お知らせ

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Tangible第21号

2024年05月07日

派遣前講習と黙想会終了報告

2023年の9月に教区カテキスタとして認定・任命を受けた第5期生たちは、この間、実際に派遣されたチームの現場に行き、また、そこで、講座を受けもっている諸先輩たちの様子を見ながら、半年間の準備をしてきました。2024年の春からカテキスタとして奉仕を始めるためです。

この期間を「派遣前講習」と言いますが、その締めくくりが、毎年行われる軽井沢での黙想会。

今年も総勢22人の参加者によって、黙想会が行われました。 普段、期別・チーム別で奉仕することの多いカテキスタたちですが、黙想会では、そのような垣根を越えて、共に集い、祈り、お互いを知るための時間を過ごすことになります。

以下、黙想会のご報告となります。 まずは、ご一読ください。

軽井沢黙想会のご報告

エマオへの道

カテキスタ チーム関口/第5期生
麹町教会
高橋 宏樹

4回目の東京教区カテキスタの黙想会が、3月16日、17日に長野県軽井沢町の「御聖体の宣教クララ会軽井沢黙想の家」で開催された。17人のカテキスタと2人のスタッフに、バスの運転も担当された猪熊太郎神父様、講話を担当された仙台教区に派遣されている森田直樹神父様(京都教区司祭)、そして東京教区事務局次長小田武直神父様の3人の神父様方が同道してくださった。

講話の中で森田神父様も触れられた、「日頃の忙しい状況から離れ、軽井沢の修道院で過ごすという時間の取り方を、エマオへの道をイエスと共に歩み、その後、復活した主と出会ったその知らせを、他の人に伝えるために帰っていった旅人になぞらえてみてはどうか」という呼びかけは、なるほどと思わせるものがあった。カテキスタそれぞれが、この4回目の黙想会で、自分なりの仕方でイエスと会おうとし、これまでのカテキスタとしての努力と実践とを見つめることができたのではないかと思う。私にとっては初回であり、カテキスタの実践経験もないため、これまでの時間についての見直しである。

当日は朝9時に四谷を出発し、途中から周りは雪が残る景色となったが、幸い遅れもなく、正午過ぎには現地に到着。食事をとった後、午後2時からオリエンテーション(「教会の祈り」の説明を含む)、そして4時から1回目の講話となった。 この間、あまり行事を詰め込まず、どちらかといえばゆったりとした時間が流れる環境だった。17人のカテキスタと2人のスタッフは、3人の神父様がいてくださったこともあり、「ゆるしの秘跡」ではそれぞれが充実した時間を味わったようだ。また個人黙想や、カテキスタ同士の分かち合い、先輩からのサジェスチョンなど、有意義な時間があった。 「教会の祈り」の説明は、スタッフの岡野さんを中心とした黙想会参加メンバー作成の小冊子が配布され、壁はすべて木という、修道院の感じの良い落ち着く聖堂で行われた。 そして、4時から講話が始まった。

森田神父様の講話サマリー1

◆テーマ「確かに働く神の恵み」
黙想会でここに来ると鳥のさえずりに耳を澄ますことが楽しみ。私は、仙台教区の塩釜にいる。午後6時になると船の汽笛が鳴る。あとはスズメやカラスの声。煙草を吸って鳥の声に耳を澄ますのが楽しみ。特に朝がいい。祈りの助けになる。

ここは、黙想会であって、研修会ではない。私の話が祈りのきっかけ、導きになればよいと願っている。自分が引っかかっていること、悩んでいること、苦しんでいることが喜びに変わる祈りができるきっかけになるとよい。 私はもともと京都教区出身。2011年3月11日の東日本大震災の半年後、仙台教区に派遣された。大船渡で1年半奉仕した。津波でやられた場所。全部津波でやられた。赴任後、まだがれきの山であった。被災した家が穴の開いたまま放置されていた。

現地で夜を体験してほしい。夜は真っ暗。街頭も、信号もない。滞日外国人サポートセンターで食事をし、教会までは歩いて5分。非常に怖かった。クリスマスになって自販機が輝き出した。何かホッとした。暗闇を、そして昇る朝日をぜひ、見てほしい。

いくつかの聖書の言葉を出しながら、話す。

(1)ローマの信徒への手紙11章29節
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」

司祭叙階前に少しピンチがあった。神学校での生活の成績表が「××」だった。成績はそんなに悪くなかったが、神学院長といろいろなことがあった。

朝起きることができない。寝る子は育つ。しかし育ち過ぎた。これは司祭にはふさわしくない。そこで、叙階前に1カ月間黙想を命じられた。司教様からは週に1回、指導神父様からは週2回の指導があった。その年の通常の叙階は3月20日だったが、私は4月25日であった。

朝から風呂に入り、霊的散歩と称して散歩した。散歩によって、季節の変わり目、木々の芽吹き、鳥の鳴き声を感じ、死んだような自然の中に命が宿っていた、と気づいた。こんな死んだようなありさまの私の中にも、確かに神の子の命が保たれ続けている、と背中を押されたような気がした。それがなければ司祭になっても自信がなく、辞めてしまったかもしれない。この出来事が私にとって助けになった。

皆さん方お一人お一人が神様から呼ばれて、カテキスタの奉仕をしてくださっている。皆さんの中にも、確かに神の子の命が宿っている、と強調したい。時にはうまくいき、時にはうまくいかない。それでも、皆さんの中に神の子の命が確かに宿っている。神の恵みは皆さんを取り囲んでいる。皆さんから離れることはない。私も司祭生活31年になった。いろいろなことがあったが、やってこられた。

だから、皆さんも、確信を持っていただきたい。パウロの言葉は、私たちの罪、弱さ、足りなさにもかかわらず、神の賜物と招きとは取り消されない、と述べている。この手紙では、イスラエルの人々に訴えている。しかしこのことは私たちにも応用できる。われわれへの神の賜物、招き、これも決して取り消されない。全ての人へ向けられたもの、と思う。 入門者へも「招きと賜物」はある。取り消されることはない。

司祭職の中でショックなことがあった。教会の書店で店員が応対していた。十字架を買った女性に「神父様から祝福をしていただいたら、いかがですか」と店員は勧めていた。 私は受洗前、ロザリオを司教様に祝別してもらえと言われ、お願いしたことがある。祝別していただき、戻ってきたロザリオを大事なものと考え、いつもティッシュペーパーでくるみ、大切にしていた。しかし、祝別とは使うことで、使う人が祝福される、ということが本来の意味。ロザリオそのものが素晴らしいものと誤解した。

十字架を買われた1人の女性は、十字架を私の方に持ってこられた。私は、「祝別しても困難や苦しみを免れるわけではない。誤解してほしくないな」とも思い、疲れていたこともあって、「祝福してもいいですが、何も変わりませんよ」と言ってしまった。するとその女性の顔色がさっと変わり「分かりました」と言って出て行ってしまった。

この人にも招きと賜物がある、と思い、自分を慰めている。 皆さんが会う方にも、招きと賜物がある。私のような失敗をせず、丁寧に接してほしい。

(2)イザヤ書45章23節~24節
「わたしは自分にかけて誓う。
わたしの口から恵みの言葉が出されたならば
その言葉は決して取り消されない。
わたしの前に、すべての膝はかがみ
すべての舌は誓いを立て
恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う」

皆さんはカテキスタとして、神様のみことばを告げ知らせている。その神様のみことばは、単なる活字ではなく、実現する言葉。だから、出来事という意味も含まれている。神様は、言葉によってお造りになられた。「光あれ」と言ってそのようになった。神様の言葉には力がある。みことばは実現する。カテキスタにとっても、神様のみことばの力を信じ、信頼し、その力に自らを委ねていくことが大切。単なる言葉でしょ、単なる活字でしょ、ではない。神様の言葉は力があり、現実を変えていく力を持つと信じていく。そうなることを、自分自身の中で許していくという思いがなければ、聖書の朗読奉仕者は単なるナレーターになってしまう。

朗読奉仕者の研修会で、アナウンサーを呼んで研修会をすることもある。アナウンサーはニュートラル、中立的な立場。自分のコメントを挟むこともあるが、基本的にニュース原稿を読むときは事実を言うだけである。しかし、朗読奉仕者がみことばを告げる時、その言葉を信じているものとして、会衆の前で、それを宣言する。アナウンサーからアクセントなども習うけれど。

私たちが学ぶみことばも、そうであると私自身が確信していなければ、伝わっていかない。ところが、私の典礼の先生である土屋吉正神父様はこう言った。

「みことばは、みことば自体で伝わっていくんだよ。伝わっていく力を持っているんだよ」

みことばは、音として響くだけではなく、聞いている人の思い、行動、運命を変える。

私たちは今、四旬節を過ごしている。四旬節で大切なのは、神様の言葉を素直な心で聞き、心に留め、思い巡らしながら、神様の言葉の力を悟り、身を委ね、自分が変わっていくことを許していくこと。自分が変えられていくことを受け入れることが大切。

ご聖体を頂いても私は何も変わらない、と言っている人には聖体拝領は意味がない、とアウグスチヌスが言っている。信仰とは、変わらないのは神様だけ。われわれが神様によって自由に変えられていく。それが信仰。四旬節の実践によって、少しずつ変えられていく。キリストの満ち満ちた背丈に成長していくことである。

(3)イザヤ書49章15節~16節
私が高校生の時、校長先生(神父様)が送ってくれた言葉。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」

入門講座の内容の一つとして、「私は忘れない」という言葉を伝え続けることが大切。 神様は一人ひとりを忘れることはない。徹底的に生きることを肯定する。生きることの肯定、神は忘れない、それほどの大切な存在だよ。今、この時代に向かって声高く宣言することが大切。一人ひとりが生きていくことが大切。自殺願望者にも、私はあなたが生きていることがうれしいと伝える。ぜひ響いていくカテキズムの学びになるとよい。

ただ単なる生命活動ではなく、一人ひとりが賜物を生かして、誰かのために生きる存在となることに招かれている。そこに神の恵みが働いている。皆さんの会う求道者にもあるし、皆さんの奉仕の中にもこの力が働いている。

安心してください。決して、神様は忘れないし、恵みは働く。それで私は31年間神父をやってきた。心強く、神様を信頼している。

森田神父様は、丁寧に、しかしはっきりと、神の賜物と招きは取り消されず、神のみことばは実現し、神は私たちを忘れない、ということを説得的にお話ししてくださった。そのことを、確信を持って私たちも求道者に語らねばならない、ということを伝えてくださった。

そして、そのみことばをくださる方は、私たちのことを決して忘れない方であるという。ここで、「その方」は「みことば」を伝えてくださるだけでなく、「みことば」が「その方」自身であり、だからこそ、実現し、私たちのことを忘れない、ということではないかと思った。

部屋に帰り、床暖房をつけ、ベッドの上で横になって、そんなことに思いを巡らした。

森田神父様の講話サマリー2

翌日の2回目の講話は以下の通り。

◆テーマ「信仰を伝えることと信仰の証し」
一昨日、カテキスタのフォローアップ講座に出た。題材はルカのエマオへの道。その後、分かち合いを行った。ある国では、復活祭後の休暇について「エマオへ行く」という。今日、カテキスタが集うこの修道院が、エマオになればいい。信仰を伝える、というとなぜか知識を伝えることが多くなり、心までストンと落とすことが難しい。

忙しい日常を離れ、エマオに行き、そこで復活したイエス様と出会っていくことは大切。この黙想会がエマオへ行く道筋であることを願う。

(1)ローマの信徒への手紙12章1~2節
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」

パウロの勧めは自分の体を聖なるいけにえとしてささげること。われわれの生活そのものが、礼拝になっていく。自分自身を捧げながら、礼拝していく。信仰生活とは、何かにかたくなにしがみつくことではなく、神様によって自分が大胆に変えられること。そしてそのことを許すことである。

ある教会で中高生会をやった。「聖書深読」である。読んで書き写し、マークを付け分かち合う。1人の女子高校生がいた。障がいを持つお姉さんがいた。この女子高生はいつも暗い顔をしていた。この方が聖書のある部分、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マタイ22章32節B)という文章を読んだ。この箇所が彼女の心の琴線に触れた。表情がガラッと変わった。みことばに触れて、彼女は変わった。

みことばに触れ、変えられることを拒むことなく、恐れることなく、自分自身を生きているいけにえとして、おささげしていくことが信仰生活である。 逆に、例えば、聖体拝領においてあくまで口での拝領を望むことは、信仰生活ではない。

(2)ローマの信徒への手紙12章9~21節
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」

これは、聖パウロの模範的生活の勧めである。

他人へ伝えたことは、必ず自分に振りかかってくる。カテキスタとして伝えたことは、自分自身の生き方の振り返りにつながる。霊に燃えて主に仕えよ。霊に燃えるのは難しい。でも、あきらめない。あきらめたら終わる。もし、霊に燃えていないと感ずるならば、「神様、私に熱心さを与えてください」と祈る。素直に、祈る。

たゆまず祈れ、苦難を耐えろ。せめて、あなた方は、他の人々と平和に暮らせ。イエス自身がおっしゃっていること。そのことをパウロはローマへ伝えながら、自身の指針とした。

他者に福音を告げることで、私たちの生活が変わり、神の子として歩むにふさわしい者に変えられていく。そのような恵みの中に私たちは生きるようにと招かれている。

皆さんが語ることについて、「自信が持てない、自分はできない」と思わず、神の言葉を力強く告げ知らせて伝える。たゆまず祈り、希望して喜び、苦難を耐え忍び、日々の生活を神にささげてほしい。

(3)司祭はどういう意向を持ってミサに臨むか
司祭はどう意向をささげるか。自分は意向のメモを付けている。皆さんも、日々の生活の蓄積、神におささげになること、神におささげしたことをためておいて、あらためて日曜のミサでささげてほしい。別な言い方をすれば、単にミサに出席しているだけでなく、司祭と共にミサをささげてほしい。ミサの意向を持ってほしい。

ミサ奉献文は「私たち」を主語にしており、それは教会全体が主語。時々、他の人々と一緒にミサ奉献文を読むことをしている。シスター方と声に出して、奉献文を読むと、「なんだか神父さんになった気分になる」という意見が出る。皆さんも心の中で唱えるくらいの気持ちで、一緒にミサをささげてほしい。いろいろなものがささげられ、それが聖なるものとされ、それをいただくことで、私たちも聖なるものになっていくというサイクルが生まれる。

パンと葡萄酒をささげる。それは神によって受け入れられ、聖霊によって聖なるものとされる。それをいただくことで、われわれが聖なるものとなっていく。そうして一人ひとりが第2のキリストとして、力強く奉仕していくために神様からの恵みがありますように、というのが今日のミサの意向です。

2回の講話を聴いて、日ごろの生活の慌ただしさの中で、自分の信仰が少し緩んでいるのかな、と自戒した。今回の森田神父様の2回の講話は、優しい口調ではあるが、ご自分の体験を語り、それが聖書のみことばと連携していく。そうしながら、神様の、さらにイエス様の思いに触れていける、そういう講話だった。

そのどれもが、カテキスタとして常に頭に置いておかねばならない言葉、教えであるような気がする。神の賜物と招きは取り消されることなく、神の恵みの言葉も取り消されることなく、神は私たちの名を手に刻むので忘れることがない。それだからこそ、自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげ、熱心に、倦むことなく霊に燃え、常に祈る。

難しい理屈や知識ではなく、ひたすら神を賛美し、敬い、仕えること。そのことを聖書から取り上げ、語ること。聖書の釈義ではない。自分の経験から、自分なりの神との出合いを語り、告げること。 こう書くと簡単ではあるが、実はこれが難しいということは1年間の訓練でよく分かっている。先輩たちのいろいろな格闘を肥やしにし、少しでもその一歩を超え、進んでいかなければならない。

「信仰は何かにしがみつくことではない。神によって自分が変えられることを許し、一歩一歩キリストに近づいていくこと」という言葉は、新鮮だった。啓示宗教であるキリスト教を信ずる信仰では、神が語るキリスト教の神髄を、われわれが受け止め、それによって自分を変えていくことが必要になろう。それは「信仰によって自分が変えられる」と表現できる。なるほどと納得した。

これから、私たちは新たな求道者を迎え、それぞれがカテキスタとして活動していく。うまくいくことも、うまくいかないこともあるだろう。だが、「熱心で、倦むことなく、霊に燃え、主に仕える」カテキスタとして奉仕していきたい。

最後に、この黙想会を企画し、実施してくださった、教区生涯養成委員会運営委員会の猪熊神父様と運営委員の皆さま、塩釜からおいでいただいた森田神父様、また東京教区事務局次長の小田神父様、そして御聖体の宣教クララ会の皆さまに心から感謝いたします。