お知らせ
Tangible第15号
2023年10月05日
認定・任命ミサについての御報告
担当司祭 / 猪熊太郎神父
皆様のお祈りと励まし、そして、様々な形の支えによって、まことに喜ばしいことに、去る9月9日(土)、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、第5期生3名の「教区カテキスタ」が誕生しました。また、同時に、3年目を迎える第2期生たち8名の再任命も行われました。大司教様による認定・任命式が、滞りなく行われ、カテキスタ一人ひとりの任地と任期が発表されました(詳細につきましては、次号、Tangibleをご覧になってください)。
彼らカテキスタは、これから半年間、派遣先の教会と連絡をとりつつ、入門講座を、いつ開始しても良いように、さらに具体的な準備をすすめていくことになります。
また今年は、祝いの宴となる懇親会も、4年ぶりに開催することができました。
第1期生から始まり第5期生まで、総勢40名のカテキスタたち、また、関係者たちが勢揃いし、喜びの一時を過ごすことができました。
毎年のことですが、信仰を求めて、教会の門を叩く方々がいます。
世の中の人々にとって、教会の敷居というものは低いものではありませんが、それでも、その敷居を越えて尋ねて来る方々が、少なからずいらっしゃるのです。
そのような方々を小教区の皆さんと共に受けいれ、入門講座を通して、信仰の火を次の時代に継承していけるように、教区カテキスタたちは、これからも、奉仕していくことになります。
また、この9月23日(土)からは、第6期生たちの講座が、既に始まったことも、この頁を借りまして、御報告させて頂きます。 今年度は8名の受講生たちを迎えることができました。1年後、彼らが、無事、認定・任命を受けられるよう、どうぞ、お祈りください。
最後になりますが、2024年1月になりますと、新たに第7期生の募集も始まります。皆様の応募を、心よりお待ちしています。 皆様のますますのお祈り・励まし、そして、有形無形の援助を、これからもお願いしたいと思います。
カテキスタ第3・4期生 認定・任命 / 第1期生 再任命ミサ
受講生の声
次の世代にも神とのつながりが継続するように働きたい
受講者
第5期生
碑文谷教会 山田 方子
◆目からうろこ
20年前のことです。「目からうろこが落ちたのはどこ?」と、青山学院の牧師で、国際コミュニケーション学科の教授が授業中に問われたときに、私は自信満々「ダマスカース!」(新共同訳では“ダマスコ”と表記されています)と答えたのでした。牧師は、「いや参ったね。僕の期待していた答えは、“使徒言行録9章1節から6節”なんだけど」ということがありました。
私は、聖書や聖伝について、「話のあらすじを知っていること」だけで、「読んでいる」つもりだったのです。まるで読み書きのできない人のように、聖書朗読とその解説を聞くことで、内容を知っていると満足していたのでした。聖書に限らずなんでも、誰かが事前にまとめたり、整理してくれた“教科書”で学ぶばかりでした。
引用文献の注記のように、正確に出典箇所を言えるぐらい聖書を読み込んでいるのがプロテスタント信者の期待された姿なのを実感し、驚いた私でした。牧師のほうも驚いたようでした。「カトリックの聖書知らずとは言うけれど、ホントなんだねえ。やっぱり君は聖書を最初から最後まで読むべきだよ」と、実に的を射た助言をくれたのでした。しかし、もちろんその助言には従いませんでした。会社勤めをしながらの夜学の社会人大学院生は、3年目の学費を払ったばかりでした。
青山学院は、家と会社の間に位置していて、募集人数と合格者人数にそれほど差がないなどの幾多の理由から、通うようになりました。著名な先生のマーケティング論や、ファイナンシャル理論など、資本主義を謳歌する金もうけの時間割が人気でした。その中で、「国際コミュニケーション概論」というカリキュラム名で、牧師の先生が、クリフォード・ギアツや、マックス・ウェーバー、ラインホールド・ニーバーを「(プロテスタント風に一言一句)読み」、語り合う授業は、異端中の異端。ほとんど1桁前半の人数で授業は行われ、「目からうろこ」事件はここで起きたのでした。
授業の常連の中には日頃聖書を持ち歩いて、毎朝1章ずつ読んでいる人がいました。また、アメリカ大統領選の候補者について話すように、聖書の中の人物、例えば“ヨブ”について、「こういう時、あんな発言をしていた」、「この考え方に賛成」などと話すので、私は知ったかぶりをして「ああ、魚に食べられた人ね」などと発言しては、「それは“ヨナ”でしょ」などと、修正されてばかりでした。ほかの人に要約してもらって、ポイントを教えてもらう、効率的な知り方では「聖書を語る」には知識も意識も足りないことを理解させられました。
それでもとうとう修士課程を修了しました。それなのに、改心して毎日聖書を読み始めることはせず、通常の会社勤めに、バザーの品物集め、日曜学校のお手伝いや、駐車場の雑草抜き、初聖体の子供に貸し出す白衣を縫ったり、災害ボランティアに参加したり、マルタ派(ルカ10章38節から42節)の活動ばかりにますます励んでいました。
◆自律走行
コロナになって、日曜朝7時のミサもソーシャルディスタンスを取るため小聖堂では行えなくなり、マイクを使用しての先唱役を仰せつかりました。参加人数は平均35人程度で少ないし、家から教会が100メートルしか離れていないので、物理的な苦労はないと軽く考えて、お受けしてしまいました。ところが、7時のミサは、10時半ミサでは数人で作業分担することを、一人でしなくてはなりません。ろうそくをつけ忘れたり、献金袋を香部屋に置き忘れたり、作業の遅れや不備が目立ったため、ミサ参加者が心配して協力してくれるようになりました。もともと朗読・献金集めは分担していましたが、以前は行っていなかった窓開け、オルガン演奏、マイク調整などを4〜5名が、各自ができるときに行う自律モードで3年経ちました。私のポンコツさが、皆のやる気を引き出したのだと思います。
今までミサのご奉仕(主に日曜朝10時半)は、典礼委員から依頼されることしかありませんでした。所属する教会は、松田聖子が結婚式を挙げたことで一躍有名になった、碑文谷教会。比較的大きな教会で、熱心な信者の数も十分なので、私が奉仕を依頼されることはひと月に1回もありませんでした。ご奉仕は、“自分の都合と合っている場合”だけすればよかったのです。ところが、毎週日曜朝7時ではそうもいきません。一気に、「ぼんやり参加」から「一緒に作る」に、強制的に、外的要因から変化したのでした。
今でも7時ミサはどこかが足りない状態で始まることがあります。神父様は(たまに参加する母はもっと)ハラハラしているご様子ですが、我慢していただいております。50歳を超えてやっと、よき7時ミサ仲間と教会共同体に参加し始めた気がしております。
◆フードバンク
主任神父から「教区カテキスタの勉強をしてみませんか」と言われた時にも、「勉強だけなら行きたいけれど、誰かを教えるのは得意じゃない。学校の先生をしている方々がいるので、彼らが適任と思います」などと生意気なことを言っていました。数人の方が挑戦しているのを見て、努力もせずに「無理無理ー」と感じておりました。
月に1回、教会の司祭館2階を、生活困窮者に食料を配布する「フードバンク目黒」に提供しています。元祖マルタ派の私はほかの数人の信者と一緒に、張り切ってエプロンに軍手姿で配布のお手伝いをすることにしました。
毎月80世帯以上が食品を求めてやってきます。(最近は100世帯を恒常的に超えるようになりました。)行政からの援助対象にならないけれども、やはり困窮している人はずいぶんいます。バス代を節約するため、徒歩や自転車で来る人がほとんどです。また、彼らに食品を配布するためのボランティアは、無報酬・交通費自弁で体力と知恵、車や電話を使って、知らない誰かを助けています。食品を扱うので、メンバー内では勉強して“食品衛生責任者”資格を取得してもらったり(費用は受験者持ちです)、チラシやインスタグラムでの広報活動、食品を提供してくれる企業や団体への依頼書、複雑怪奇な日本語オンパレードの役所への報告書類の準備など、それぞれが社会・日常生活での経験や才能を持ち寄って、使っています。中でも最も労力がかかるところはやはり運搬で、米20㎏、防災缶詰40個入り段ボール箱とか、キャベツがぎっしりの段ボールなど、エレベーターのない2階まで運び上げます。
◆各自が“自分のできる”役割を
フードバンクに食品をもらいに来る人たちは、食品だけを求めているわけでないことが、すぐ分かりました。そしてそれは、ボランティアで来ている人たちも、同様なようです。
「一緒に聖歌を歌いたい」、「懺悔すればなんでもゆるされるのは本当か?」、「鐘をつきたい。1回いくら?」など、彼らとの会話で出てくる要求や質問は、対象も広く、求めるレベルも多様です。質問と返事の組み合わせではかみ合っている会話をしながらも、彼らの本当の要求に正しく応えられていない感触がありました。世間話をしているのに、急にまじめに受け答えしすぎるのも、ニセ宗教の勧誘っぽく思われそうです。
誰もが、失職したり、病気になったり、けがをしたり、濡れ衣を着させられたり、失恋したり、ペットが死んだり、子供が反抗したりしています。苦しい心を和らげることができず、やせ細ったり、占いに行く人もいました。「よく当たると評判の、特に名を秘す、占い師」で、費用も明瞭(30分8千円だそうです)、メールで予約をすると占い師の自宅アパートの部屋が指定されて行く、とのことです。値段が高いからなのか、期待のにじむ口ぶりからは、“明快な答え”がもうすぐもらえるように見えました。ただ単に、自分の話を聞いて欲しかっただけのようにも思えます。どう反応すればいいのか分からず、ただオロオロしてしまいました。
必要とされていることは明確でしたが、必要な能力の不足も明白でした。教義や聖書の説明を始めるには、知識が足りないし、相手の真の要求・期待を察知する能力も足りません。自分が体験した面白話とか、祖母から聞いた昔話などでお茶を濁すことしかできないのです。教区カテキスタ養成講座は、この欠けた部分を補うと思いました。
行ってみると、8人の仲間はみなきちんとした社会人で(もっと、宗教オタクみたいな人ばかりかと思っていました)、聖書の知識だけでなく、教皇の回勅や動静、儀式のやり方などに通じ、発表も堂々としていて、授業への準備もしっかりしているのです。優等生大集合なため、無遅刻無欠席がスタンダード。5分前に授業を始めてしまうときも数回ありました。授業中寝る人もいないのも驚きでした。
神父様方の指導は厳しく、新しい情報満載で、1回聞いただけでは理解できないことが多く、予習・復習が必要です。翌日の7時ミサのためには、5時半起き(どうしても、朝ごはんを食べたいのです)で、寝る時間が削られます。不思議な満足感、高揚感を感じる時がありますが、たいていは読まなくてはならない本や、資料作成に追い立てられていました。知識も技術もやる気も、強制的に出させられました。
◆カテキスタ
先週、1年の養成講座が終わりました。マルタ派の私にしてはいっぱい勉強し、本を読み、調べ物をしました。同期が分けてくれた授業のノートや本棚に並んだ本を見ながら、「これが全部頭に入っていれば、もう少し自信をもって話せそうなもんだがなぁ」、「ドラえもんの“暗記パン”が欲しいなぁ」と、うらめしく感じております。
それでも授業中にお聞きした「役割と質は異なる」ことをよすがとして、教区カテキスタのお役を果たしまいります。
これから教会に来る方との出会いは、オロオロしながら非効率的な話し方で始めることになりそうです。しかし、その方だけでなく、次の世代にも神とのつながりが継続するように働きたい、そういう希望を抱いています。
「更新プログラム」参加者の声
教区カテキスタは、3年という年月を区切っての奉仕職です。途中、何かあったら何時でもこの奉仕職から離れることができ、また、何時でも戻ってこられる仕組みです。このプログラムに参加し、面接・面談を経て、大司教へ再任命の申請をすれば、さらに3年間、教会における奉仕職に励むことになります。それが「更新プログラム」です。
教会の信徒の一人
カテキスタ第2期生
チーム関町
関口教会 小川 美緑
◆神様と共に歩むために
心を捧げる意義を見つめ直す
「更新プログラム」は、カテキスタ奉仕を続けた3年目に受講する教区カテキスタの勉強会です。
私たちが神様と共にあゆみ、イエス様の神秘を宣べ伝え、イエス様が残してくださった「唯一の教会」の務めを果たすため、心を捧げる意義をリファインする(見つめ直す)勉強会でもあります。
今年は2期生8名が、4月から9月まで全10回、そのうちの9回では前半は座学、後半は即席でグループを作り、分かち合いを進めて学びました。「私たちとシノドス」、「日本のカトリックの現状」、「歴史」など学び、教会への奉仕の決意と使命について、この更新プログラムを通して再確認します。
私たちカテキスタは、更新プログラムの最終日までの学びを終えて、改めて菊地功大司教様から「教区カテキスタ」として再任命されることになります。
◆福音と社会について深く考察し、
教会の信徒の一人であることを再確認
さて、更新プログラムを受けた私個人の率直な感想は、次のようなものです。
日本と世界の歴史を学び、分かち合いを通して、聖霊の力によって、今ここで、現代社会・世界における「福音化」、つまり福音と社会をどう結び付けるかについて、深く考察する機会をいただきました。
そして、私たちカテキスタはイエス様と共に歩む奉仕の道では「教える人」ではなく、「同伴する人」であり、「福音化」への道具として任命された「教会」の一人の信徒であることを再認識する貴重な勉強会でした。「更新プログラム」という、とても忠実な学びの時間をいただいたことに、ここで感謝したいと思います。
また、「聖霊の力によって、変えていかなければいけない」、「共に喜びをもって生きよう」という、以前どこかで学んだことを思い出したこともあって、神様の愛に心から感謝しました。
◆「教会=イエス様と同伴する信仰共同体」
を建設し維持してゆく
そもそも、教会は限りなくキリストに近づいて行かなければならないのであります。私たちは人よりも神に従わなければなりません。神様への信頼のもと、この世の在り方に支配されず、不義から生まれた習慣に妥協せず、毅然ときちんと生きる「教会=イエス様と同伴する信仰共同体」を建設し、維持していかなければならないのです。
私たち信徒が教会を支え、信仰を伝えるためには、「福音化」つまりイエス様と同伴する奉仕は、ごく自然な働きでしょう。
私たち教区カテキスタが、一人でも多くの人に「教会」という、イエス様が私たちに残してくださった「愛」について宣べ伝えていくこと、語られる「教会」が増えていくことを心から願い祈って、活動しています。
◆多くの方々の支えに感謝
終わりに、カテキスタの奉仕の道に感謝し、至らない私を見守り続け、指導してくださる猪熊太郎神父様、関口教会の信徒の皆様と天本昭好主任神父様、関町教会の信徒の皆様と稲川保明主任神父様、講師である教区本部事務局広報担当の赤井悠蔵さんに感謝の言葉を表明したいと思います。
ありがとうございました。
希望の種をまき続け、共に生きる希望がある!と言い続ける
カテキスタ第2期生
チーム関口
麹町教会 嘉藤 まゆみ
2020年9月カテキスタとしての任命を受けて入門講座の奉仕職に派遣されてから、3年を迎えようとしています。あっという間の派遣期間でした。再任命をいただくために、「更新プログラム」を受講することに決めました。 4月の1回目、オリエンテーションで始まりました。
◆イエス様の弟子として一緒に歩みたいと
思われるような仲間づくりをしたい
~弟子の召命(マルコ1・14〜20)講義
この聖書箇所で語られるのは、イエス様の弟子としての働き、役目、証し、目に見える召命であり、入門講座カテキスタとしてだけではなく、カテキスタとしての召命が神様から与えられ、委ねられていること、教会の門を叩いたばかりの人に共に寄り添い、弟子とイエス様の交わりをイメージすることを、まず自覚することになりました。
神様に選ばれたのだから、神様のことを信じて、イエス様の弟子として一緒に歩みたいと思われるような仲間づくりをしたいと思いました。
◆真面目なファリサイ派や律法学者に
ならないように用心する
〜愛と赦しと(マタイ18・15〜20)講義
傷ついている人が教会へ来る、誰かから傷つけられた、どうしても赦せない人がいる。そんな時、赦せない人のこと、どうしても赦せない人の心の弱さ、を否定してはいけません。
「赦せないのです!」という赦せない人を前にして、教える立場の人が裁いてしまうことは、正義=正しい=気持ちいい、という勘違いに基づいています。信仰を大切だと思うあまり、信仰を武器にしてしまう、自分たちと同じ価値観を持たない人を裁いてしまう、熱心さが逆に武器になってしまう、自分の教えを自分の解釈で押し付けてしまう。
それは、聖書の中での真面目なファリサイ派や律法学者なのです。そうならないように、カテキスタは用心しなければなりません。
思い返すと、私自身もそのような経験がありました。厳しいことを言われて赦せない、という思いも一時期ありました。しかし、赦すことで、その厳しい言葉を通して、より自分のことを知ることができたと、今ではその人への感謝の気持ちがあります。
◆笑いあり、本音あふれる講師のお話
〜派遣(マタイ28・16〜20)
「イエス様に出会っていない人に福音宣教しなくてはならない、言葉で伝えることは大切、生き方で証ししていこう」という赤井講師のお話は、笑いあり、本音があふれた講義でした。
◆イエス様の香りを忘れずに歩もう
~「キリストを知るという知識の香り」
(2コリント 2・14 )
「イエス様が教えてくれたことを喜んで行うこと。それは、さりげなくてよいし、その場にいるだけで、それが香ってくる、気づかれなくてもいいのです。いい人、いい感じ、たったそれだけでいい。だからこそ教会のことを話すチャンスはどこにでもある」というお話はとても印象的でした。
イエス様の香りを忘れずに講座を歩もうという思いを強くしてくれました。
◆日本らしい教会を大切に
〜「歴史に学ぶ日本の教会の姿①〜③」
神父様のテンポの良い話、目配り。時代背景と一緒に教会はどうしていたのか、歴史と共に教会のことを話してくださる神父様は初めてでした。何を聞いても、うん!うん!なるほど!と思うことばかり。毎回の受講時間が楽しみ、そして楽しかったです。
時代が変わって、100年間、日本の教会は何が変わったのか。いまだにヨーロッパ、フランスをお手本にして、頼っているという現状もあります。
では、私たちが大切にしていることは何なのか。それは、日本らしい教会。イエス様が教えてくださったことを心にきざみ、伝え、自分の役割を果たしていかなくては、と強い思いになりました。
希望の種をまき続け、共に生きる希望がある!と言い続けることが大切だと思います。
◆更新プログラムでの学びを
伝えていきたい
4月から9月、あっという間に過ぎました。私にとって更新プログラムの時間はとてもよい学びで、心が改まりました。これから受講生に、更新プログラムでの学びを伝えていきたいです。
春から暑い夏にかけて、いつも早く来て準備してくださったスタッフの皆様、ありがとうございました。
ふりかえり、いろいろなことを気づかせてくださった猪熊神父様、赤井講師へ感謝の思いです。ありがとうございました。
更新プログラム受講とこれから
カテキスタ第2期生
チーム葛西
田園調布教会 佐藤 英雄
◆講師は司祭と信徒
〜分かりやすく充実した内容
全10回の更新プログラムの講座は9月2日(土)で終了しました。
感想を一言で表すなら、分かりやすく、「深みとこくがあり、渋みもきいた」余韻が残るおいしいコーヒーのような充実した内容でした。
講師は、東京大司教区生涯養成委員会担当司祭の猪熊神父様と、同じく教区本部事務局職員のカトリック清瀬教会員の赤井兄弟です。
赤井氏は、私たちと同じ信徒ですが、豊富な聖書知識と自らの体験に基づくお話しをされ、今後カテキスタの任期を更新する上で、大変参考になりました。なかでも、司祭が減少する現状について、東京の司祭の数は比較的多いが地方は足りないこと、今後の信徒使徒職のあり方、カテキスタ養成の必要性をお話しされたのは印象的です。
◆分かち合いの中で
自分の信仰生活43年を振り返る
講義の後に分かち合いをします。司祭減少を裏付けるかのように、ある回のテーマは、ずばり、「あなた方はなぜ神父またはシスターにならなかったのか?」でした。
胸にザクっと突き刺さる思いがしました。私は24歳の時プロテスタント教会で受洗し、牧師になりたいと思っていました。26歳で結婚、安定した定職にも就いていましたが、牧師への憧れは変わりませんでした。そんな時「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19・21)との御言葉で、神様の私に対するご計画というものが分かるような気がしました。
勤続45年、信仰生活43年、結婚生活41年に思いをはせているときの分かち合いのテーマ「聖霊を感じた体験はありますか?」は、自分にとってグッドタイミングでした。またある時は、「カテキスタ以外で『派遣されている』と思ったことはありますか?」というテーマでした。
聖職者にならなくても、私は仕事と家庭と教会の中で、「聖霊」の導きのもとに「派遣」されていることを常に意識して生活してきたと思っていました。つまり、信仰的な生活をしていると自負していたように思います。
◆「歴史に学ぶ日本の教会の姿」を聞き、
考えさせられる
ところが、猪熊神父様の明治時代から現在に至るまでの「歴史に学ぶ日本の教会の姿」についての講義を聞き、考えさせられました。 神父様は、大事なのは次の点であるとお話しされました。
①日本の歴史の中で、社会と宗教の関係を知ること、特に社会が大きく変化した、時代の「節目」に、教会が社会にあって何をしてきたのかを知ることが重要である。
②日本は、明治時代の富国強兵から敗戦後の官僚主導・護送船団方式、経済至上主義大国、そしてバブル崩壊に至るまで突っ走ってきた。そして失われた30年、40年に入っている。明治期から現在に至るまで、日本の社会の構造は全く変わらない。私たちは「こういうことはおかしい」「大事にしようよ」と言えるようにならなければならない。
バブル景気の真っただ中、私は仕事の営業で高成績を上げていました。当時大流行したフレーズに「24時間戦えますか」があります。それは、日本人が日本という国に誇りを持って働いていたことを象徴していました。私は朝礼でも「仕事は8時間勤務だが、どうしたら成約できるか24時間よく考えろ。そうでないと戦えないし、契約はできないぞ」と檄を飛ばしていました。まさに、軍事から金もうけのための経済に舞台を変えた、「企業戦士」であったように思います。
牧師を断念したのは、使徒パウロがテモテに宛てた手紙の中で「自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」(1テモテ3・5) という1節です。私は自分の家庭を守ることにしました。そして働きました。
◆「企業戦士」の自分は
イエス様の思いから遠くかけ離れていた
「人事は飲み会の3次会で動く」ので、そこまで付き合いました。それもすべてはいつも自分の家の幸せのため。毎週教会に通っていても「自分の家」が「幸せ」になることしか頭にはありませんでした。恥ずかしい話です。
日本が「海外に追いつけ追い越せ」と躍起になり、時が経過する時代の「節目」には、いつでも、日本社会の中で周縁に追いやられた人々がいます。同じ社会の別の空間の中で生きている人々を忘れて過ごしてきたのです。そのことを考えなかったわけではありません。しかし、感じていなかったのかもしれません。「Don’t think! Feel!」(考えるな、感じろ)が欠如していました。
イエス様の思いから遠くかけ離れていたことに気づかされました。 感じないことは怖いことです。常識が失われてしまいます。猪熊神父様の講義の中からそのようなことを思い、反省しながら拝聴していたら、もう1杯渋いコーヒーが欲しくなりました。
神父様の講話には大切なメッセージがたくさんあります。ここには書ききれません。
◆使徒ペトロの力強いメッセージを携えて
行動できるよう神に願う
最後に、更新プログラム全体を通しての個人的な見解を述べたいと思います。
日本では政治問題や宗教に対する意識や関心は、国民全体に広がっていないように見えます。若い頃、会社の先輩に「営業先で政治と宗教の話はするな」と念を押されました。それはテーマが重く厄介だからです。いつでも「浅く広く、要するに差しさわりのない話をしろ」と教えられました。
しかし、私たちがもっと率直に社会の中、また教会の中で、政治の問題や宗教の話を自由に語ることができたら、もう少し開かれた教会になり、人にやさしい社会ができるのではないかと考えます。教会にとって重要なのは、お互いに意見を交わす分かち合いの場、透明性だと思います。
カテキスタによる入門講座の受講生が、信仰(宗教)に対し自由に意見を交わし、行動をとれるよう、選択肢を提供すること。これが更新後の私たちカテキスタの責任であり、派遣されているものとしての自覚です。
選択肢さえあれば、それが「ニューノーマル」(新しい常識)になっていきます。
そうした中で、私たちはイエス・キリスト以外の「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4・12) という初代教皇様、使徒ペトロの力強いメッセージを携えて行動できるよう神に願うのです。
教区カテキスタ養成講座第5期生のみなさん、1年間お疲れ様でした!
典礼あれこれ
第8回
「典礼暦について」
教会は、1年を通して、一定の日に、キリストの救いのわざを思い起こして祝います。そして、感謝の典礼と「教会の祈り」を捧げることによって、毎日を聖なるものとしていきます。特に、日曜日は「主の日」として、そして、根源の祝日として主の過越の神秘を祝います。したがって、年間の主日をのぞく待降節、四旬節、復活節の主日は、すべての祭日と祝日に優先します。言い換えると、暦の中でも主日は独特の重要性をもっています。
さて、全典礼暦年の頂点とされるのは、「主の晩さんの夕べのミサ」から復活の主日の「晩の祈り」まで続く「過越の聖なる3日間」です。この典礼を中心にして、聖霊降臨の主日までの50日間を「大いなる主日」として復活節が祝われます。そして、この復活の祭儀を準備するために、四旬節の典礼が行われます。これは灰の水曜日から、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」の直前まで続きます。
ちなみに、復活の主日は、「春分の次の満月の次の日曜日」と決められています。そこで、毎年、これらの典礼の暦は日付が変わっていくのです。
ところで、典礼の暦の新年は、私たちの暦と異なり、「待降節第1主日」から新しい年が始まります。12月25日の主の降誕までの四つの日曜日がそれぞれ待降節の主日となります。この待降節では、主の誕生を祝う準備をするだけでなく、キリストの再臨の希望へと心を向ける季節になります。
そして、12月25日の1週間後の1月1日には、神の母聖マリアの祭日を祝います。主の公現は1月6日に祝われますが、日本では、この日が守るべき祭日ではないため、1月2日から8日の間にくる主日に祝われます。 日本の教会において、守るべき祭日は、12月25日の主の降誕と、1月1日の神の母聖マリアの祭日とされています。
教会の暦は、現代の暦とは少々異なります。特に、キリスト教国ではない日本に住む私たちにとって、教会の暦を厳格に生きていくことは、少し難しいかもしれません。しかしながら、私たちは教会の暦を大切にし、これに思いをはせることによって、それぞれの季節にキリストの救いのわざを豊かに思い起こして生活することができるのではないでしょうか。