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教会学校リーダーの皆さんへ 「東京教区こどものミサのお知らせ」
2013年08月15日
教会学校リーダーの皆さんへ
「東京教区こどものミサのお知らせ」
2013.8.15
東京教区教会学校委員会
2013年度東京教区「こどものミサ」
【日時】 2013年10月13日(日) 午後2時半~5時
【場所】 東京カテドラル関口教会「聖マリア大聖堂」&前庭
【テーマ】 「先生、目が見えるようになりたいのです」(マルコ10・51)
- あなたの信仰があなたを救った-
今年も東京教区主催の「こどものミサ」が、10月13日(日)午後2時半から、東京カテドラルにておこなわれます。「こどものミサ」では、毎年参加される小教区ごとに、テーマに基づいた奉納物を準備していただき、当日のミサで奉納するという形をとっています。
そこで、今年のテーマについて、テーマに関するカテケージス(教え)、奉納物など、教会学校リーダーの皆さんに、当日までに子どもたちと共に準備していただきたい事についてお知らせします。
=お知らせの内容=
1.テーマについて
テーマとなっている聖書の箇所についての説明です。子どもたちとより豊かな準備が出来る様に、リーダーの皆さんもテーマとなっている聖書の箇所を深く味わってみてください。
2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)
「1.テーマについて」および「2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参考にしながら、当日までに子どもたちにカテケージス(教え)を行ってください。
3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明
製作していただく奉納物についての説明と注意点、製作時のヒントなどをまとめました。製作した奉納物は、こどものミサ当日に持参してください。 ミサ中に奉納して頂きます。
1.テーマについて
「先生、目が見えるようになりたいのです」(マルコ10・51)
-あなたの信仰があなたを救った-
今年のテーマとなっている聖書の言葉は、バルティマイという盲人がイエスさまに向かって言った言葉です。バルティマイは、人々に叱りつけられても、イエスさまに叫び求めることをやめませんでした。そのバルティマイに向かってイエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。『信仰年』を過ごしているわたしたちは、こどものミサを通して、信仰という恵みをより深く受け取らせていただきたいと思います。マルコ10章46~52節を一度お読みいただきたいと思います。
◇
一行はエリコの町に着きました。
イエスさまが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」
と言い始めました。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしましたが、彼はますます、
「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」
と叫び続けました。
イエスさまは立ち止まって、
「あの男を呼んできなさい」
と言われました。人々は盲人を呼んで言いました。
「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところに来ました。
イエスさまは
「何をしてほしいのか」
と言われました。盲人は、
「先生、目が見えるようになりたいのです」
と言いました。そこでイエスさまは言われました。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスさまに従いました。
(マルコ10章46~52節参照)
◇
この箇所は「盲人バルティマイをいやす」という小見出しがついているところで、小見出しの通り、イエスさまは盲人バルティマイの目を見えるようにされます。しかしこれはただ「目が見えるようになった」という奇跡物語ではなく、イエスの名を聞き、あきらめることなく求め続け、従うべきお方を見出し、イエスの道、救いの道に入ったという信仰の物語です。
今回の「こどものミサ」では、テーマとして「先生、目が見えるようになりたいのです」という盲人バルティマイの言葉を選び、また、サブテーマとして、イエスさまが言われた-あなたの信仰があなたを救った-という言葉をもうけました。
「目が見えないという苦しみがあったこと」、「ナザレのイエスの名を聞いて叫び続けたこと」、「イエスに呼ばれたこと」、「躍り上がってイエスのところに行ったこと」、「望みをイエスに打ち明けたこと」、「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った、と言われたこと」、「そしてイエスに従ったこと」・・・
この短い物語の中に、わたしたち一人ひとりの歩みにも直接関わりのある、信仰と救いのエッセンスが凝縮されています。信仰年の終わりが近づいている今、わたしたちの信仰を振り返り、深めていくために、今年のテーマを設定しました。ここでは福音書の言葉に解説を加えながら、テーマについて説明していきたいと思います。
「ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた」
イエスさまが、エリコという町を出て、エルサレムに向かおうとされた時のことです。
原文では、バルティマイは「その道のかたわらに座っていた」と書かれています。「その道」とは、イエスの道。それは受難への道、十字架の道、そして十字架を通して復活のいのちが現われる道です。バルティマイは、まだその道の傍らにたたずんでいます。
「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」
目が見えないという長い苦しみの中で、(この方が救ってくださる)という直観が整えられたのでしょうか。バルティマイは、イエスさまに向かって叫び始めます。そして、多くの人々が叱りつけても、黙らせようとしても、彼は叫ぶことをやめませんでした。人の世には救う力がないということを、深く体験していたバルティマイは、どんなに人々が叱りつけようとも、黙らせようとしても、イエスさまに向かうまなざしを変えません。
「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んできなさい』と言われた。」
イエスさまは、「叫び」に答えて「呼ばれ」ます。神は、呼び求める者の叫びに、答えてくださる方なのです。
イエスさまは、弟子を通してバルティマイを呼ばれます。道の傍らにいるバルティマイとイエスさまとの、象徴的な距離を表しているのかもしれません。またこのことは、神さまが、「人を通して」わたしたちに働きかけられるという、わたしたちも経験している現実をも思い出させてくれます。
「人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」
イエスさまに呼ばれたとわかると、バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところに来ました。イエスの道の傍らにいたものが、イエスの道の中に入ったのです。
上着というのは物乞い、つまり路上生活者にとって、夜露から身を守る家であり、寝具であり、また施された物をしまっておく場所でもありました。自分の生活を支える「よすが」です。それを脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところに行きました。
すぐに網を捨ててイエスさまに従ったペトロとアンデレ(マタイ4・20)や、急いで木から降りてきて、大喜びでイエスさまを迎えたザアカイ(ルカ19・6)が思い出されます。
バルティマイは、今まで自分を支えていたものを置いて、自分を招く道へ、より大きな価値に向かって躍り上がったのです。
「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。」
この箇所の直前に、「ヤコブとヨハネの願い」という出来事が書かれています。意図的に、対比するために書かれています。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と願い出た二人に、イエスさまは「何をしてほしいのか」と言われます。今日のことばと全く同じです。するとヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と言います。それに対してイエスさまは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とお答えになります。
「今」、イエスさまに従うということは、近い将来、死をも覚悟しなければならないことになるだろうと、二人は感じていたのでしょう。それで、「今」、従っていくために「栄光の時には、自分が右大臣、左大臣に取り立ててもらえる」という「未来」の確証が欲しかったのかもしれません。しかも、その確証とは、右と左という「地位」。人との比較の世界での確証です。
しかし、イエスさまはそれをお褒めにはなりません。
一方、今日の福音のバルティマイは、全く同じ問いに対して、
「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えています。(この「先生」は「ラボニ」・・・わたしの主よ、という意味の言葉です。福音書ではあと一ヶ所、ヨハネの福音書でマグダラのマリアが、復活されたイエスに呼びかけるところで使われています:ヨハネ20・16)
バルティマイは、「主である方に、自分が『今』まさに、何を望んでいるのか」を、はっきり知っていました。長い苦しみの中で整えられたのでしょうか。自分の望みが何であるのかをはっきり知っていました。そしてイエスさまは、それをお褒めになっています。
「『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」
「信仰」とは、「今、共におられるお方と、今、結ばれて生きること」ではないかと思います。
神さまとは「共におられるお方」です。イエスは「インマヌエル」と呼ばれ、それは「神は我々と共におられる」(マタイ1・23)という意味です。また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)言われました。
「信仰」とは、「今、共におられるお方と、今、結ばれて生きること」ではないかと思います。
そしてそれは、何があっても。人に何を言われようとも、されようとも、今、共におられるお方と、今、結ばれて生きることではないかと思います。
委員会のスタッフとの分かち合いで、「今、イエスさまに『何をしてほしいのか』と問われたなら、何と答えるだろうか」と質問したとき、あるスタッフは、「内容はともかく、自分の努力によって何とかなる可能性のあるようなことは願わないだろう」と言いました。それはつまり、願うのは「人間の力によっては、どうにもならないこと」だということです。
バルティマイについてもそうでした。「目が見えるようになりたい」ということは、人間の力によってどうにかなるという範囲を超えていました。しかしバルティマイは、「イエスというお方が、そのことができる力をもっておられるという真実」に、結ばれていました。人から何を言われようと、結ばれていたのです。
イエスさまはそのことを「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられるのだと思います。
盲人は、すぐ見えるようになり、「その道」をイエスに従った、のです。
「救い」とは何でしょうか?
救いとは、「今、共におられるお方と、今、結ばれて生きること」その歩みとの「出会い」だと思います。
盲人バルティマイは、目が見えるようになりました。しかし、彼の救いとはただ目が見えるようになったというところにはありません。目が見えないという苦しみの中で、人の力を超えるお方への眼差しが整えられたこと、そして、そのお方に従って歩むという道に、出会わせられたことだと言ってよいと思います。
聖フランシスコ・ザビエルによって、日本にキリスト教が伝えられた最初の時期に、日本人への宣教のために大きな働きをした方の中に、ロレンソ了斎(1526-1592)がいます。彼は肥前の国(現在の平戸市)の生まれですが、目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていました。しかし、1551年、山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞き、キリストと出会い、ザビエルの手によって洗礼を受けました。そしてロレンソという洗礼名をいただいたのです。彼の25歳の時の出来事です。
彼は目が見えるようになったのではありませんが、「その道」が見えるようになり、イエスの道に出会い、その道を従う者となりました。ザビエルが日本を離れた後も、イエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事しました。当時多くの人が洗礼を受けたのは、ロレンソ了斎の働きによるものが大きいと言われています。
「あなたの信仰があなたを救った」。
イエスさまの言葉を、大切に思いめぐらしたいと思います。
◇
2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)
今年のテーマ「先生、目が見えるようになりたいのです」(マルコ10・51)を受けて、当日のミサの福音の箇所はマルコ10・46~52としました。事前に福音の内容に親しんでおいていただくために、リーダーのみなさんに子どもたちといっしょにやっていただきたいことがあります。簡単に以下のようにまとめてみました。
1.当日の福音 マルコ10・46~52を子どもたちに読んで聞かせる。
盲人バルティマイが「先生、目が見えるようになりたいのです」と願い、イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」と言われる箇所です。リーダーのみなさんが、一度子どもたちの前で声を出して、読んで聞かせてほしいと思います。
2.言葉の説明をする。(必要に応じて内容を調整なさってください)
「ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた」
→「物乞い」というのは、人から恵んでもらう物やお金で生活している人。目が見えないバルティマイはその当時、そのようにしなければ生きることができませんでした。
→「道端」とは、道のほとりのこと。
でもこれは、「イエスさまという道」のほとりでもあります。
「イエスさまという道」は、いのちと、救いに向かう道です。
「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた」
→テレビも、電話も、インターネットもなかった時代に、イエスさまの評判は、風の噂でバルティマイのところにも届いていたのでしょう。「イエスさま」と聞いたバルティマイは、「この方が助けてくれる」と思ったのではないでしょうか。それで「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。「ダビデの子」とは、救い主のことです。
「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
→バルティマイは、目が見えませんでしたが、心の中の目はイエスさまを見つめて、だれがなんと言おうと、そこから離れません。そして叫ぶこともやめませんでした。
「イエスは立ち止まって『あの男を呼んできなさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ』」
→イエスさまは、人を通してバルティマイをお呼びになりました。神さまは、人を通して働きかけてくださるお方です。バルティマイは、人の言葉を通して、「呼んでおられるイエスさま」に出会いました。
「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」
→上着が、盲人の路上生活者にとって、財産のすべてであったことを、こどもたちにお伝えください。夜露をしのぐ家であり、夜休む時の寝具であり、恵んでもらったものを蓄えておく場所でもありました。でも、呼んでくださったイエスさまのところに行くすばらしさのために、それらを置いて、イエスさまに向かって躍り上がったのです。
「イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた」
→「何をしてほしいのか」と言われたイエスさまご自身は、ご自分は「何をしてほしいのか」よく知っておられました。イエスさまの望みは、わたしたちの「救い」です。救いとは「今、共におられるお方と、今、結ばれて生きること」です。わたしたちに、「そうなってほしい」のです。
しかし、イエスさまはそのことを無理強いしません。今わたしたちが抱いている「わたしたちの望み」を最大限に尊重される方なのだと思います。そして、その「望み」を生かしながら、わたしたちが救われることを、実現させてくださるのです。
「盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った」
→バルティマイは、長い苦しみの中で、「自分が、何をしてほしいのか」知っていました。
わたしたちは、もし「今」神さまに、イエスさまに「何をしてほしいのか」と問われたならば、何と答えるのでしょうか。また、すぐに答えられるのでしょうか。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」
→バルティマイは、自分が「何をしてほしいのか」を「知って」いました。
また、イエスさまがそのことをお出来になる力のある方と「知って」いました。
そのことを「あなたの信仰」と言っているのだと思います。
この「知っている」は頭で知ることでなく、「出会っている」ということだと思います。
「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」
→バルティマイは、目が見えるようになりました。しかし、本当の「救い」は目が見えるようになったことではなく、イエスさまに従う「道」を見出したことです。そして、イエスさまに従ったことです。イエスさまと同じ顔の向きで生きるようになったことです。
わたしたちも、「自分がしてほしいこと」を通して、イエスさまに従う「道」を発見するようにと、神さまから期待をかけられているのだと思います。
3.こどもたちに質問する。
バルティマイは、多くの人が叱りつけて、黙らせようとしたけれど、黙りませんでした。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。
「バルティマイは、どうして叫び続けたのだろう?」(補助質問)
→どうしても、目が見えるようになりたかったから。
→イエスさまなら、願いを聞いてくれると思ったから。
こどもたちはすぐ、上のような答えをするかもしれませんし、全くわからない・・かもしれません。
いつものことですが、無理に答えを出そうとしなくてよいと思います。
まず、どんな意見も「そうかもしれないね」と、答えてくれたことを大切していただいたらいいと思います。
おそらく、意見を大別すると
(1)バルティマイの望みの強さ、
(2)イエスさまへの信頼と期待
になるのではないかと思います。
一度リーダーの皆さんが、
「(バルティマイが叫び続けたのは)、どうしても、目が見えるようになりたかったから、そしてイエスさまなら、願いを聞いてくれると思ったから、かもしれないね」
とまとめていただければと思います。
そして、更に問いかけていただきたいと思います。(これが主質問です)
「みなさんが、もし今、イエスさまから『何をしてほしいのか?』と言われたら、何と答えますか」
人に叱りつけられても、絶対に言うのをやめないほどに、してほしいことが、なにかありますか」
簡単に「ある」という子も、「う~ん」という子も、「ない」という子もいるかもしれません。
「お金~」という子も、「両親に仲良くなってほしい」という思いの子も、「妹の病気が治ってほしい」という願いの子もあるかもしれません。大人の目から見て「あれあれ?」と思ってしまうような願いもあるかもしれません。でも、その願いが本当にその子の願いであるならば、神さまはそれを大切に扱いながら、しかし、本当に必要なものに導いていってくださいます。
4.イエスさま(神さま)に手紙を書く
先の問いへの答えを、子どもたちに手紙に書かせていただきたいと思います。
「イエスさまに(神さまに)、お手紙を書こう」
「みなさんが、もし今、イエスさまから『何をしてほしいのか?』と言われたら、何と答えますか」
・手紙に書いてください。教区のこどものミサの時に、いっしょに奉納します。
・イエスさま(神さま)は、皆さんが真剣に書いたことには、真剣に答えてくださいます。
・だから、本当に真剣に、誰にも内緒で、書いてみましょう。
・名前は書かなくていいです。
*できればリーダーも一緒に書いていただくと、子どもたちもより一生懸命に取り組むと思います。子どもたちが書いた手紙は、一まとめにして、ミサ当日持参いただき、ミサ前に所定の場所(当日指示します)に置いていただきます。
5.リーダーが子どもたちに教える
最後に、子どもたちに次のように話していただければ幸いです。
「今、みなさんは、イエスさまに「何をしてほしいのか」を書きました。みんな内緒ですが、いろいろな望みが書かれたことと思います」
「神さまは、わたしたち一人ひとりの中に、それぞれにかけがえのない『望み』や『願い』を創ってくださっています。それらはみんな、とても大切なものです。神さまもそれを大切になさいます。」「だからその望みや、願いを大切にしてください。神さまはその望みを、最高のものに変えてくださいます。」
「イエスさまに従い、イエスさまと同じ向きで歩む道を発見させてくださいます。」
*もし、自分は何を願っているのかわからなかったのに、その願いを通して、すばらしいものを与えていただいた経験があるなら、子どもたちに話してあげてほしいと思います。
3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明
今回の奉納は、小教区(聖堂共同体)ごとに、1.「喜びの光(燭台)」(後で詳述します)と2.「イエスさま(神さま)への手紙」を奉納していただきます。1.は、一人の子どもが運べるような物にしていただきます。2.は受付後に指定の場所(パイプオルガン下付近)にカゴを用意しますので、そこに入れてください。(いずれも当日持ってきてください)
製作していただく奉納物については、当日のスムーズな進行のため、ある程度の制約をこちらで決めさせていただきました。ご協力のほどよろしくお願いします。
1.「喜びの光(燭台)」
今回は、バルティマイが見せていただいた「喜びの光」を(燭台)の形で表現し、祭壇の前の階段に並べた時、それがイエスさまへの「光の道」となるような形に奉納したいと考えました。
以下の要領で、各小教区で「喜びの光(燭台)」を作ってください。
◇個数:小教区毎に1個
◇機能:「喜びの光(燭台)」は、カテドラルの祭壇の前の階段に置きます。上の段から順に、下の段に行くにつれて、置く個数を増やしていくことで、「光の道」を作りたいと思います。
◇大きさ:高さ30センチ(大きさを統一しないと、他の燭台が隠れてしまうため)燭台のろうそくの火が灯る部分の高さを30センチにしてください。台座の奥行き38センチ以下(祭壇の前の階段に置くため:38センチは階段の幅です)でお作りください。
(ただし子ども一人で持って奉納できる大きさ・重さ以下(厳守))
◇材質:可燃物でお願いします。
特に、当日持ち帰りを希望されない教会の奉納物は、教会学校委員会で適切に後処理を行いますので、金属、粘土などではないもので作って頂きますようお願いします。)
作り方について
・特にありませんが、前述したように、ろうそくの火が灯る部分が30センチの高さになるように、お作りください。
・台座の部分の装飾で、光をいただいた、バルティマイの喜びを表していただければ幸いです。
【お願い】・・・安全に関することなので、特にご注意ください。
◆燭台の上面中央に、ろうそくをしっかりと固定してください。
(倒れると火災の恐れがあるので、細いろうそくは不可です。)
・ろうそくは、ミサの時に祭壇で使う、太いろうそくにしてください。
・ミサで使用して短くなったものを借用したらよいと思います。(10㎝位あればよいです)
・ろうそくの回りには、燃えるものを飾らないでください。
・ビンの蓋やアルミホイルを利用して、溶けたろうが流れないように工夫して下さい。
◇火災・やけどの危険防止のため、ろうそくへの点灯は、祭壇に奉納された後にします。スタッフが点灯をします。
2.「イエスさま(神さま)への手紙」
◇子どもたち(一人ひとり)からイエスさまに手紙を書いてください。
・今回の内容は、イエスさまから「何をしてほしいのか」と聞かれた時の答えです。
・手紙の紙質,大きさや色などについて、特にきまりはありません。
・手紙の内容については、「2.ミサまでに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参照してください)
◇書いた手紙は、中央通路後方、パイプオルガン下付近にカゴを用意しますので、そこに出してください。受付を済ませたら、リーダーがみんなの手紙をまとめてカゴの中に出してください。
奉納物&手紙の奉納
◇「奉納物(燭台)(手紙)」はミサの中で奉納します。
・各教会1名の代表者(厳守)が、中央通路を通り、祭壇まで進みます。そして大司教様に手渡します。その後、係が奉納物を並べていきます。(※例年奉納の行列が長くなってしまうので、代表者は必ず1名でお願いします。)
・(手紙)は、代表者2名が、全員の分を奉納します。
・「奉納物」を持ち帰りたい教会は、ミサ当日に会場の受付で申し出て下さい。ミサ後お返しいたします。(手紙はこちらで預かり適切に処理をさせていただきます。)
以上、説明が大変長くなりましたが、よろしくお願いいたします。
ご質問等ございましたら、下記お問い合わせ先までご連絡ください.
問い合わせ先:
東京教区 教会学校委員会 担当司祭
稲川圭三神父(カトリック麻布教会 主任司祭)
電話: 03-3408-1500
fax: 03-3408-2575
e-mail: keizo.ina@nifty.com
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