お知らせ

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Tangible第22号

2024年05月31日

 

今日は、生涯養成委員会からお知らせを、再び、お伝えしたいと思います。
生涯養成委員会 担当司祭 猪熊太郎

教区カテキスタ養成講座「第7期応募要項」の配布について

1月中旬に、教区カテキスタ養成講座「第7期応募要項」が、各小教区の主任司祭宛に配布されています。 カテキスタに関心のある方は、是非、各小教区主任司祭宛に送付されている応募要項、または、教区HPにアップされている情報をご確認のうえ、書類を整え、右記のように、期日までにお申し込みください。 締切日が迫っています。皆様の応募をお待ちしています。

◉申込方法◉
「申込書」に必要事項をご記入のうえ、他の必要書類とあわせ、締切日に間に合うように、下記の住所まで、直接、郵送してください。
後日、講座についての通知をさせていただきます。

〈申込先〉
〒112-0014文京区関口3-16-15
東京大司教区 生涯養成委員会
「教区カテキスタ養成講座」係

◉講座申込締切日◉
2024年6月28日(金) 17:00必着

受講生の声

他ではほとんど聴けない内容と 少人数で向かい合える環境

受講生
第6期生
吉祥寺教会 杉本 徳久

◆第6期生の現況
第6期講座日程の半分以上を消化した。現在の受講生は6人。そのうち男性が2人で同じ教会所属。とはいえ、受講会場で互いに初めて面識を持った方だった。年齢もかなり上になる慶應大学教授の方である。

鳴り物入りで導入され、画期的な制度の開始とされて第1期生29人が参加した講座も、2期生以降は大幅に受講生が減っている。今期生も同様で6人で2週間ごとの報告を回しているため、皆が苦労しながら担当をこなす。女性陣の4人は座席を寄せ合って受講しているが、男性は他の同期生とあれこれ談笑したり連絡を取り合ったりすることはほぼない。交流なしで淡々と受講が進む。余計な気を遣わずに済むので逆に助かっている。

◆第1期目の時から関心を持ち、 いよいよ受講してみると
昨年、パンフレット棚で講座の募集案内を手に取った。第1期目の時から関心があったプログラム。日程を見ると隔週土曜の15時開始、18時終了とあった。ちょうど私は合唱の練習を15時まで受講会場(ニコラ・バレ)から歩いて1分の岐部ホールでこなしているため、5分早く切り上げれば上手く合流できると思い、何とか受講可能だと見極めて、申し込みをした次第だった。

ところが、開講初日にいきなり「『15時開始』という案内の記載は印刷の間違いで全日程『14時開始』」だと言い渡される。凍りついてしまった。主任司祭に事前に相談して推薦の署名をもらって受講を開始しており、いきなりすぐに辞める選択はありえず、お願いしてクワイア練習は特別に早めに切り上げさせてもらい、何とか参加を続けることに。

他の講座では、今ここで受講できているような内容の講義をこうして聴くことは、ほとんどない。初めて耳にした解説、論旨、知識も少なからずあり、その意味ではありがたい機会であり、貴重な時間を過ごさせてもらっていると感じている。日頃、多忙な方々からの教えを受け、少人数で向かい合える環境はなかなか他にない。

◆質問をもっと出して、より質の高い、 一段上の収穫につなげたい
受講日にはすでに活躍している1期生から5期生の模擬講義を聴いた後、それと同じテーマで受講生が2人連続で同じように模擬授業を行い、それについて講評をもらうというパターンのカリキュラムが多い。その日の専門トピックとして用意された特別講義を聴講するだけの日もある。

積極的に質問するようにしているが、質疑応答の時間が少ない。この人数と開講時間ならば大学のゼミナールのように意見交換ができると思うが、講座の最後を講評からの流れで質問なしでそのまま終える日もある。途中で受講をやめた参加者もおり、現在は人と時間に余裕がある。今後は質問を多く出して、毎回より質の高い、一段上の収穫がある研鑽を積みたいと思っている。

現場の声

入門講座、共に変えられて ゆくという旅の体験

カテキスタ 第1期生
チーム葛西
麹町教会 内田 正

土曜の午後の明るい日差しの中を、地下鉄東西線は荒川の鉄橋を渡り、葛西教会のある街に入ってゆきます。このようにして、チーム葛西のメンバーは、入門講座の準備に集まって来ます。

◆温かい受け入れと受講者の方々に  働かれる神様の恵みに感謝
葛西教会の柴田神父様から、「カテキスタとは福音を響かせる人という意味なのですよ」と教えていただいたことがあります。私は、第1期生として葛西教会に派遣されて5年目になりますが、これまでの歩みを振り返ってみたいと思います。

まず、5年前に、私たちが「何者であるのか」も定かでなかったときに、温かく受け入れていただいた柴田神父様、ならびに葛西教会の皆様に厚くお礼を申し上げます。講座の立ち上げ段階での話し合い、また新型コロナウィイルス感染症の大流行による度重なる講座の中断、さらには私たちの至らなさに起因する種々の問題に対して、愛情をもってご理解とご指導をいただきましたことを、心から感謝申し上げます。

葛西教会での入門講座では、これまでの3年度分で、14名の方々が受講し、その内4名の方が受洗されました。受洗後に所属教会で活躍されている、かつての受講者とお会いすることは、大きな喜びです。拙い私たちの講座ですが、受講者の方々の上に働かれる神様の恵みに感謝するばかりです。

◆自分が本当に信じていることしか伝わらない
さて、私についてですが、これまで担当した講座で、「今日の話は、受講者にうまく伝わったな」という感触を得たことは、実はまだ一度もありません。どのようにすればいいのか、すぐに分かるものでもなく、むしろ時間が経つほどに分からなくなっているというのが正直なところです。知識だけではなく、味わい深い話をして信仰を伝えようとするのですが、なかなかうまくはゆきません。確かパスカルだったと思いますが「人間が天使を気取ろうとすると、獣以下になってしまう」という言葉が浮かんで来ます。

やはり、自分で意図するかにかかわらず、講座で話すときには、その人の全人格が現れ出てしまうのだと思います。つまり、自分が本当に信じていることしか相手には伝わらないのだと思います。さらには、自分の現実の全体が、受講者には伝わっているのだと思います。講座を始めた当初は、「何を話すのか」ということで頭がいっぱいで、手当たり次第に材料を集めていたと思います。しかし、次第に「どのような私が話そうとしているのか」ということの方が大切ではないか、と考えるようになったと思います。教皇フランシスコも「まずは、自分の存在からにじみ出る、あかしを見せるのが決め手で、その後で、おしゃべりをするとよいですよ」と言っています。

◆福音を響かせるのはチーム全体のありよう
さらには、福音を響かせるのは個々のカテキスタの力量というよりも、チーム全体のありようではないかと思っています。つまり私たちの話の内容よりも、「この人たちには、神様とどこかで繋がっているところがあるのではないか」と感じさせる何かがチーム内にあることの方が、受講者の心には印象深く残るのではないかと感じています。

今後とも、私の傾きや生ぬるさはなくならないと思います。しかし、いつの日か、私たちの信仰の核心である、「キリストは今も生きておられる」ということの周辺部(状況説明)ではなく、そのこと自体を静かに話すことができるような存在になりたいと希望しています。

信仰の旅を共に歩む、 野戦病院の看護師として

カテキスタ 第1期生
チーム葛西
市川教会 田中 良知

◆自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」とカテキスタという奉仕職
私は、2019年9月にカテキスタに任命され、同時に、葛西教会へ派遣されました。

2021年5月10日に発表された自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」には、カテキスタは、「『深い信仰を持ち、人間的に成熟し』、キリスト教共同体の生活に積極的に参加している男女でなくてはならない、と同時に、『人を受け入れ、寛大で、兄弟的な交わりを生きる』ことができる人、聖書的・神学的・司牧的・教育的な視点から形作られた人、あらかじめ要理教育の経験を積んだ人、司祭・助祭と誠実に協力できる人、そして、真の使徒的熱意に生かされた人であるべき」と、記されています。

自分自身にその資格があるとは、到底思えず、この4年半の間、せめて少しでもそれが行えるように、より多くの知識と経験を得て、祈らなければならないと思う日々でした。いまだに、ふさわしい自分になれているとは、思えていません。ですから、カテドラルの小聖堂で行われた任命式には、私のような者のために所属教会から多くの方が来てくださり、多くの方々の祈りと支えによって、この任命式までたどり着けたことを痛感しました。

そして、この4年間、共に歩んできたチーム葛西のメンバーをはじめとするカテキスタの方々、猪熊神父様、迎え入れてくださった葛西教会の方々、そうした多くの方々たちがいなければ、私は今ここに立つことすらできなかったと思います。そうした多くの方々への「負債」をただただ返したい、返さなければならない、という思いによって、カテキスタという奉仕職を務める自分を、なんとか支えることができています。

◆野戦病院の医師イエスが信頼できる名医であることを伝える 
(20年度はコロナ禍のため行えませんでしたが)これまで、2021年度・22年度・23年度と行われた私たちの講座には、合わせてカトリックの洗礼を望む12人の方々と、学び直しを望む、すでに受洗されている2人の方々が来てくださいました。そのなかで洗礼を受けられたのは、4人だけでした。入門講座を担うことの厳しさを感じさせる数字です。もちろん、その人たちにまだ時が来ていなかったことが理由なのかもしれませんし、私の至らなさによってなのかもしれません。

どちらにしろ、私は、野戦病院で働く看護師であり、この病院の医師はイエスです。私の役割は、この病院の医師は、信頼できる名医であるということを伝えることしかできないのです。ですから、必然的に、実際のところ私がどれだけイエスを信頼しているかということが、試されていたのだと思います。ある方々にとっては、私の信頼感が薄弱だから、イエスを信頼しようという気になれなかったのかもしれません。

◆入門講座は「キリストと共に歩むエルサレムへと向かう旅」
実に、これまでの講座を経験したことで、入門講座は、「キリストと共に歩むエルサレムへと向かう旅」だということを実感しています。目的地は同じでも、歩むメンバーによって、途中通る道は変わり、見える風景も変わります。ですから、私たちも受講者の方々と同じように、毎年毎年初めての旅になり、初めての経験になります。

旅には、いつもさまざまな困難があり、喜びがあります。キリストの言葉を受け入れられず離れて行く人もいれば、キリストとの出会いによって新しく生まれ変わろうとする人もいます。そして、毎年のように、目の前で起こる神秘を受け入れられない自分たちに出会うのだと思います。

大事なのは、知識ではなく、そこで起こる出来事を共に経験することでした。ですから、知識以上に共に過ごす時間が大事なのでした。

その旅において、私たちは、看護師として、旅を共にしてきた受講者の皆さんの声に耳を傾け、励まし、ある時は医師であるイエスに従って適切なケアをし、神様と受講者の方々の橋渡しをする重要な役割を担わなければならなかったのでした。今更ながら、養成講座で学んだことの意味を痛感し、本当に至らない自分に気づきます。

◆今年度の「旅」のための祈り、そして感謝
4月13日から始まった今年度の「旅」において、少しでも、私の返さなければならない負債を返すことができますように。受講者の皆さんとともに、共に歩んでくださるイエスを見つめて、無条件に信頼できる自分でありますように…祈りながら、歩んでいきたいと思います。

最後になりますが、今も私のために祈り、支えてくださる皆さんにこの場を借りて、改めて感謝申し上げます。直接お伝えできずにいることをおゆるしください。 また、私たちカテキスタ活動を理解し支えてくださっている柴田弘之神父様をはじめ、葛西教会の皆様に心より感謝申し上げます。

スタッフの声

スタッフを退くにあたり

スタッフ
麹町教会 小林 ひとみ

たった2年でスタッフとしての奉仕から退くことになり、申し訳ないやら、悔しいやら、情けないやら。そうした気持ちを整理するためにも、このタイトルで最後の投稿をさせていただきます。

◆言い訳
難病の進行が思いのほか速く、不具合が増えてきたため、引き時と判断しました。 第1期生募集のポスターを見たときは、かすかにですが、カテキスタとしてご奉仕することを夢想しました。しかし、行動範囲が限られる身では、その講座で学ぶ資格もないと、すぐ諦めました。ですから、講座のスタッフにと声をかけていただいた時は、うれしかったです。不安はありましたが、自分の可能性が開かれた気がしました。

ただ、招かれた期間は短かったです。

「限られた期間に、委ねられた範囲で受け取るもの。そして、与えられた役割は、個人の世界を超えて、受け継いでいかなくてはならないものです」

猪熊神父様の言葉が染みました。励まされました。

フランシスコ教皇様の「限界を知ることはよいことです。むしろ、知らねばなりません。しかしそれは、絶望するためではありません。神にお捧げするためです」という言葉もしるべとなり、退く決心を言葉にできました。

丁寧に根気強く教えてくださった諸先輩たちへ、心から感謝です。この講座を通して皆様と共に学び、過ごせた日々は、素晴らしい恵みでした。

また、信仰の友を、新たなスタッフとして紹介できたことに安堵しています。こうしてつなぐために私はあったと、洗者ヨハネの働きの末端に重ね、慰められました。

◆奉仕とは
カテキスタ養成講座のスタッフになるまで、ご奉仕は、神様にお返しすることと思っていました。いただいた賜物やできることを、共同体のためにも捧げてお返しすることだと。ところが、物を持てない。その場での書記もできない。最後の講評で話すことにも四苦八苦です。

お返しするどころか非力で、ただただ人の手を頼り、お荷物の自分に焦りました。心もとなくなっていたところに先輩が「存在することも大事なお役目」と声をかけてくださり、以来、自分の在り方を問う時間となりました。入門する人として聞く、受講生による模擬授業も、助けになりました。

振り返れば、これまでご縁をいただいたご奉仕を通して、私は、できると思うことをやってはそのぶざまを恥じ、先輩たちのありさまに学んできました。また、PC操作など、できないと思っていたことをする羽目になり、泣きながら取り組んだおかげで今、なんとか世の中について行けています。

さまざまな心の動きを味わい、ときには目を背けていた物事に直面し、その都度、人や言葉に導かれてきました。私にとってご奉仕は、信仰のうちに自分を知り、整え、育てていただく修練そのものでした。

36年間の精神科臨床を退いて分かったのは、「治療されたのは患者さんたちより、私であった」ということでしたが、それと同じく、「お役に立てたらと思って来たら、お世話になったのは私の方」でした。お返しするなど、なんとおこがましいことをと、一人赤面しています。 今回ここに招かれたことで、まだやれるはずという自分の傲慢に向き合い、今の姿を受け入れる時間を作っていただきました。そのために、謙遜に生きる方たちに出会わせていただいたのだとも思います。

正直を言えば、まだ皆さんと一緒にいたいです。退くとお伝えしてから、よりその思いが強くなり困っています。しかし、まだ余力のあるうちにけじめをつけるのは、私の「SURSUM CORDA」(スルスム・コルダ「心を上に(挙げよ)」)です。

◆これから
先に、こちら以外のご奉仕二つを退き、平日の朝ミサへ通うのも諦めました。なかなかの欠損感です。

そのような中で元旦の能登半島での震災以来、七尾市内の本行寺のご住職さんとのやり取りが続いています。福者高山右近が26年間お世話になった、法華宗のお寺です。駆け付けることはできませんが、身近な人たちにも加わっていただき、日々のあれこれをメールで分かち合う「言葉」の伝書鳩をしています。在宅でできますし、3本ずつ残った指の機能も幸いしました。

こちらも、何か力になればと思って始めたはずが、ご住職や皆さんの言葉に、私の方が励まされています。

宗派を超えて聖霊が、ダイナミックに働いているのを感じます。仲間と共にこの働きを続けて行けたらと思います。そして、人の世話になるというお役目を担う、心の準備をしていこうと思います。

皆が、目指したその志を大切にし、まなざしを上げ、そこに集う人たちと共に神を賛美するひとときを重ねてゆけるよう、心からお祈りしてまいります。 感謝のうちに!

スタッフをしながら思うこと

スタッフ
小平教会 柴山 恵美子

◆スタッフの役目
教区カテキスタ養成講座に関わるようになり幾年月。

カテキスタを希望して受講する方の講座当日の準備、また模擬授業では入門講座参加者の身になって、気づいたことを話したり意見を述べるように求められたり、はたまた1年後に行われる認定任命・派遣ミサ等の打ち合わせを丁寧に遺漏のないように確認し合ったりと、スタッフの役目は多岐にわたります。

◆言葉にしていく作業が大事
人と話すのは苦手、人前で話すのも苦手などと言っていられない環境の中で、近頃思うのは「聞くこと・考えること・言葉にしてみること・語ること」についてです。

ミサの説教やカテキスタ養成講座、またはほかの講座に出席する時でも、聞いたことを自分の中で考えを巡らせて、言葉にしていく作業が大事だと感じています。なぜなら多くの場合、自然に出る言葉や、まとめたことは自分が理解していることだと思うからです。

また、それをあえて声に出して言ってみたり、友人と語り合うなど、語ることを通して新たな気づきや間違いに気がつくことがあり、語ることの大切さも実感するところです。

◆日々を新たな一日として
さて、この原稿の締め切りは5月5日(日)になっているのですが、くしくも、この日は、復活節第6主日でした。 この6週間、イエス様は言葉と行いで切々とご自分の思いを語ってくださいました。その思いを忘れることなく、日々を新たな一日として迎えていくことができればと思っています。

典礼あれこれ 第13回

「ことばの典礼2」朗読者の奉仕

皆さんはミサの中で、聖書朗読奉仕を頼まれると、どのようにお感じになられるでしょうか?「できれば人の前に立つことは避けたい」「はずかしい」いう思いを抱かれる方もおられることと思います。そのような心の思いは、自然と自らの姿勢や態度などにもあらわれてしまいます。ある聖書朗読の手引書によれば、朗読者の奉仕は、朗読台に向かう足取りや態度から始まっている、と書かれています。これから行う聖書の朗読奉仕や、神さまのみことばの重要性をどのように理解しているかがこのような姿勢に反映されてしまうのです。

聖書朗読奉仕とは、単に書かれている活字を音声に置き換えるものではありません。加えて申し上げると、テキストに対して自分を中立的な立場において朗読するものでもありません。したがって、聖書のテキストを目の前にして、ニュースを読むアナウンサーの立場で読むことはできない、ということです。この奉仕を果たすためには、霊的な準備および技術的な準備が必要だと『朗読聖書の緒言』には書かれています。ですから、聖書朗読奉仕には適切な準備が必要になります。ミサの直前になって、その場にいる人に聖書朗読を突然お願いすることは避けた方がよい、と言えます。

さて、霊的な準備とは、聖書に関する養成と典礼に関する養成があります。 まず、朗読者が朗読箇所を本来の文脈で把握することが必要になります。神さまが示される救いの啓示を信仰によって理解することが大切です。加えて、神さまのみことばには、必ず実現する力がある、という信仰も不可欠でしょう。みことばを信じ、みことばを実践していきたい、という思いが大切です。

典礼に関する養成とは、ことばの典礼の意味と構造を理解し、ことばの典礼と感謝の典礼との関係を把握することが大切です。なぜミサで聖書が朗読されるのか、それをどのように自分たちは受け入れ、信仰を宣言していくのか、ということを理解することが必要です。そして、ご聖体拝領を通して、神のみことばを自分のものとし、今日からみことばを生きる力をいただく、という理解が大切になってきます。 技術的な準備とは、一言で申し上げると、「聞き取れる声で、はっきりと、(聴く人たちが)味わえるように」肉声や拡声装置の補助手段を使って読む力を身につける、ということです。ミサの事前にマイクの前に立って実際に声を出して読んでみることや、マイクに頼りすぎず、自分の声を聖堂の最後列に座っている人たちに届けるという意識が大切になります。これは、大声を張り上げる、ということではなく、そのような意識を忘れずに持つということです。

神さまの力あるみことばを、共同体を代表して宣言する奉仕を喜んで果たしていきたいと思います。