お知らせ
Tangible 第3号
2022年07月05日
教区カテキスタ養成講座に参加している第3・4期生たちは、9月10日に開催される修了式と認定任命ミサまで、講座が残り少なくなってきたので、今、ラストスパートに入っています。皆様の応援をお願いします。 さて、そんな中、今回のTangibleは、「現場の声」として2名、「更新プログラム参加者の声」として2名、そして、「更新プログラム講師の声」をお届けしたいと思います。
現場の声
主よ、私の口を開いて下さい
カテキスタ 第1期生
チーム葛西
板橋教会 林 惠美
もう4年近く前になりますか、第1期の東京教区カテキスタ養成講座が始まり、私は、講座の目的をよく理解しないまま参加していました。
その後、1年を経て、教区カテキスタとしての認定・任命ミサにあずかることができましたが、「とにかく、始めてみないと、何も分からない」という気持ちでスタートしたのでした。
入門講座を開講するために、半年間の準備期間と黙想会を終え、ようやく、カテキスタとして現場に立つというその時になって、コロナ禍のため、講座開講の目途がまったく立たなくなりました。
2期生たちを迎えて、再度、講座の開講準備期間を経て、葛西教会で、実際に入門講座を開講できたのは、実に、一昨年の12月のことでした。
その後も、感染状況によって、何度か講座は中断となり、今年、四旬節に入る直前に、なんとか、自分が担当していた講座全4回を終え、その後、2名の方々が、それぞれ、所属する共同体で、洗礼の恵みにあずかるという嬉しいお知らせをいただきました。
初めから今に至るまで、ずっと考え続けてきたことは、「私は何を伝えられるのか」ということです。
神学的な内容を、噛み砕いた自分の言葉で伝えることは、とても、できないと思いました。また、慌てて調べた付け焼刃の知識や、ただ用意したテキストを読むだけの講座をするのでは、この教区カテキスタの意義を損なってしまうのではないかとも思いました。
それでは、「自分の言葉」で、私たちの「信仰を伝える」とはどういうことなのでしょうか?
よく「神との出会い」と言いますが、人によりさまざまな思いはあるでしょう。でも、それを具体的に、入門者がピンとくるような伝え方をしようと思ったら、とても難しいことだと思います。
今まで、例えば、身近な生活空間の中で、そんなことを人に伝えようと思ったことがなかったものですから、これにはたいへん頭を悩まされました。
では、「神を知る」、または、「神を受け入れる」ことで、自分が「どう変えられてきたか?」
これも難しいですが、まだ、入門者に伝えるための言葉の糸口が見つけられるのではないかと、次第に思うようになりました。
もう一つ考えてきたことは、「共に歩み、寄り添う」ということの意味です。 教区カテキスタは、入門者が、今後、所属する共同体で洗礼を受けるまでの入門講座の準備をすることがその役割ですから、限られた期間、限られた講座の回数で、どうやって、「共に歩み寄り添う」という立ち位置から、入門者と接することができるのか? これも考えさせられる課題でした。
そして、全4回の担当講座と、サブ(講座担当者のサポートとして講座に立ち会う)を通じて、入門者の方々と顔なじみになるにつれ、入門者から「思い」を引き出すことが講座の一番の課題ではないかと思い始めました。
短期間にせよ、「共に歩み、寄り添う」ためには、こちらが一方的に何か伝えるということではなく、互いに共感をもって考え合ってみることではないか? と、今はそう思っています。
複数の人が一度に口を開くと、なかなか、その作業も難しくなりますが、今期は「語る」だけではなく「話しかける」ように、「理解させる」のではなく、それぞれが抱えている「『思い』を引き出す」よう、講座の計画を練っていきたいと思っています。
「主よ、どうぞ私の口を開き、私の口を通して、あなたが入門者の方々に寄り添っていることを感じられる、そんな道具として、この私を使ってください。」
共に…
カテキスタ 第2期生
チーム葛西
関口教会 小川 美緑
「教会」とは、本来、イエス・キリストが我々に伝えてくれた神の国の福音を、教会の外に向けて「宣べ伝える」ための共同体です。福音を宣べ伝えることは、教会の務めとして、何よりも根本的なものです。
旧約聖書の創世記をはじめとして、神に関する記述や神の民の歴史を通じて、また、イエス・キリストの弟子たちによって、新約聖書に書き残された「信仰共同体の務め」において、疑う余地なく、社会を福音化していくことは、教会の務めそのものでありましょう。
とはいえ、専門的な聖書学の勉強も、典礼の知識にも乏しい私の渇いた霊性で、いったい、何をどのように伝えたらよいのか? こんなに弱い自分に、そんなおこがましいことができるのだろうか…? と不安になりました。
しかし、神によって「集められ」「恵みを与えられ」「派遣されていく」一人ひとりとして、猪熊神父様の丁寧なプログラム(スケマ/scheme)によって、教区カテキスタ養成講座の一連の過程を修了するという恵みを頂戴することができました。
同時に、菊地大司教様から、教区のカテキスタとして認定され、葛西教会へ「派遣」して頂きました。神の国の福音を「宣べ伝える」務めのための「道具」として、その一歩を踏み出せたことに感謝しています。
葛西教会に派遣された私たち7名のカテキスタは、教区のコロナに対する基本的な対処方針に基づいて、6名の求道者を迎え、「入門講座」を2020年12月5日にスタートさせ、2022年の復活祭に受洗することを1つの区切りとして、講座を進めることになりました。そして、今年の復活祭に、求道者の中から2名が、洗礼の恵みに結ばれたことは、カテキスタとしての大きな喜びでした。
聖霊の働きに感謝すると共に、上村運営委員長をはじめとする葛西教会の信徒の皆様方、主任司祭の柴田弘之神父様のご協力があってこそ、実行することのできた「入門講座」であったので、この場を借りて、重ねて、お礼を申し上げたいと思います。
私は、第1回目の講座を担当し、その内容が旧約聖書であったこともあって、「まじめに準備をしてきました」と言わんばかりに、聖書・聖句の歴史的背景や人物の説明に集中していました。自分なりに、何度も調べ、納得できた資料(レジュメで12頁にもなりました)を片手に、如何にも、誇らしく、説明しながら伝えようとしたのでした。
しかし、講義が進むにつれ、微妙な空気を感じ始めました。
講座の雰囲気から、活気は徐々に失われ、受講者たちは、レジュメに目を落としたまま、誰も私と目を合わそうとしなくなったのです。
私は、知識を追うあまり、一方的な詰め込みの説明をしていただけで、内容をきちんと伝えるどころか、逆に、受講者たちに困難を強いていることに気づき始めました。
「…あぁ、こんな伝え方は最悪だ。知ったかぶりにすぎない…。」と、受講者たちに対して申し訳ない気持ちになり、自分の無意識で、愚かな高慢さが恥ずかしくなりました。
「主よ、急いで、助けに来てください」と祈りました。その晩の主日のミサで、密かに、主の赦しと知恵も願い求めました。 その甲斐もあって、幾つかの改善を試みた私のその後の講座は、担当する講座の内容に従って、例えば、カトリック教会が伝える「秘跡」「ミサ」「典礼」「三位一体」「イエスの生き方」「イエス・キリストが私たちに伝えたこと」「日々の信仰生活」などについて、受講者たちと共に学び、共に響き合うという、カテケージスの原点を噛みしめることになりました。噛み砕いた、単純な日常表現を用いて、分かりやすく伝えること、そのためのたとえを工夫しました。時には、図を描いて、シンプルに伝え、講座を進めることもしました。
講座の回数が重なるにつれ、受講者との間の応答に余裕も生まれ、共に傾聴し、共に学び、共に伝え、共に導かれる体験もしました。受講者の方々の表情にも、豊かな、微笑みが漂い出しました。
「主イエスよ、私たちと共に留まってください」「主よ、すべてをあなたのために」と、講座中、何度も、祈ることが私の中で支えとなって、講座そのものが、ある瞬間から、恵みと喜びの場に変わりました。
求道者から、「分かった!神様って○○○ですね!」と、素敵な返事が素早く帰って来たとき、その表情はキラキラと輝き、優しく豊かになりました。
何とも言えない、優しい場の雰囲気があり、私の中で「あぁ、神様、とても嬉しいです!」と、喜びの祈りを捧げることになりました。
講座そのものが、実に、「教会」そのものでした。
共に交わし、発する言葉が動的になり、「次回の講座も楽しみです」と、受講者から明るい声をかけられるようになりました。そのような時は、晩にある主日のミサの後にも、受講者から素朴な疑問と質問を多く受けるようになりました。
葛西教会へ同時に派遣された7名の仲間のカテキスタにとっても、この講座は、賜物であったことは言うまでもなく、とても感謝しました。
不完全で、どうにもならない私。どちらかというと、頑固で、融通の利かない、そのくせ、自意識ばかり強い私が、しかし、信仰の喜びを伝えることができた時、私たちは派遣され、宣教する教会の一部となり、喜びを人々と分かち合う共同体そのものとなるのです。 「カテキズム」の古代ギリシア語は、「(口頭で)教える・知らせる」の意味ですが、私の中では、そこに、徐々に「宣べ伝える」という意味が響き始めました。
そして、今期も、新しい受講者と共に学べる機会を頂戴しました。
とても、感謝しています。
最後に、私をカテキスタへと導いてくださった、今、病床にある西川神父様、また、流暢な韓国語で声をかけてくださり、「信仰共同体の一人としての奉仕職」へと正しく導いてくださる猪熊神父様、カテキスタ講座の資料準備などを、暖かく見守ってくださる関口教会主任司祭の天本神父様に、改めてお礼と感謝を申し上げたいと思います。
葛西教会2022年の入門講座
日時場所などについてはこちらをご覧ください。
「更新プログラム」参加者の声
教区カテキスタは、3年という年月を区切っての奉仕職です。途中、何かあったら何時でもこの奉仕職から離れることができ、また、何時でも戻ってこられる仕組みです。このプログラムに参加し、面接・面談を経て、大司教へ再任命の申請をすれば、さらに3年間、教会における奉仕職に励むことになります。それが「更新プログラム」です。
主の道具として用いられるとは…
カテキスタ 第1期生
チーム関口
麹町教会 荒井 貴
関口教会での入門講座は昨年7月から始まりました。コロナ・ウイルス感染拡大の影響による様々な制限が、徐々に薄らぎつつある時期でした。
そもそもの話、カテキスタ第1期生たちは、一昨年の復活祭明けから活動を開始するはずだったのです。養成担当の司祭の言葉を借りれば、私を含む第1期生たちは、「コロナ世代」。ウイルスが猛威を振るっている時期に「在宅勤務」も経験しましたが、その際の疲労やストレスを軽くしたのが、仕事の合間に読んでいた聖書や教義について書かれている本でした。
そして今は、向こう3年間、さらに、カテキスタとしての奉仕を延長するために、今一度、学び直す「更新プログラム」に参加しています。
今までの講座の中で、印象に残っている内容は、世界の大都市のカトリック教徒の数に対し、司祭や修道者が何人いるかという話についてでした。
日本の場合は、数字だけでは見えてこないのですが、司祭や修道者たちの「高齢化」の問題を抱えています。また、マルコ福音書1・14~20(イエスが、アンデレやシモンに声をかけ、弟子として召し出す場面)を土台として、「キリスト者になるには、何かを捨てなくてはいけないのですか?」と、講座の参加者から聞かれたら、何と答えるか…と問われ、各々の意見を分かち合う機会もありました。
カテキスタとして、そして、今、参加している「更新プログラム」を通して、考えを新たにしているのが、「道具として使われる」とはどういうことなのか? ということです。 私は、今、所属教会では何も奉仕をしていませんが、かつてはミサの「先唱者」としての奉仕もしていた。しかし、その時は、ひたすらマイクの前に立つことが楽しかったことと、ミサの後に「声が良いですねぇ!」と言ってもらえることが嬉しいだけで奉仕していた…と、今となっては、恥ずかしい話です。
カテキスタとしての活動は、チーム単位です。
都内、そして、千葉県内から、年齢や受洗・受堅などの条件を満たした信徒たちが集められ、学び、今、ひとつの目的に向かって、同じ船に乗っているようなものなのです。年齢や社会的経験も違っています。
また、必ずしも、「楽しい」「面白い」だけで奉仕できるわけではないこともあります。時には、疑問や不信感に近い感情を持つことも多いのです。しかし、そんな疑問や不信感と、時に、しっかりと向き合ってこそ、「道具として使われる」ことが分かるのではないか…? 今は、そう感じ始めています。
所属教会では、今年の復活祭まで主任司祭だったH神父様が、「教区カテキスタね…。まぁ、色んな経験して、武者修行みたいなもんやな。沢山、修行して、また、こっち(麹町)に戻ってきてや!!」とおっしゃいました。
私は今も、この言葉に背中を押され続けています。
語り、そして、耳を傾けることで
スタッフ
小平教会
柴山 恵美子
4月下旬から、10回にわたる「更新プログラム」が始まりました。
これは教区カテキスタが、3年間の任期を終えるにあたって、再び、奉仕をすることを希望する場合に、その準備として出席するプログラムです。
今年、3年目を迎えたカテキスタの第1期生たちが受講しています。 このプログラムには毎回、講義と「分かち合い」の時間があり、私たちスタッフも、カテキスタたちに混ざって参加しています。
私はこの時間をとても豊かに感じています。
3人、4人がひとつのグループになるよう用意された、数字カードを受付時に受け取ることで、その日のグループが決まります。しかし、「分かち合い」が始まる直前まで、誰がどのグループになるのか、分かりません。それは小さな楽しみでもあります。グループに分かれてから、その日の講義に因んだテーマが出され、それに基づいて、一人ひとりが思うことを語り、また耳を傾けます。
初回の講座の時、カテキスタたちからは、入門講座の現場での喜びや戸惑い、チームの仲間たちの助けについてなど、実に多くの話が出ました。
それらの話を聞いた時、イエス様のおっしゃった『二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである』という御言葉、また、『使徒たちは帰ってきて、自分たちの行ったことを皆イエスに告げた』という御言葉が浮かんできました。 数人で共通の課題に取り組み、語り、そして、耳を傾けていく時、私たちは、仲間としての意識を深めていくことができるように思います。
コロナ禍のために、全てのチームが、入門講座の延期を余儀なくされましたが、拠点教会と連絡を取りながら、それでも講座を開講し、この春、入門講座に参加した人々が、洗礼に導かれたのは、大きな喜びであったとのことでした。
「更新プログラム」に参加しながら、これからも、カテキスタたちと体験や思いを共有し、スタッフとして歩みを共にしていきたいと思っています。
「更新プログラム」講師の声
「共に」歩む人と「共に」歩む
講師
清瀬教会
赤井 悠蔵
今年度より、東京教区カテキスタ「更新プログラム」の講師を拝命いたしました。今年は、カテキスタ第1期生たちのための「更新プログラム」、すなわち、彼らにとっても、私にとっても、初めての取り組みとなります。前例のない挑戦に関わらせていただくことになり、緊張しながらも胸が高鳴っております。
私自身は、教会学校で、子どもたちに初聖体や堅信の準備を含む要理教育をしたり、教区や小教区で色々な形での奉仕をさせていただいたりという経験はありましたが、「入門講座に訪れる人々に、洗礼準備のための入門講座を行う」カテキスタに対して、何かしらの講座を行った経験はありません。そんな私が、現場の最前線で、カテキスタとして務めている方々に対して、何をお伝えできるのだろうか、神様はどのように私を用いたいとお望みなのだろうかということを考え、分かち合ってみようと思います。
私は、生まれてから後、5年ほど前まで、仙台教区で過ごしてきました。
仙台教区は青森県・岩手県・宮城県・福島県からなる、広く、特に、南北に長い教区です。一つ一つの小教区も小規模です。東京ではごく普通の人数の教会が、地方の人間から見れば「メガ・チャーチ」のように大きく映るのです。司祭の人数も小教区数よりはるかに少なく、ミサではなく集会祭儀が行われたり、一人の司祭が、一日に複数の小教区でミサを行ったりすることは「ごく普通」のことです。
仙台教区の状況は決して珍しいものではありません。地方の教区はどこも似たり寄ったりでしょう。
むしろ、東京教区が日本の中で特殊なのです。そして、遠からず、東京もまた、日本の 「当たり前」の小教区の姿になっていくのでしょう。
もし、信徒たちが、司祭や修道者に「おんぶに抱っこ」状態にあるならば、そのような教会は立ちゆかなくなります。信徒一人ひとりは、決して、司祭の代わりやまねごとをするのではなく、信徒という召命を、誇りを持って生きていかなくてはなりません。
カテキスタという召命を生きる方々は、その最前線に立つ存在となるのです。
仙台で生まれ育った私は、今、東京で生きています。
神様がそのように私を置いてくださったのだと思います。
二つの土地で生きた経験を、今ここで、カテキスタの皆様と分かち合い、皆様の糧としていただければ嬉しく思います。
もう一点、私は現在、教区本部事務局で広報担当として働いています。 組織における広報とは広告や宣伝とは違います。菊地大司教様は「広報とは、英語で言えばCommunication Officerです。つまり、コミュニケーションが必要な仕事は、全てあなたの仕事です」と仰いました。つまり、教会の内外を問わず、他者とコミュニケーションをとること、関わることが私のおつとめなのです。
コミュニケーションというと、話すことや伝えることに心を向けがちですが、教皇様が今年の「世界広報の日」のテーマを「心の耳で聴く」と定められたように、実際のコミュニケーションの要は「聴くこと」にあります。聴くからこそ、まずは、自分よりも相手を尊重するからこそ、次に、こちらから伝えることもできるのです。
カテキスタもまた、コミュニケーションの使徒職と言って過言ではないでしょう。今回の講座の中では、カテキスタの皆様と楽しくコミュニケーションしながら、お互いに、コミュニケーションとは何かを学んでいければと思っています。
カテキスタは「教える人」ではなく「同伴する人」です。
私も「講師」などという肩書きは付いていますが、カテキスタの皆様に同伴する人、すなわち、「同伴する人に同伴する人」でありたいと願っています。もちろん、主であり友であるイエスに同伴されながら。
「教区カテキスタ養成講座」への申込みを考えてはいるものの、今ひとつ、決断がつかない方。 どうぞ、一度、講座を見学しに来て下さい。事前に、専用ダイヤル(080-8888-6943)まで、ご一報をお願いします。
キリストに「触れられ」受洗を望むようになった人々に、日々「接している」カテキスタたち。 そのようなカテキスタになることを望み、カテケージスを、より「手触り感のあるもの」として学ぶ受講生たち。 そんな彼らと、彼らを支える小教区の信徒の皆さんが「接する」ための媒体になれれば…、と願っています。