教区の歴史
復活徹夜祭説教
2005年03月26日
2005年3月26日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて
わたしたちは今日、復活の聖なる徹夜祭を祝います。徹夜祭の中で通常、洗礼式が行われます。洗礼の意味は、いま行われた朗読、そのなかでもエゼキエルの預言とパウロのローマ人への手紙によって美しく説明されております。洗礼とはエゼキエルがいうように、汚れから清められること、新しい心を受けること、新しい霊を受けること、石の心から肉の心に変えていただくこと、神の掟に従って歩むことができるようにしていただくことです。また洗礼とは、パウロが言うように、キリストの死と復活に与ること、罪から解放されて復活のいのちを与えられること、古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わることです。これは本当に素晴らしいことです。いまから洗礼式が行われるのですが、洗礼を受けられますと、自分が新しく生まれ変わることができたという喜びを感じることができると思います。
ところで、洗礼を受けても何年かたつと洗礼のときの感激が遠いもの感じることが珍しくありません。といいますのは、清められ新しく生まれたはずなのに現実の自分には相変わらず問題があり、到底「これでよろしい」とはいえない状態にあると感じるからです。自分は洗礼以来進歩したのだろうか。誠実に自分を見つめれば、自分が依然として罪の状態にある、と思わざるを得ません。ですから、わたしたちは洗礼を受けた後も日々新たに生まれなければならないのです。
実は昨年も同じことを申し上げたと思います。昨年の復活徹夜祭の説教でわたくしは申しました。「洗礼の意味は生涯更新されなければなりません。死から復活へ、新しいいのちへの神秘は生涯かかって歩むべきキリスト者の道です。決定的に復活の世界に入るためには絶えず古い自分に死んで、新しい自分に生まれ変わらなければならないのです。それは生涯の課題です。人はキリストの霊を受け、霊の導きに従い生涯成長するものです。わたくしは今年の復活徹夜祭から、次の課題を確認したと思います。『日々、新に生まれ、日々、復活の証人となる』。聖霊がいつもわたしたちを照らし力づけてくださるよう、切に祈りましょう。」
「日々、新たに生まれ、日々、復活の証人となる」とはどういうことか、どうしたらそうできるのか。同じ課題を今日も取り上げご一緒に祈りたいと思います。わたしたちは神の愛を信じました。神はわたしたちを愛してくださいます。神はわたしたちの幸福を願い、そのために必要な恵をくださいます。わたしたちはそう信じました。しかし、自分自身は「到底こうであってはならない」現実のままである、と感じるときがあります。このような自分を神は愛してくださるのだろうか。そればかりではありません。神の造られたこの世界はよいものであるはずなのに、現実には、戦争、紛争、飢餓、貧困など絶えず、あってはならないことばかりです。罪と悪という現実は否定することができません。
わたしたち人間にとって罪人を愛すること、悪の世界を受け入れることは実際、難しいことです。しかし、人にはできないことでも神にはおできになれます。神が人と世界を愛しておられること、それはイエス・キリストの十字架によって示されました。十字架はいわば神の痛みです。神が罪を認め悪をゆるすはずはありません、しかし、罪人を愛し世界を新たにしてくださいます。十字架は罪人を愛し、悪の行われる世界を愛する神の痛みを示しています。罪と悪に汚れた人と世界を愛するということは「痛み」であります。罪と悪の現実を包み込む神の痛みによって神の愛が示されました。十字架によって神の愛が示されたのです。罪を犯すこのわたしを神はそれでも愛してくださいます。悪に満ちたこの世界を神は愛し、世界をあがない、いつか「新しい天と新しい地」として完成してくださいます。
この神の愛への信仰を新にいたしましょう。そして神の愛に日々お応えいたしましょう。神はわたくしに求めておられる。何を求めておられるのか。神は東京教区に求めておられる。何を求めておられるのか。神が罪人であるわたしを愛し、罪をゆるしてくださいます。この信仰はわたしたちに喜びと勇気を与えてくれます。この信仰に導かれて日々、神の呼びかけに応えてまいりましょう。神はこの世界においてみ心が行われることを望まれます。わたしたちを通してみ心が行われるよう望んでおられます。わたしたちが日々神の愛を深く信じ、神の愛に応え、神のみ心を行うことができますように。