遠のいのちの泉のしるしとなることができますように、日本の社会のなかで苦しみ悩む人々が、わたしたち教会のなかに、癒し、安らぎ、励まし、救いを見出すことができますように、わたしたちを助け力づけてください。主キリストによって、アーメン。