お知らせ

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Tangible第23号

2024年07月04日

受講生の声

「よきカテキスタ」を目指して―求道者と希望を語るために

受講生
第6期生
吉祥寺教会 中村 優治

◆0. はじめに
所属教会司祭:「どうしてこのカテキスタ養成講座を受けたいと思うのですか?」

私:「人に教えることが好きで、カトリック信徒として聖書のことを少し知っていますので、洗礼志願者の人に教えてみたいと思います。教えるためにはもっと勉強しなければなりませんので、この講座を受講しようと思います」

この会話は教区カテキスタ養成講座募集の案内を見て、所属教会の司祭に推薦状を書いていただいた時のやり取りです。この時の私の返事はあまり人を感動させるような、説得力のある、強い意気込みを感じさせるものではなかったと思います。

その後、個人的な事情と、コロナ禍も重なり、この言葉を発してから、3年近く経ちました。そして、ついに昨年、本講座を受講することが決まり、9月に講座が始まって半年以上が経過しています。本稿では、現在の自分自身の信仰を「受講前」、「受講中」、「これから」の三つの視点から今一度見つめ直し、自分自身の変化、気づき、そして成長、などについて述べてみたいと思います。

◆1. 受講前の準備
まずは、講座の目標確認です。生涯養成委員会が示しているカテキスタ養成講座開催理念および生涯養成委員会紹介の中に記されているカテキスタ養成講座の目的(例えば:受洗を希望する方への入門講座を担当する方の養成を目的とすること、入門講座を担当する者たち自身が求道者と共にあること、イエスの出来事を記憶し、宣べ伝え、奉仕する必要性があること、講座では受講者に準備の場、学びの場、体験の場を提供するために模擬授業があることなど)をよく読み、さらに教会憲章にある信徒の義務も今一度よく確認しました。

◆2. 受講後(現在受講中):カテキスタ養成講座を受講してみて
ここでは、講義、模擬授業、講評の三つの側面から体験談、反省点などを述べます。

2.1.講義受講体験記
猪熊神父様の講義を受けて、まず思い知らされたのは、「分かっている(知っている)と思っていること」と「分かっている(知っている)こと」とは違うということです。あれだけ事前準備をしていたのに、キリスト教について分かっているつもりでいたのに、ほとんど何も分かっていない自分を本当に情けなく思いました。

講義中に配布された資料、スケマとメモを繰り返し繰り返し読み、毎回の受講者の模擬授業を受け、それぞれの人への講評を伺いながら、なんとか以下に記した全体像が少し、分かりかけているところです。模擬授業のたびに、スケマに戻り、スケマから、模擬授業に向かい、講座全体の森を見たり、毎回の授業という木を見たりして、受講しているのが現在の状況です。

2.2.模擬授業体験記(現在体験中)
1)レジメと原稿の準備と音読練習について
模擬授業の準備に当たっては、まず、聖書朗読箇所を音読し無制限に読み込み、さらに、解説書など必要な文献資料をできるだけ読み込みます。そして、レジメを念頭に置きつつ、何十回も書き直しながら草稿を練ります。また、レジメはスケマに記されているテーマを大前提に、必要な項目を押さえながら、話の展開と合わせて書くようにします。

原稿の方は、発表の最初の枕、ちょいネタ、などを少し加えるなどして、レジメと齟齬がないように流れをしっかり確認しておきます。

原稿が出来上がったら、原稿の音読練習(練習回数制限なし)です。その後、原稿を読まないように心がけながら、発表練習(時間、目線、声などを気にしながら、練習回数制限なし)をします。とにかく、「原稿を読まないで、相手を見て」この言葉を心の中で何度も何度も繰り返しながら練習します。同時に、時計を見ながら、持ち時間を気にしながらの練習です。ただ、練習あるのみだと思います。

2)模擬授業実演体験について
ここでの反省点は、「できると思っていること」と「できること」とは違うということです。多分時間内に人に分かりやすいように話せるだろうと高を括っていたところ、コメントはとても厳しいものでした。ここでも、講義の後で実感したことと同じで、「知っている(分かっている)と思っていること」と「知っている(分かっている)こと」とは違うことを改めて認識しました。そして、知識として知っていることと、それをうまく発表できることとは大違いであることを思い知らされました。それにしても、とにもかくにも、ここでも、さまざまなことに関して、知らないことが多すぎることを痛感しました。一生学んでも追いつかないでしょう。

実演第1回目の流れは以下の通りでした。

○まずは短い祈りで始めます。
○そして、内容に入る第一声です。落語の枕の部分のようにここで聴衆を引き付けることができなければあとはもうだめです。
○何とかうまくいきました(と自分では思う)。自分としては練りに練った話だった(電車の中でのphilosophyの話です)。
○話は曲がったりくねったりしながら、どんどん進んでいき、原稿を読まないように気を付けているつもりで、いつの間にか読んでいました。20分、30分、過ぎていくうちに、レジメを見ていた人も私の個人的な信仰に関するエピソードの話になると顔をあげて聞き入っています。相手の目が輝きます。相手の顔がこちらを見ます。相手の表情が生き生きとしています(これだと思いました)。伝わるとはこういうことかと思いました。相手の心に響く話には美辞麗句を並べる必要はありません。自分の言葉で自分の思いを、相手の目を見ながら自然に語りかければいいのだと思いました。
○50分の持ち時間を使い切りました。
○短いお祈りで終わりました。

3)講評(スタッフ、カテキスタ先輩、猪熊神父様)から学んだこと
講評、コメントはその教場にいる受講者以外のすべての方からいただけます。どの人も本当に、温かみのある、鋭い指摘をしてくださり、とてもありがたいです。また、目線や話し方、内容などすべてにわたるコメントをいただけて本当に感謝しております。

◇スタッフからいただいたコメントに関して
多くのさまざまな適切なコメントがとてもうれしいもので、どれも役立つものばかりです。例えば、目線、言葉遣い、内容のことであったり、細かいしぐさ、表現、などについてもコメントをいただけて、本当にありがたいです。

◇カテキスタ先輩からいただいたコメントに関して
現場で経験したことを基に指摘してくださるので、現実的でとても有益な助言となります。さらに受洗希望者の視点で捉えたご意見などもあり、とても参考になります。

◇猪熊神父様からいただいたコメントに関して
まずは、猪熊神父様のコメントがどれ一つとってみても本当にぴったり当たっていてびっくりしました。すべてがなるほどと思えるほど的確で、また、温かみのある厳しい・鋭いコメントをいただけるのでとてもありがたいです。そして、大所高所からのコメントと同時に、細かい心配りのあるアドバイスが心にしみます。さらに、1回ごとの反省、コメントではなく次回、その次の回にもつながる応用と示唆に富んだ講評をいただけるので感謝しております。

4)総合まとめ:毎回の講座で得られる貴重な経験
毎回の講義、模擬授業準備、模擬授業実演、講評の一連の流れで学んだことをまとめてみますと、以下の通りです。ただ、学んだだけで実行できているかどうかは甚だ心もとないのですが、大まかには次のような感じです。

講座では自分の変化を客観的に見つめる機会が多くあります。他の受講者の模擬授業を拝見させていただいて特にそう感じますし、大変参考になります。また、神学や聖書に関する知識の量が圧倒的に増加したと自分では思います。さらに、教え方に変化が生じていると感じます。例えば人前に立って教える際の、無意識的な動き、口癖、などに気を付けるようになりましたし、完璧に改善されているかどうか分かりませんが、改めるよう努力するようになりました。一方で、信仰においても変化がみられ、具体的にどのようにと言われても表現できないのですが、神に対する、思い、見方、考え方が深く、広くなったように思われます。聖書に特化して述べますと、大局的聖書理解と詳細な聖書箇所理解がより深まり、体系的に理解できるようになりつつあるように思います。

レジメの作り方、話し方など技術的な側面でも大きく変化し、レジメの効果的な作り方、使いこなし方、レジメと話の結び付け方、話の効果的な進め方など多くのことを学んでいます。

また、自分自身がコメントをする側に立った場合の立ち位置の難しさ、コメントをする際の基準の設け方の大変さを学び、コメントをするのは難しいだろうなあとつくづく思っております。

すべてにおいて、準備が人を成長させ、準備が結果を生み、準備が人を前進させることを改めて学びました。いまさらですが、目標に向かって準備をすることの重要さをつくづく感じているところです。

現時点でカテキスタとして必要なこと・ものは何かと問われたら?

まずは、キリスト教信者として当然ですが、教材(聖書)研究の大切さ(聖書を徹底的に読むこと)です。それから、言語的要素(言葉の選び方、言葉の使い方)と同時に非言語的要素(目線、語りかけ、声量)にも注意を払うことが必要です。ここまでは、話し手としてのカテキスタの部分ですが、カテキスタは聞き手としての役割をも持たなければならないことを学びました。それは、受洗希望者からの質問を聞くことも当然あるでしょうし、自分の発表の後の多くの人のコメントを聞くという行為もあるでしょう。つまり、人に教えると同時に人から学ぶという両方の側面をカテキスタが持っているということだと思います。

よく言われるように、カテキスタの仕事は「教えるのではなく求道者に気づかせる、教えるのではなく求道者と共に歩む、教えるのではなく求道者に信仰を伝える、求道者の魂に突き刺さるように信仰を訴えることである」と思います。信仰をうまく伝えることはやさしいことではありません。自分の言葉で分かりやすく伝えることは簡単なことではありません。だからこそ、カテキスタの奉仕はやりがいのあることだと思います。

◆3. 結論:これからの私
三好(2021)は、日本人の信仰心について、全体的に薄くなり、宗教に「癒し」などの役割を期待する人々が減少し、多くの学生が宗教に関心がないと述べています。しかし、そのような学生の中にも、キリスト者として真に生きた人々(キング牧師、マザー・テレサなど)の生き方を通して、キリスト教が自分の魂にとても大切なことを伝えていると感知すれば、素直に、柔らかな心で、キリストの教え、キリスト者の生き方を受け止めるとも伝えています。つまり、三好(2021)が言うように、日本人の信仰心は眠っているだけで、人は魂に響く生き方を目にすれば、また、ぴたっとくる言葉で語られれば鋭く反応すると思われます。

このような人々の信仰心を呼び起こし、共に歩む仲間作りをするために、(カテキスタ候補者)は自分の信仰を、魂のこもった借り物でない言葉で語ることができるよう、この講座での学びを基に、日々努力を続けて行こうと思っております。

洗礼をすでに受けたキリスト者である自分自身の役割と義務を今一度再確認し、この講座からいただく多くの学びと恵みを基に、洗礼希望者の信仰心を呼び覚まさせられるような、魂のこもった話ができるように、日々精進したいと思います。

今回のカテキスタ養成講座を受講することができて本当に良かったと思います。毎回の講義、自らの模擬授業の準備、実演、講評を通して、分かっているつもりでいたことが全く分かっていなかった、できるつもりでいたことが全くできない、など本当に恥じ入るばかりです。改めて学び続けることの必要性・重要性を痛感しております。このような貴重な反省の機会をお与えくださった神のお恵みに感謝します。私たちは誰かから教え続けられることが大切だとつくづく思います。

フランスの詩人・小説家ルイ・アラゴン(1897-1982)は「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」と言っています。日本の教会は、多くの社会問題を抱え込んでいると言われています。多くの難題を抱えて苦難にあえいでいるとも言われています。こういう苦難の時だからこそ、私たちカテキスタ候補者は入門希望者、洗礼希望者と共に信仰の中に「希望を語り」、語るために学び、学ぶために「誠実を胸に刻む」ことが必要になってくるのだと思います。

本稿の冒頭で述べました講座申し込みの申請書を書いた際に、私が所属教会の司祭に申し上げた「教えたい。そのために学びたい」という言葉の意味するところは、「入門講座受講者を教えたい。そして受講者と共に希望を語りたい。希望のある信仰を伝えるために、そのために学びたい。誠実を胸に刻むために、もっと学び続けたい。なぜなら、学んでいないカテキスタと希望を語りたいと思う求道者はいないはずだから。学んでいないカテキスタから学びたいと思う求道者はいないはずだから」ということです。受講者の「眠っている魂」を呼び起こすようなそんな入門講座の話ができるようなカテキスタになれる日を夢見て日々努力していこうと思っています。

アーメン

参考文献・資料
・東京大司教区 生涯養成委員会「教区カテキスタ養成講座」―生涯養成委員会紹介
・東京大司教区 生涯養成委員会「教区カテキスタ養成講座」―講座開催にあたっての理念
・三好千春『時の階段を下りながら―近現代日本カトリック教会史序説』オリエンス宗教研究所、2021年
・ルイ・アラゴン『フランスの起床ラッパ』大島博光訳、三一書房、1955年

現場の声

絶えざる回心と、改善と、希望、喜びを!

カテキスタ 第1期生
チーム松原
世田谷教会 鈴木 敦詞

カテキスタに任命されて早くも5年目。その間、コロナ禍や自身の怪我などさまざまなアクシデントに見舞われました。社会の動きや事件に翻弄されながらも、なんとか奉仕を続けてこられたことに感謝したいです。

その間、講座の方法を常に改善しようと試行錯誤を続けてきました。チーム松原で、入門講座ではなく、フォローアップ講座にすると決めたものの、どのような形にするか悩んでいたとき、通勤電車の中で長い間真剣に祈り、浮かんできた言葉が「分かち合い」でした。そして、仲間と話し合い、方針を決め、いま行っている「イエスの譬え」を基にした分かち合いがスタートしました。

◆シノドスの方法論から  「霊における会話」の方法を取り入れる
その分かち合いを効果的に促進する方法面での最近の大きな変化として、シノドスに呼応するような形で、シノドスの方法論を基に、聖書を中心にして「霊における会話」の方法を取り入れるようになりました。個人的に運がよかったのは、バチカンでシノドス議長代理を務め、アジアステージのシノドスとバチカンでのシノドスを実体験した西村桃子さんにご協力いただけたことです。荻窪教会で西村さんが講話し、「霊における会話」を実践されるということを知り、ファシリテーターとして使っていただけないか、チーム松原のメンバー全員が志願しました。そのために事前に一度ファシリテーターの養成のための講話と実践をしていただき、さらに荻窪教会で実際にファシリテーターとして使っていただく機会に恵まれました。西村さん、荻窪教会の信者さんたちをはじめ、主任司祭の温かい受け入れもあり、小教区を超えた一体感を体験した充実した催しでした。改めて荻窪教会の皆様と西村さんにこの場を借りて感謝申し上げます。

定期的には、派遣先、チーム神田では月1回、チーム松原では月2回、聖書を中心にした「霊における会話」をカテキスタの仲間たちと行っています。そして所属の世田谷教会の信者の仲間たちと、毎週日曜日、ミサが始まる1時間前、聖書を基に「霊における会話」を共に実践しています。本稿ではその驚くべきすばらしい効用について述べた後、浮かび上がってきた気づきについてお伝えいたします。

◆「霊における会話」~基本的な進行
基本的な進行は以下の通りです。聖書の短い箇所を皆で読み、その後に沈黙して、それぞれの生活の中の気づきを思い巡らし、発言の準備を、沈黙、祈りの内に、聖霊の助けによって一人ひとり個人が整えます。その後、それぞれ3分以内で発表します。発言の間は集中して傾聴するために「自分が何を話そうか」を考えないで、できれば人から聴いたことを忘れないようにメモを取ることが勧められます。人の話を遮るのは基本的に禁止です。

一巡したら、今度は「人から今、聞いたことで心に響いたこと」を分かち合っていただきます。これも2分とか3分。随時、沈黙を入れます。話を聞き流さないように、また会話のテンポにいたずらに飲まれないためです。

最後に、これは松原ですることが多いのですが、一人ひとり、短いキーワードで「本日の気づき」を短く発言します。神田教会の場合は聖堂に集まり、もう一度聖書を朗読し、沈黙した後に歌を歌うことが多いようです。 まず、感想として、参加者の皆様の顔ぶれ、開催場所によってどんな分かち合いになるかは本当にさまざまだということです。これはシノドスのように、何かの問題を話し合う場ではなく、聖書を通して聖霊によって一つに導かれ、思いを共有するために行うのですから、参加者の性格に左右されて構わないと思います。時には冗談や、会話が日常的な方向に弾むこともありますが、ネガティブなものでない限り制止しません。話したいという気持ちが皆さんにある時は、その自然な気持ちを優先して自由に話し合うことを大事にしたいと思っていますから、そういう場合は3分など時間をややオーバーしてもいいように、あまり決め過ぎないで余裕を持たせる雰囲気になることもあります。

◆沈黙と傾聴により深い霊的交流の場に
チーム神田では担当のファシリテーターが簡単なガイド、解説をすることが多いようです。松原では、参加者の皆様の協力もあり、沈黙と深い傾聴が支配することが多く、深い霊的交流の場になっている度合いが強いように思います。所属の世田谷教会では、年長者の豊かな人生経験を傾聴できる学びの場になっており、人生と聖書が文字通り重なっていて、参加者の喜びの声を耳にすることが大変多いです。

私はこのように「霊における会話」を、場所やメンバーに応じて少しずつ変化をつけながら、聖書を中心にしてかなり頻繁に続けています。こうすると、聖書からの学びが大変持続的に、生活の中にしっかり入ってきて響き、さらに、それは血の通った人間の心から発せられる思いを通してですから、人の実体験として強烈に入り込んできます。これは本当によい習慣を作ることができたと思っています。何よりも自分のためになるのです。

これには指導者、リーダーもいらないし、朗読箇所を誰かが選ぶだけで、だれでもルールさえ守れば参加でき、いつでもどこでもできる大変素晴らしい方法だと思います。司祭不在でもできるので、これから都市部でも懸念されている司祭不足を補うことができます。グループで自主的に実践できるので、やってみると、その素晴らしさが分かると思います。司祭がいればなおよく、さらに聖書の学びは深まるので、信徒と司祭が協力して霊的に結びつくチャンスにもなります。

自分の読みに不安がある場合は、自分が準備して、神学的知識を調べることもできるので相乗効果も期待できます。とはいえ、ひけらかした知識よりも、人が腹に落とし込んで、生活の中で体験したことの方がはるかに人を動かすのは確かです。

◆イエスの言葉が人を通じて響き合い、 残響効果となって心の中に宿る
学びというものは、実は自分から他の人にアウトプットする方が、ただ一方的にインプットするよりも効果的だということを、教育の現場に携わる人々からよく聞きます。教育現場では、実際は先生が一番学んでいるのです。ですから「聞いたことを基に、自分の中で響いたことをアウトプットする」というのは、双方向のやり取りが含まれ、人から聴いた言葉が自分のものになる瞬間です。その基になっている言葉がイエスの言葉であれば、イエスの言葉が人の中で響き、さらにその人の中で響いたことが自分の中で響き、さらにそれを発言することでもう一度人の中に響く、という深い共鳴現象が起きます。

そうすると、その言葉や人の想いは、生活の折に触れ、思い出すという残響効果となって心の中に宿ります。振り返って最近、よく思うのは、生活の場面で、聖書を前に口にしたこと、耳で聞いたこと、心で思ったことと、ややもすると違う思いに引きずられている、という気づきです。これは、良心の中で反省や、呵責が起きるということです。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(一ヨハネ3・18)、「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(同2・9)などの言葉が、現実的にぐさりと刺さってきます。常に、常に、神の言葉のうちに新しく生まれ、絶えざる回心を本気でしなくてはならないという思いが、生活の一瞬一瞬に浸透していけばいい、と思います。

◆命の言葉を伝え合い、分かち合い、交わりを持つ喜び
それには、やはり不断の回心と決意が必要です。そして分かち合いの方法論も含め、常に改善していく努力をしていきたいです。バチカンのマニュアルにも「『霊における会話』はこれでなくてはならないというものではないし、もっといい方法があるなら工夫して改善していっていい」という意味のことが書いてあります。ともあれ私たちは神の言葉、イエスの行いを前に分かち合うのですから、安心していていいし、常に深まるという希望を持っています。

使徒たちが聞いて、見て、触れた「命の言について……あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(同1・1-3)といった、その言葉を伝え合い、分かち合い、交わりを持つことは、この上もない喜びであるからです。

カテキスタ2年目の振り返り

カテキスタ 第3期生
チーム松原
亀有教会 田中芳保

◆私のキリスト教への入信と 信者としての生い立ち
キリスト教への入信は、シンガポールに赴任し3年が過ぎたころ、同地の聖イグナチオ教会でアイルランド出身のトマス・オネイル神父様より2001年4月15日に洗礼を頂いた時でした。キリスト者となって今年で23年目を迎えます。

オネイル神父様は初め香港に派遣された後、フィリピンのマニラを経て1981年1月に司祭としてシンガポールへ着任されました。司祭の傍ら、なんとミュージシャンやエディターという意外な一面をお持ちのようです。それ故、成人向けキリスト教入門講座は、指導司祭の下で同教会所属の信徒たちが、受講者グループの講師役兼お世話係となって受け持ち、主に「聖書朗読と分かち合い」というやり方で進められました。一方で、公教要理はありませんでした。

講座は古い学校教育のような、先生が生徒に一方的に教える一方通行の問答形式ではありませんでした。この学びに参加した40名ほどは、若者から高齢者、障害者と幅広く、国籍や肌の色もばらばらの入門者たちでした。頭で理解することより「教会に集う信徒自ら、その歴史の中で、絶えず生かされてきた信仰の喜びや気づきなど、共に学び、支え合うことの大切さ」といったものを篤い信仰体験として語るもので、その講師役兼お世話係の姿勢が、今もって思い起こされます。

入門講座では、1年間(毎週水曜日・午後7時~8時半)のスケジュールに加え、主日のミサ後には受講者たちが集まり「今日の福音」について、座談会形式の勉強会が設けられました。それは和やかな雰囲気の中にも時折、理屈っぽさがあり、初めのうち、入門者の私には別世界の出来事のようでもあり、現実との矛盾を感じたものです。 また、講座中には指導司祭と受講者たちとの個人面談が年に数回に行われました。講座の理解というより、仕事や家庭、日々の生活を通して、さまざまな事情を抱える者が神の恵みを知る喜びというお話がとても印象的でした。

◆宣教司牧評議会に参加して
私は2014年から2年間、東京大司教区(東京都と千葉県)にある22の宣教協力体から1名ずつ参加する「第6期宣教司牧評議会(以下、「評議会」と記す)」に評議員として参加しました。この評議会の目的は、「教区の宣教司牧活動全体について、司祭、修道者、信徒のさまざまな立場の意見を反映させること」にありました。

それまでは、自身が所属する教会と東葛飾宣教協力体で知り合う仲間との情報交換という、限られた範疇での宣教活動であったことを思い知らされました。当時の教区を取り巻く環境についての主だった課題は、10年~15年先を見据え振り返ると、①司祭の高齢化による司祭不足でミサの司式をはじめとする秘跡の執行を中心とした活動に力点を置かざるを得ない状況が生まれること、②司祭中心主義と言えるような信仰共同体の在り方の限界と新たな方向性の探求、③幼児および成人洗礼数の減少に対する歯止め、そして何よりも④小教区における教会運営の行き詰まり状態の改善、であったと思います。そしてこれらによって、教会の健全財政はもはや過去のものとなる等々、評議会で示された情報にただただ、驚くばかりでした。

この評議会を通じ、メンバーの共通認識は、今、教会は重大な岐路に差し掛かっており、進むべき方向の選択が求められている、というものでした。このままの活動路線を進みつつ、現状からの脱却を探求し抜本的な対策を図るか、あるいは痛みを伴ってでも、成長路線に目を向け方向転換すべきか…、あるべき姿のビジョンを明確に示し、進むべき方向への舵取りが必要になる、というものであったと思います。

そこで求められているものへのアクションとして、信仰共同体として取り組む姿勢に裏打ちされ、教区全体に向けてさまざまな啓発活動を行う、教区による「生涯養成委員会の立上げ」があるということでした。

私には今もって記憶に新しいお二人の司祭の言葉があります。以下、抜粋してご紹介します。

一人目は当時、東京教区本部事務局長の高木賢一神父様によるもので、『一粒会だより』に掲載された「あたらしい人になる」です。「第2バチカン公会議から50年が経過し、教会の在り方について改めて振り返り、司祭職について考えてみたい。キリスト者一人ひとりが、信仰の担い手として、各自の状況に応じて、その共同体に参加するのが教会本来の在り方です。…司祭召命が減っていることは確かに残念なことかもしれませんが、そういった現象が『時のしるし』。司祭をはじめとする教役者や奉献生活者の召命を求めて祈ると同時に、あるいはその前にさまざまな召命の『苗床』である私たちの足元を見つめ直すことこそが大切」。

二人目は当時、上野教会主任司祭であった西川哲彌神父様で、教区ニュースに掲載の「やってみなはれ」です。「少子高齢化社会の現象が着実に教会にもやって来て、これからどうなるという不安が一生懸命教会に尽くしている信徒の心を暗くさせている。…人口の少ない小教区は、本当に困っており深刻です。あと10年たったら、一人の司祭がいくつもの教会を駆け回ってミサを捧げてゆくという状態になるでしょう。司祭もたいへんです。そのキーワードは『やってみなはれ』です」。

以前から私は、所属教会で開催の黙想会を通して、国内の教会を取り巻く厳しい現状というものを聞いていました。しかし、それ以上の詳しい実情まで知ろうとはせず、教会は司祭依存の特異社会であって、信徒は神父様に尋ね、言われたことを遂行するものの、言われないことまででしゃばるものではない、という認識でした。

ところが、時が経つにつれ、教会活動に参画するようになると、次第に気づかされることがありました。例えば、受洗後に教会共同体の一員となったにもかかわらず、日々の生活と信仰が遊離してしまい、孤立したり、主日のミサからも遠ざかってしまい、なかなか抜け出せずにいる信徒たちがいることです。また、主日のミサは欠かさず、日々の生活の中でも祈りやイベントにもそれなりに参加されていても、自身が本当に神の恵みや救いに与っているかどうか、よく分からないままに生活を過ごされている信者が意外にも多いのではないか、ということです。

◆教区カテキスタに応募して
カテキスタは今年、第1期生誕生からはや5年を迎えます。現在のカテキスタ派遣先教会は7つで、総勢38名のカテキスタが担っています。カテキスタは教区生涯養成委員会が主催の養成講座(全23回、期間1年)を修了した後、教区長の認定・任命を受け、指定された教会へ派遣されます。数名ずつのチームを組んで定期的に開催される①受洗希望者のための教区指定入門講座、②信仰生活を送っている方たちのためのフォローアップ講座の2本立てです。

カテキスタは奉仕ですから、報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うわけで、ボランティアとは違います。また、互いに学び合い、支え合い、分かち合い、祈り合うことが信仰共同体の土台をなすものです。

私は、教区カテキスタの認定を受け、信徒使徒職に関わる仲間たちと共に、2023年4月から3年間の派遣が決まり今日に至っています。ここで留意したい点は、派遣先の小教区において司祭や運営委員、信徒の皆さんと良好な関係を築きながら、当初の目的達成に努力することにあり、さまざまな問題や課題に対しては、カテキスタ運営委員会および定例会とチームの仲間たちとの会合を通じて取り組んでいます。

カテキスタの模擬授業や参加された仲間などを通じて気づいた点がいくつかあります。それは洗礼を受けた信徒たちへの協力要請についてです。それぞれの小教区では「(成人向け)キリスト教入門講座」があると思います。ですが、①教会組織の意思決定機関である司牧評議委員会等の活動や、②信徒使徒職、③教会財政の健全化について、入門講座ではどう扱われているのでしょう。これらは、受洗希望者にとって全く無関係でしょうか。そうかもしれません。洗礼を受けると、必ずどこかの小教区(教会)に信徒籍を置きます。籍を置いた教会に維持費(献金)を納めることになるわけです。教会の活動を支える財源(月定献金、ミサ献金等)は信徒の献金で成り立っています。こうした維持費の納入は信徒の義務ですが、年金生活者にとって経済的な負担でもあります。

こうしたことが受洗後に誰から知らされているでしょうか。上述の①②および③を隅に置いているとしたら、教会活動は成り立ちません。そうであれば指導司祭ではなく、むしろ所属教会の実務担当者からじかに学んだ方が理解されやすいと思いますがいかがでしょう。都内のある教会では、委員でない方でも教会委員会にオブザーバーとして参加できる仕組みに変えたとのことで、共同体の絆を強める意識改革を感じさせます。

◆派遣先の任命を受けて
キリスト者となって20数年が過ぎ、2022年9月に東京教区大司教様より教区カテキスタとして認定を受けました。信徒使徒職に関わる仲間たちと共に、信仰の道を歩もうと教会を訪れる人々のための奉仕者として、2023年4月より3年間の派遣の任命書を受けました。私はチーム松原に属しています。

派遣先の教会では既に第40回キリスト教入門講座が開催され、毎週水曜日と毎週土曜日の2クラス制で、指導は主任司祭と助任司祭が担当されます。私自身は主日のミサや黙想会、バザーに参加させていただきました。歴史ある教会で信徒数も多く、充実した教会組織を垣間見ることができました。これはカテキスタの特権かも知れません。

チーム松原は、フォローアップ講座(イエス・キリストのたとえ話をテーマとした分かち合い)を開講しています。分かち合いと聞くと、参加者は必ず発言しなければならないという間違った理解があるようです。分かち合いは話すよりまず互いに聴き合うことが前提です。発言は参加者全員が順番にしなければならないことではなく、任意であり自発的なものです。今年3月下旬、チーム松原はセルヴィ・エヴァンジェリー宣教者の会の西村桃子さんをお招きして、「霊における会話(祈りに始まり、感謝の祈りのうちに終わるシノドス的手法)」の実践的な訓練を体験できました。少し、説明を加えさせていただきます。

「霊における会話」とは、祈りのうちに互いの発言を聞き、聖霊が導いていることは何であるかを共に祈り、識別するやり方で、三つのステップがあります。多くのグループの発表の場合、一人ひとりの分かち合いの発言をまとめる傾向がありますが、「霊における会話」の最終ステップの合意で興味深いことは、グループとして分かち合ったことで浮かび上がった、聖霊が導いていると感じたことを話し合い、合意し、発表することだと思います。 このやり方においては、すべての人に平等に発言する機会が与えられ、すべての人に話を聞く機会が与えられています。今年4月下旬、荻窪教会にて西村桃子さんを招きシノドス報告会として開催され、「霊における会話」をその場で体験できました。他教会からの方々も含め、多数の方が参加者されました。チーム松原はファシリテーターとして参加し、他教会からの参加者を含め、よい体験ができたとの評価をいただきました。

私はこの2年余りを振り返り、それぞれの教会が築き上げた歴史や慣習、長きにわたって教会を支えてこられた方々、独自のやり方などは尊重すべきことと感じています。他方、いつどこで何が起こっても不思議なことと思えないような現代社会にあって、今まで培ってこられたやり方で、これから先も順風満帆にいくと保証することは難しいとも考えます。そうであるならば、気力と体力と行動力のあるうちに「教区カテキスタ」にチャレンジしてはいかがでしょう。

在籍信徒数や受洗者数などはどれも教会にとって重要な指標の一つですが、別の視点で教会の在り方というものを、カテキスタの一員として、振り返る機会を頂いたことに感謝したいと思います。

スタッフの声

スタッフになりませんか?

スタッフ
上野毛教会 鈴鹿 惠美子

私はスタッフとして、第1期から受講者やスタッフの仲間とご一緒させていただいております。振り返ってみると、私は月2回、土曜日のプレゼントをいただいているのですが、いただいたお返しは、測ることができないほど大きかったように思います。

◆出会い、交わり、協力による 教区の新しいネットワーク・草の根の力
最初の年は、いっぺんに30近い小教区の方々と出会いました。自分の小教区しか知らなかった私にとっては開眼の時。以来、教会名を聞いたら「○○さんのところ」と結んで楽しむようになりました。各自の所属教会で活動・活躍し、カテキスタを目指す受講者の方々、所属教会でカテキスタをし、スタッフになられた方々との出会い、交わり、協力は、東京教区の新しいネットワーク、これからの草の根の力となるだろうと頼もしく思います。現在、カテキスタは38名で24小教区から、スタッフは11名で7小教区からとなっています。

◆講師講話と模擬授業を無料で受講
猪熊太郎神父様や髙木賢一神父様が、長い司牧経験から、これだけは洗礼準備のために欠かせないと思われたエキスを、1年で学べるように削りに削って作成されたスケマ。猪熊神父様のご講話は、私には大変新鮮で、もう一度自分の信仰生活を見直す機会をいただきました。特に「歴史に学ぶ日本の教会の姿」から衝撃を受け、視野を広げられ、先人に学ばねばと気づかされました。

先日の高木健次神父様による入信の秘跡のご講話では、ぶどうの木と枝のつながりのイエス様のお話から、入信の秘跡を説明してくださいました。つながりというのは直訳すると「中にとどまる」とのお話から、入信とは、キリストの呼びかけに応えようとすること。洗礼式の時、諸聖人の連願は教会とのつながり、天上と地上の教会の仲間に入れられるのだと気づかされ、感動しました。

現場で講座を担当している一人のカテキスタの方の講話では、受講者のために、模擬授業の事前準備を箇条書きにして、レジュメに入れ込み、説明されました。先輩としての配慮は、私には兄や父親の愛情のように感じられました。「求道者は真剣に求めて来られるのだから、それに応えられるよう準備が必要」との最後の言葉が忘れられません。スタッフは、この講師による講話も、模擬授業も無料で受講できるのです。

◆模擬授業の講評は求道者の立場で
講師の講話の後、受講生による模擬授業が2コマあります。1コマは50分で、10分休憩が入り、ここまでおよそ3時間です。最後に講評・質疑応答の時間があります。第1・2期生の頃は、スタッフは挙手して発言する形でしたが、いつの頃からかスタッフ全員にもマイクが回るようになりました。私はこれが、いちばん苦手です。模擬授業をした受講生は、何時間、何十時間もかけて準備し、レジュメを作成してきたことを思うと、ただ聞いていただけのスタッフの自分が発言するのは恐れ多いと思いました。求道者の立場で、ポイントだけ言うようにと心掛けています。最後のこの「魔の時間」のおかげで、全員が身を入れて終わりまで、参加できているのかもしれないとも思いますが。

締めくくりは、猪熊神父様で、レジュメの書き方、授業内容はテーマに合致していたか、表現・理解が適切だったか、教会用語を多用してはいなかったか、話し方などについて、バッサリ鮮やかに、辛口の本物の講評をいただきます。私にとって、「そうか、そういうことなのか」と気づかされることも多い学びの時間です。その後、質疑応答の時間で、立場に関係なく発言できます。

そもそも受講生には、カテキスタになりたいという明確な意思と、主任司祭の推薦状が必要で、70歳未満という条件がありますが、スタッフには、第2土曜日の定例会と、2カ月に1回くらいの当番の時に出られれば、年齢制限なし、誰にでもチャンスがあります。

◆共に歩む信仰生活の喜び
アンドレア・レンボ補佐司教様の司教叙階式は、スタッフをして本当に良かったと思った出来事でした。カテドラルの敷地に入った途端、笑顔で手を振って迎えてくれる人がいてびっくり、スタッフやカテキスタや大司教館の方たちだったのです。教区の一員、仲間の一人になれたことは、私にとって大きな喜びでした。読者の皆様、スタッフになりませんか?イエス様と共に、仲間と共に歩む信仰生活の喜びが大きくなると確信しています!

「あなたにお話ししたいんです」~顔を見て、視線を合わせて語りかける大切さ

スタッフ
高円寺教会 平田 為代子

前回、講座のスタッフとして思いを書かせていただいたのは、カテキスタ養成講座の第1期が開講された2018年でした。もう5年半が過ぎたことになります。その間に養成講座は新型コロナウイルス感染症のまん延による中断もありましたが、受講生の気持ちは揺らぐことなく、毎年カテキスタとして出発していることを神様に感謝いたします。

養成講座は1年間のカリキュラムですので、毎年受講生が替わって9月に新たに開講されますが、スタッフは継続して参加しています。最初の頃はスタッフの仕事は講座の事務的なお手伝いが主で、あとは講師と受講生のお話しを聞くだけのインプット・オンリーの気楽な立場でしたけれど、昨年度あたりから講座の最後の「質疑応答・講評」の時間にスタッフも毎回必ず全員が感想を述べることになり、より積極的に講座の内容に関わるようになりました。

私は、毎回、自分が求道者の一人だという気持ちで模擬授業を聞くようにしています。そして、5年経ってもなかなか信仰的に成長していない自分を実感しつつ、受講生の模擬授業に感想を述べさせていただいているわけですが、一番強く感じることは、「イエス様の愛を伝えたい」という思いを求道者に伝える上で一番大切なのは、求道者一人ひとりに「あなたにお話ししたいんです」と、顔を見て、視線を合わせて語りかけることだということです。どうしてもキリスト教の専門用語を使った知識中心の話になりがちですし、ある面ではその方が話し手にとって楽なのですが、それでは相手には伝わらない。受講生は、模擬授業を重ねるうちにそのことを、体験を通して理解されるようで、そこに聖霊の励ましとお導きを感じます。

現在行われている第6期の講座も終盤になりました。あと2カ月ほどで受講生の皆さんはカテキスタとしての認定・任命を受けて、入門講座が開かれている教会に派遣されて行きます。お一人おひとりが派遣先で教会を訪れる人に神様の愛を宣べ伝えることができますように。また、私自身も、いつも私たちと共にいてくださるイエス様に従って、講座スタッフとしてふさわしい奉仕の歩みが続けられますように、聖霊の助けを願って祈ります。

典礼あれこれ 第14回

「ことばの典礼3」聖書朗読配分

日々のミサで聖書が朗読されていますが、皆さんは、A年、B年、C年という言葉を聞いたことがおありでしょうか?今年はB年にあたり、主日のミサでは、マルコによる福音書を中心に朗読されていきます。主日のミサの聖書朗読配分は、3年周期になっており、A年はマタイによる福音書、C年はルカによる福音書を中心にして、聖書朗読が配分されています。ヨハネによる福音書は、典礼季節(待降節、四旬節、復活節)などの折に朗読されています。A年からC年まで3年間、毎週、主日ミサに参列していると、福音書のほとんどの部分を耳にすることができます。これは、救いの歴史の中で現わされた出来事が、ことばの典礼において、一歩一歩想起され、感謝の典礼によって祝われるキリストの過越秘義の現在化のうちに、現実に継続されているものとして、私たちに毎週、現わされているのです。言い換えると、これらの聖書朗読と感謝の典礼を通して、「過去の救いの出来事が今の出来事となって、私たちに毎週示される」と言ってもよいでしょう。

福音書を除く第1朗読、第2朗読の箇所の選び方は、典礼季節や年間主日の違いによって、若干の違いはありますが、第1朗読は、福音書の内容の主題に合わせて、その内容があらかじめ示されていたもの(予型)として旧約聖書から選ばれます。復活節には使徒言行録から聖書の記載順に(準継続朗読)読まれていきます。第2朗読は、典礼季節には、福音を実際に生きた証として(対型)使徒の手紙が読まれたり、あるいは、年間の主日も含めて、聖書の記載順に(準継続朗読)使徒の手紙が朗読されたりします。

少し説明を加えるならば、福音朗読をより広く、より深く理解するためには、第1朗読、第2朗読の聖書朗読が大切になる、ということです。それぞれの朗読が響き合って、その日の朗読の一つの主題を私たちに示してくれている、ともいえるでしょう。従って、これらすべての朗読を主日のミサで耳にする必要性がある、ということです。ミサでの聖書朗読は、とても重要で、「聖書朗読は自分には関係なく、ご聖体だけいただければよい」というものではないのです。

ところで、週日のミサで朗読される聖書配分は、2年周期ですが、典礼季節の聖書朗読や年間の福音朗読は1年周期となっており、聖書の記載順に読まれる準継続朗読で読み進められていきます。筆者の体験では、週日のミサで短い説教をするときに、第1朗読と福音朗読の主題が一致しない場合もあるので、お話を考える時に苦労したことがあります。 ミサの中で朗読されるみことばをしっかり心で受け止めながら、神さまの救いの出来事が現実のものになっていることに心を向けたいと思います。聖書のみことばは、単なる昔話なのではなく、現代においても確かに働く神さまの力強いみことばであることを私たちは信じているのです。