教区の歴史

教区の歴史

すべての人を大切にするために

2007年07月01日

・・・「一粒会だより」第50号 2007.7 掲載

韓国人のプロテスタントの牧師さんにこう言われたことがあります。

「韓国の独裁政権の時代、カトリック教会は民主活動家をかくまうなどの行動によって民衆を守る立場を貫きました。だから韓国では、キリスト者ではない一般社会の中でも、カトリック教会は大きな信頼を受けるようになったのです」

日本のお隣、韓国の教会には大勢の若い信者、神学生がいます。韓国のカトリック教会が急成長した理由はいろいろあるでしょうが、一つにはこのことがあると教えられました。韓国人のカトリック信者と会っていて感じることは、彼らが自分たちの信仰に自信と誇りを持っているということです。それは、「この信仰を生きることが、人間としてあるべき生き方なのだ」という自信と誇りだと言うことができるでしょう。

イエス・キリストの福音は、一言で言えば、「神がすべての人の父であり、わたしたちは皆、神の子であり、お互いに兄弟姉妹である」ということでした。だからイエスは、すべての人を大切にして生きられたのです。労働の禁じられた安息日であっても、目の前に苦しむ人がいれば手を差し伸べました。罪びとのレッテルを貼られている人をご自分の食卓に招き、食事を共にしました。そのイエス・キリストを信じるわたしたちは胸を張ってこう言うことができるはずです。

「キリストを信じて生きることは、すべての人を大切にすることだ」

一方で、日本の識者といわれる人々の論調の中には「一神教は不寛容だ。一神教を信じるからテロや戦争が起こる。日本に一神教はいらない」というような意見があります。確かに宗教が人間を守らない場合もあります。自分たちの教えを絶対化して、それに従わない人を抹殺してもよい、と考えるような悪い意味での「原理主義(ファンダメンタリズム)」に陥る危険が宗教にはあります。キリスト教の歴史の中にもこのような過ちがありました。かつてのオウム真理教もそうでしたし、今のイスラム原理主義のテロリストにも同じような問題があります。

しかし、だからこそ、わたしたちは、「すべての人の父である神を信じることは、すべての人を兄弟姉妹として大切にして生きることだ」という福音を生きたいのです。神を見失い、人間よりも国家や経済原理が重んじられるような社会になっていく傾向のあるときにこそ、わたしたちはこの福音を見失ってはならないのです。

教会は、今の時代の中で神から大きな使命をいただいています。司祭職とは、教会の中で、この福音への奉仕を特別な仕方で生きることです。

若者たちよ、この大きな呼びかけを感じ取ってください。