教区の歴史

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野獣と天使

2009年03月01日

・・・「カトリック新聞」2009年3月1日付(3993号)掲載

マルコ福音書はマタイやルカと違って、荒れ野でのサタンの誘惑の言葉やイエスの答えを伝えていません。そのかわりにこういう言葉があります。

「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」

この言葉は何を意味しているのでしょうか。旧約聖書から考えてみましょう。獣といえば、イザヤ書にはこういう箇所があります。

「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(イザヤ11・6‐9)

これは神の救いが完成する時の様子を描いた箇所です。そこではもう、どんな動物も人間も傷つけあうことがなくなり、完全な平和が実現するというのです。豊かな救いのイメージがここにはあります。イエスがサタンの誘惑を退けた結果、そこにはこのような完全な平和が実現している、とマルコ福音書は言いたいのでしょうか。

ところで、詩編91にも獣のイメージが現れます。ここにはマルコ福音書と同じく、天使 (御使い)も登場しています。

「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く」(詩編91・11‐13)

この獣たちはまだ人間を害するおそれがあります。危険はなくなっていません。しかし、神が守ってくださるから、天使がともにいてくださるから、その獣に打ち勝つことができるというのです。

自分を害するものに囲まれている中で神の守りに信頼し続けること、これがイエスの荒れ野の中での決断だったのではないでしょうか。それはまた、十字架の死に至るイエスの歩み全体を貫く姿勢でもありました。

わたしたちの状況も似ています。わたしたちは天国の平和の中に生きているわけではありません。人生はさまざまな危険に満ちていて、いつも不安や恐れがわたしたちにはあります。まわりは皆、野獣だらけ、と感じることさえあるかもしれません。その中でこそ、わたしたちの神に対する信頼が問われるのです。四旬節をとおしてわたしたちがこの信頼の道をイエスとともに歩んでいくことができますように。