教区の歴史
信仰年・晩の祈りと聖体賛美式(キリストの聖体の祭日)
2013年06月02日
2013年6月2日 東京カテドラルにて
コリント11・23−26、ルカ9・11b−17
この聖体礼拝は、ローマ時間で今日の午後5時にささげられるバチカンでのフランシスコ教皇の聖体礼拝に合わせて、全世界の司教座聖堂(カテドラル)で行なうように呼びかけられているものです。教皇の意向として第一に挙げられていることは、「全世界の教会の一致」です。聖体は一致の秘跡と呼ばれます。キリストと一致するしるしであり、聖体に結ばれるすべての人が一致するしるしでもあります。だから、歴史上初めてのことだそうですが、全世界で同じ時刻に聖体礼拝をするというアイデアが生まれたのです。素晴らしい考えだと思いますが、残念ながらこのアイデアを思いついた人は地球が丸くて時差があるということに気づかなかったようです。ローマ時間の午後5時は、東京では日付が変わった3日の午前0時になってしまいます。そこで岡田大司教は日本時間の午後5時にこの聖体礼拝を行なうことにしました。感謝しましょう。でも、教皇の第一の意向、「全世界の教会の一致」ということはこの時間の間、特別に、心に留めて祈りたいと思います。
フランシスコ教皇は、今日の聖体礼拝にもう1つの意向を加えました。それは「今この時も人間としての尊厳を奪われ、奴隷のような扱いをされている人。暴力によって傷つけられている子どもと女性。貧しい人、社会の片隅に追いやられている人のために祈る」ということです。いかにもフランシスコ新教皇らしい考えです。それは単なる思いつきやこじつけではありません。この貧しい人のことを心に留めるということは、まさに聖体の根本的なテーマなのです。そのことを今日、この時間にご一緒に確認したいと思います。
今日のミサで読まれ、先ほども読まれたパウロのコリント教会に宛てた第一の手紙11章は、聖体制定のもっとも古い記録と言われます。この手紙は福音書が書かれるよりも前に書かれたからです。パウロは何のために最後の晩さんの席での聖体制定について書いたのでしょうか。
コリントの教会はパウロが福音を伝え、パウロが始めたキリスト教共同体でした。パウロはそこに1年半住んで、その教会を指導しました。しかし、パウロが去ってからコリントの教会にはいろいろな問題が起こってきました。その問題を伝え聞いて、パウロがコリントの教会にいろいろと指示を与えたのが、このコリントへの第一の手紙です。
ここでの問題は、キリスト信者の集会の有様でした。今のミサは当時、「主の晩さん」呼ばれ、共同の食事を伴っていました。問題はこういうことです。
「17次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。18まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。…(略)…20それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。21なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。」
厳しい言葉です。仲間割れがあったら「主の晩さんを食べることにはならない」。この「仲間割れ」とは何でしょうか。「分裂」とも訳される言葉(スキスマ)ですが、パウロの言葉から具体的に考えられることは、「食べるものがあって満腹している人と、空腹の人との間の分裂」です。それは今で言えば貧富の差でしょうか? 格差社会の格差でしょうか?いや、むしろ「苦しむ兄弟姉妹に対する無関心による分裂」ではないかと思います。
そして今日の箇所になり、パウロは最後の晩さんのイエスの姿を伝えるのです。最後の晩さんの席でイエスがパンについて言ったこと、ぶどう酒の杯について言ったこと。福音書とほぼ同じように伝えていますが、特徴は「わたしの記念として」という言葉です。パウロだけがこの言葉を、パンとぶどう酒両方で繰り返しています。とても強調されているのです。
これは「わたしの記念として」つまり、イエスを思い出すためにしていることなのです。「あなたがたのためのわたしの体」イエスがご自分のすべてを人々のために与え尽くされた、その愛の記念なのだ。わたしたちの中に貧しい人、苦しむ人への愛がないのに、イエスの愛の記念を行なっていると言えるのか? 聖体はいつもイエスの愛を思い起こし、その愛を過去のこととして思い出すのではなく、今のこととして確認することではないのか。わたしたちが他人の痛みに無関心なまま、キリストの愛を記念することはできないはずではないか。そういう強烈な問いかけなのです。
聖体がキリストの愛の記念であり、わたしたちが愛を生きるのでなければ、聖体をいただくのにふさわしくない。このことは大切です。
しかし、もっと深くこの一コリント11章をうけとるべきでないかと感じています。この箇所は直接的には「愛」よりも「死」を強調しているからです。
パンは渡される体、ぶどう酒は流される血です。だから「26あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」人間性を剥奪され、暴力を受け、弱く貧しい者とされ、十字架の死に至ったイエスの姿を表すのがこの聖体なのだ、ということでしょう。
そしてそのイエスの苦しみは今も続いているのです。
マタイ25章のあの言葉を思い出します。
「35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」「40はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
聖体は十字架のキリストを表しています。そのキリストは、今わたしたちの目の前にいる苦しむ人を「わたしの兄弟姉妹」と呼び、その人々の中に自分がいると宣言されました。
フランシスコ教皇も、今日の聖体礼拝の意向の中で、「教会は、十字架につけられたキリストを仰ぎ見つつ、暴力におびやかされている多くの兄弟姉妹を忘れてはならない」と言います。これが今日の聖体賛美式の大きなテーマです。
マザーテレサもかつて二つの聖体拝領ということを言いました。
「わたしは毎日、2度聖体拝領をします。1度は朝のミサの中で。もう一度は日中カルカッタの街で貧しい人と出会うことをとおして、キリストをいただくのです」この言葉も聖体を見つめながら思い起こしたい言葉です。
先日、大阪で母子家庭の親子二人が餓死していたのが発見されたというニュースがありました。周囲の誰も何もできなかったことが悲しいし悔しいですね。
孤立して、死ぬしかないところまで追いつめられてしまう人が大勢います。
いじめや暴力の被害を受け続けている人も大勢います。
被災地の仮設住宅の高齢者。元気で力のある人から自分の家を手に入れて、仮設住宅を出て行き、取り残されるのは一番弱い人々。
原発事故で避難していて、まったく先が見えない人。健康を害したり、お金が尽きていく人もいます。
日本に難民申請をしている人が急増しています。仕事をすることも許されず、ただただ待たされていて、お金がなくなってしまってホームレスになっていく難民の人もいます。
オーバーステイの外国人の状況も厳しいです。子どもは日本で生まれ育ち、日本語しか分からないのに、親の不法滞在が見つかり、親は強制送還される。家族と離れて日本に残るか、見知らぬ国に行くか、というところに追いつめられている10代の子どもたちがいます。そういう家族に対する人道的な扱いが日本では後退しています。
最後に今日のルカ福音書も少しだけ思い起こしましょう。
「イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』」
弟子たちにはとても無理だと思ったのです。でもイエスは「あなたがたにできることがある」とおっしゃるのです。わたしたちにもできることがあるはずです。それは今、苦しみと困難の中にある人々に思いを馳せて、祈ること。今日の福音には「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え」とありますね。イエスも祈ることから始めました。そこから始めましょう。
きょうわたしたちは、顕示された聖体を見つめています。聖体を仰ぎ見ながら、今この世界の中で苦しむ兄弟姉妹のために、フランシスコ教皇と心を合わせて祈りたいと思います。