お知らせ
Tangible 創刊号
2022年05月06日
「更新プログラム」が始まります
カテキスタ養成講座 担当司祭◉猪熊太郎
教区カテキスタの第1期生たちが誕生してから、2年が過ぎようとしています。
この間、コロナ禍によって、自分たちが予想もしなかった形にはなりましたが、しかし、受洗を望み、教会の門を叩く人々のために、カテキスタたちは、指定教会にて、講座を続けてきました。
そして、多くのチームで、この春、受洗をする方々を送り出すことができました。また、カテキスタたちは、新たに講座を開講し、そこに受洗希望の方々を迎え入れています。
カテキスタたちは、社会人として、また、家庭人として、それぞれに与えられた役割を、日々、果たしています。 カテキスタは仕事ではなく、教会の奉仕職の一つでしかありません。プロとして、カテキスタで食べている訳ではないのです。
突然、仕事が忙しくなった方もいます。 それぞれの所属教会での、他の奉仕を続けるか迷っている方もいます。
中には、カテキスタとしての道半ばで、身体を壊され、闘病生活をなさっている方もいます。 一人ひとりの生活状況が、置かれている状況が違うのです。
私たちの毎日は、決して、自分の思い通りにはなりません。 このため、教区カテキスタ制度を始める時から、この奉仕職は、3年という年月を区切っての奉仕職としました。
途中、何かあったら、何時でも、この奉仕職から離れることができるようにするためです。 但し、また、本人を取り巻く状況が変わり、カテキスタに戻れるようになった時には、再び、奉仕ができるようになった時には、何時でも戻ってこられるような仕組みを作っておきました。
それが「更新プログラム」です。
このプログラムに参加し、面接・面談を経て、大司教様への再任命の申請をし、9月に、初めて、認定・任命を受ける後輩のカテキスタたちと共に、さらなる3年間、教会における奉仕職に励むことになります。
目まぐるしく変わる世の中で、変わらぬこと、価値あることを求め続け、人々と分かち合うために、カテキスタの奉仕職は、皆さんに、開かれています。
カテキスタになったら、一生、続けなくてはいけないわけではありません。3年ごとに、現実の自分を振り返り、休むことも、辞めることも、また、この「更新プログラム」に参加した後、再び、戻ることもできるのです。
如何ですか?
3年という期限つきの奉仕職ですが、皆さん、一度、挑戦してみませんか? お待ちしています。
Tangible創刊にあたって
キリストに「触れられ」受洗を望むようになった人々に、日々「接している」カテキスタたち。 そのようなカテキスタになることを望み、カテケージスを、より「手触り感のあるもの」として学ぶ受講生たち。 そんな彼らと、彼らを支える小教区の信徒の皆さんが「接する」ための媒体になれれば…、と願っています。
受講生の声
信徒の役割を生きる道
受講者 第4期生
調布教会 今田 みゆき
教区カテキスタ養成講座を受講しようと思うにいたった経緯についてお話ししたいと思います。
私は1997年から2009年までの12年間、夫の仕事の都合で仙台教区の教会に所属していました。仙台教区は司祭不足がとても深刻なところでした。私の住んでいた地域の6つの教会の共同宣教司牧地域でも、主日は、毎週、必ずどこかの教会が集会祭儀となるような状況で、司教様にも、主日ミサの司式をしていただくことが度々ありました。私は仙台に来るまで集会祭儀の経験がなく、あずかった時は現状の深刻さを肌で感じ、とてもショックでした。
けれども、司祭不足はネガティブなことばかりではありません。信徒の間には、神父様方にはできるだけ秘跡に関することに専念してもらい、他の雑事で煩わせないようにしようという雰囲気があり、私にはそれがとても新鮮で、教会のために喜んで奉仕する方々の心意気を感じ、頼もしさを覚えるほどでした。私たち夫婦はそのような場所で40歳代を過ごし、信仰を育てていただいたことは感謝の念に堪えまえせん。
そして、今回の受講を決意するきっかけとなることが訪れます。
それは2008年11月に行われた「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式です。当日、私は所属教会の聖堂で信徒の皆さんと一緒にネット中継を見ながら参加していました。当時、聖堂の壁に中継映像を投影するには、事務室から長いLANケーブルを引いてくるしか方法がなかったのですが、嬉しくてワクワクしながら設営準備をしたのを昨日のことのように覚えています。 そして、その列福式にあずかっている時、ふと、ペトロ岐部と187殉教者の状況と今の私の置かれた状況がどこか似ていように思えてきたのです。司祭や信徒の高齢化、召命の減少による司祭不足、信徒数の伸び悩みなど、迫害こそありませんが、教区の現状に何か通じるものを感じました。1600年初頭、司祭を迎えることすら困難な状況にありながらも、厳しい迫害を逃れながら、信徒たちは密かに集まり、集会祭儀や祈りを捧げていたことでしょう。そのような状況の中でも命がけで信仰を伝え、守り抜くことができたのは、神様の励ましの他にも、信徒の役割が大きかったのではないだろうか。あの時代を思えば、集会祭儀ぐらいで落ち込んでなどいられないではないか…などなど。列福式の最中、私はそのような思いが頭から離れませんでした。今思えばペトロ岐部と187殉教者を通して、神様が道を示してくださったと感じています。
そして、東京に戻り子育ても無事に卒業することができたのを機に、列福式でのことを思い出し、これからの人生の時間の使い方を考え、今こそ、この教区カテキスタ養成講座にチャレンジする時であると感じ、受講の申し込みをさせていただきました。 講座では人に信仰を伝えることの難しさに直面しています。また「アウトプットは最大のインプットである」とはこのようなことかと痛感させられるような日々を過ごしています。そして何より、自分の信仰生活を振りかえるよい機会となっており、大きな喜びも感じています。このような機会を与えてくださった神様に、心から感謝しています。
私がチャレンジしていることはほんのわずかなことではありますが、この歩みを祝福し守っていただけるようにどうかお祈りください。皆様、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
カトリックの入口
受講者 第4期生
習志野教会 鈴木 真理子
現在、カテキスタ養成講座の第4期生として勉強している最中ですが、まさか私がこの場に居ることになろうとは、つい最近まで思いもしませんでした。
ある日、所属教会の主任司祭からひとりの洗礼志願者の方を紹介され、要理を教えて欲しいとのお話がありました。私はそれまで教会運営に関する活動ばかりをしていて、要理を教えた経験はまったくありませんでしたので、最初は何の冗談かと思いました。
しばらくして現実のことなのだと理解した後も、しばらくの間は茫然としていたのは言うまでもありません。それでも、このような機会を与えられたのは、神さまの思し召しなのだと思うにようになってからは、ひたすら勉強に励む日々を送っています。
まず、私自身が正しい知識を身につけるよう努力し、洗礼を望んでいる方に、神さまがいかに素晴らしい方であるか、その御旨に従って生きるために、教会という場・仲間たちがどれほどの支えになるかを伝えたいと考えています。
私は成人洗礼なので、自らが神さまを求める心を確信して受洗したものの、以後、それなりに長い人生を送る過程では、イベント信者になった時期もありました。維持費を払わないと教会とのつながりが途絶え、神さまから見捨てられるような気がして、維持費を払いに行くためにクリスマスのミサだけは必ず与っていたのですが、日曜日ごとに怯えて暮らしていた期間は10年ほど続いていました。
今考えると、神さまの愛も分からずに信者を名乗っていたのだと、恥ずかしさでいっぱいになります。それでも、どのような形であれ、神さまや教会から見捨てられないよう恐れていた自分には、間違いなく信仰心が根づいていたのだと、我れながら感心しました。
私の娘は宗教的には放任で育てましたが、成人してから、自ら、望んで洗礼を受けました。娘婿も結婚講座を機に、娘の意思とは関係なく、自らの意思で洗礼を受けました。神さまからの呼びかけに応えるきっかけは、決して人の力によるものではないのですね。日本ではマイノリティーなカトリックを知る機会が少ない中で、それでも、敢えて、カトリック教会を選び、足を運んでくださる求道者には、知識の伝達だけではなく、その人の心に寄り添うことが大切なのだと思います。
教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『要理教育』という本の中にある、「真の要理教育はつねに、神がご自身について、イエス・キリストにおいてなされた啓示を秩序立てて、体系的に教えるものです。」とのことばに、衝撃を受けました。それまでは何となくカトリック的生活を送ることで満足していて、「世界中の人たちがカトリック的な発想で生きていれば、みんなが幸せになるのになぁ…」くらいの考えでいましたが、このことばによって、「そうだ、キリスト教が2,000年も続いてきたのは、そして、広く世界中の人々に受け入れられて来たのは、キリストの教えを体系的に、ブレることなく、きちんと伝えてきたからなのだ。」と、思い知ることになったのです。 カテキスタは、その一端を担う役割、とても大切なことを担うのだと、今、身の引き締まる思いでいます。
現場の声
西千葉教会に派遣されて
カテキスタ 第1期生
チーム西千葉
葛西教会 笹島 泰子
この一年と少しを振り返りたいと思います。
私は、西千葉教会で4名の求道者にお会いすることができました。そして、そのうちの2名の方が、今年の復活祭に洗礼を受けられます。
私たちカテキスタは、6名のチームで講座を開いています。皆が別々の教会から来ていたので、最初は手探りの状態で講座内容や予定を組んで始めました。
求道者の方々も最初は緊張されていましたが、講座の半分が過ぎた頃から自分の話をされるようになり、興味深く聞くことができました。
そこで知ったのは、多くの人々が神様の存在を信じていて、求めているということです。 私には大きな驚きでした。 普段、教会を訪ねて来られる方はいますが、私も成人洗礼でしたし、自分から教会の門を叩いた経験から、その敷居は高いと知っています。カテキスタの講座では、このため、twitterを使って講座の募集をしたり、教会の様々な行事や祭日の内容もアップしたりしています。それを見て来られた方も多く、Twitterは、今の伝達ツールにぴったりだと思いました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15b)。
私にとっては、幾ら真面目に信仰生活を送っていたとしても、最大の課題は、福音宣教にあると思っていました。しかし、職場で、また、友人たちに、深く信仰の話をするのは難しいことです。それでもイエス様は、福音を皆に伝えなさいと弟子たちに言っているのです。
カテキスタとしてのご奉仕は、この福音宣教を実現する大きなチャンスです。イエス様による救いというグッドニュース(福音)を、思いっきり伝える時間、そのために、求道者たちが目の前にいます。
宣教は一名では難しいと思います。聖書にも、イエスは弟子たちを宣教に遣わすにあたり、2名ずつ組にして遣わされたとあります。 信仰は、一匹オオカミとしてではなく、鳩の群れのように、グループの仲間として共に進むのです。そこには心強さがあります。
そして、何より、イエス様ご自身が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20b)と言われているのですから。
今年の新しい講座が既に始まっています。神様が今年一年を導いてくださると信じます。
神と共に、仲間たちと共に…
カテキスタ 第1期生 チーム西千葉
茂原教会 三輪 秀樹
西千葉教会での入門講座は、コロナ禍により、当初の予定より半年も遅れて、2020年11月に、ようやくオリエンテーションをもって、開講しました。
緊急事態宣言による中断をはさみながら、チームのカテキスタ6名が、交代で20回のテーマ別の講座を担当して行い、2022年2月に最後のまとめの回を終えることができました。
2019年の秋にカテキスタとして認定・任命を受けてから2年半、ようやく、入門講座を1クール終え、講座の修了者を送り出すことができたのです。
1年の講座の中では、聖書を通して、神がどんな方かを感じてもらい、カテキズムだけでなく、日本のカトリック教会の歴史、日々の信仰生活や教会の経済などを学び、説明や質問、感想の分かち合いなど、洗礼に向けての、様々な準備をしています。
福音は、当時のユダヤ人社会や文化を背景に語られています。
これだけでも、聖書に親しんでいない方にとっては、理解不能なことが多いかもしれません。 カテキスタ養成講座を受けてから準備はしてきたので、初歩的な知識や情報は何とか伝えることは出来ます。しかし、目に見えない私たちの信仰を、どうやって伝えたら良いのか、実践の場で、受講者と対面すると、いつも、悩み考えさせられます。
そのような私に、神は身近な人たちの、言葉や、表情、ふるまいを通して、「いつも、あなたと共にいる」というメッセージで、この私に生きる喜びと道しるべを与えてくれます。
また、神の招きの声に応え、入門講座を担当するという奉仕をしていても、時間をかけて講座の準備をすることや、茂原からは遠い、東京や千葉へ頻繁に通うことで挫けそうなる時、いつも、カテキスタの仲間たちが、この講座を続ける勇気と希望を与えてくれます。
この奉仕の道は、自分一人だけ担当するのは困難です。チームのメンバーがお互いに助け合い、共に歩むことができること自体が、大きな喜びであり、神の恵みであると感じています。
この復活祭には、講座を修了した受講生の方々が受洗を予定していて、私たちチーム西千葉は、祈りと喜びのうちに四旬節を過ごしています。
3月からは、新たに4名の受講生たちを迎え入れ、今年度の講座もスタートしました。私たちは、これからも入門講座を通じて、拙いながらも、私たち教会の信仰を証し続けたいと願っています。
西千葉教会 2022年の入門講座
日時場所などについてはこちらをご覧ください。
教区カテキスタ 軽井沢黙想会のご報告
チーム葛西◉内田 正
去る3月19日から3日間、教区カテキスタ(以下「カテキスタ」)の黙想会が、御聖体の宣教クララ修道会・軽井沢修道院で開催されました。東京教区生涯養成委員会の猪熊太郎神父様にご引率をいただき、また、仙台教区でカテキスタ養成のご経験がある森田直樹神父様(京都教区)を指導司祭にお迎えして、21名が参加して行われました。
今年の四旬節は、私たちカテキスタにとって、自らを見つめ直すときであったように思います。
私たちはこの2年間、コロナ禍にあって、休止と再会とを繰り返しながら、派遣先の教会で初めてとなる入門講座を運営して来ました。
感染症対策との関係から講座を開始できなかった1教会を除き、他の5教会では、洗礼志願者を送り出すことが出来た喜びと安堵感がある一方で、講座を行う中で自覚した壁や痛みのようなものを抱えながら、多くのカテキスタたちが、今回の黙想会に参加したものと思われます。そして、間もなく始まる2022年度の入門講座に臨むに当たり、多くのカテキスタたちは、イエス様と新たに出会っていく必要性を感じながら参加していたのだと思います。
軽井沢の修道院の朝は、鳥の鳴き声と、日の出と共に始まる雪解けの様子から始まります。聖堂での朝と晩の「教会の祈り」、そしてミサ。講話室での森田神父様のお話、自室や聖堂での個人黙想、自由時間におけるカテキスタ同士の分かち合い、そして、希望者には二人の神父様との面談や赦しの秘跡の機会も用意され、これらが重なり合うように黙想会は深まって行きました。
以下、黙想会の一部について触れさせていただきたいと思います。
◆森田神父様の講話から(全3回)
◉各自の召命とそれに対する信頼
▶︎召命とは、司祭や修道者の召命だけではなく、洗礼を受けた者は全員、神が与えられる使命を受けている。私にしかできないこと、私がやらなければならないことを果たし、そこで、神の命に招かれて行くのである。
▶本人が否定しても、神のご計画の下に私たちはある。他者の目、口、耳、手足となって奉仕するという召命もあるかも知れない。上手く出来ないと感じる時もある。しかし、それでも神は私を使ってくださっている、ということにしっかりと信頼して進むことが大切である。
▶「連帯は希望を生む」ので、入門講座では単に教義を伝えるだけではなく、受講者の一人ひとりが教会に来られるまでのストーリーに寄り添い、つながり、連帯して行くことにより、それらの方々に希望を生んで行くのがカテキスタたちの使命である。そしてそのことが、教会に集う一人ひとりの希望の源にもなって行く。
◉福音宣教と「わたし」の関係
▶日本の教会では、聖書講座や講演会に参加する人々は多いが、聞くだけではなく、自分たちの信仰を証しする人は少ない。日本人はおとなしいのかも知れない。
▶私たちが「信じる」ということの中には、証しすること、福音を伝えるということが不可欠な要素として含まれている。イエスが伝えた福音を、今日の私たちの生活や社会の中で新たに表現し直さなければならない。そうしなければ伝わって行かない。
▶福音を伝える人は教会から派遣されるのであり、それはイエスから、神から派遣されているということになるので、決してひとりぼっちではない。
▶福音を伝えるのは、「私がやり遂げる」ということから、「必要な恵みはイエスを通して与えられている」ということに、自らが変えられてゆくプロセスでもある。
◉信仰を伝えるために確認しなければならないこととは?
①神をどうとらえているか(例:いつも共にいて下さる方として?)
②教会をどうとらえているか(例:神がイエスを通して、聖霊の促しの中で、いつも共にいて下さることのしるしとして?)
③福音宣教をどうとらえているか(例:相手を説き伏せることではなく、神がいつも共にいて下さることを伝えることとして?)
私たちが信仰を得ることに繋がった聖書の「御言葉」があれば、それを信仰の中心(出発点)にして、自分がどのようにこれら①~③を理解しているのかを確認してみることが、自らの言葉で信仰を語り、伝えるときの助けになる。
そして、一度、たどり着いた結論にこだわるのではなく、柔軟な心でそれらを広げて豊かにして行っていただきたい。
◆ミサ説教(森田神父様)
◉3月20日、四旬節第3主日ミサ(ルカ13・1~9)
▶四旬節は回心のとき、神に立ち帰るときである。カテキスタの皆さんはこの黙想会で、自分の召命、神の働き、出会った困難について祈っておられると思われるが、そのすべての根っこは回心、つまり、神に立ち帰るということにある。
▶「回心」にあたるギリシア語「メタノイア」を逆に読むと、偶然ではあるが「アイノタメ」となる。恐れ、不安、何かに急かされている自分にとどまるのではなく、神の愛に触れ、神の前に膝をついた時に本当の回心につながるのかも知れない。
▶そして、やわらかい心で神の導きを受け入れられるように、私たちの回心を辛抱強く待っておられる神に対して、私たちの決心を捧げてゆくことが大切である。
◉3月21日、週日ミサ(ルカ4・24~30)
▶神の「御言葉」は、喜びの知らせ・救いのしるしであるが、それを聞く人により、喜びや救いにもなり、また、怒りにもなってしまう。
▶私たちも、子供のように素直に心の扉を開き、神のことばを聞きながら、四旬節を歩いて行きたい。
自由時間での分かち合いから
▶この一年の入門講座の中で話をするのが難しかった箇所、例えば「十字架の死・復活・昇天」に関して、何人かのカテキスタから、信じている内容が分かち合われた。
▶また、明治以降の日本のカトリック教会の歴史、特に、第二バチカン公会議以降の日本の教会がどうであったのか、文献も少ないが、現在の自分たちに直接、繋がることでもあり、ちゃんと把握しておきたいという意見も出された。
今回の黙想会を通して、パウロの「宣教という愚かな手段」(1コリント1・21)ということばが通奏低音のように響いていたと感じています。黙想会の余韻と共に、往路と同様、猪熊神父様が運転してくださるマイクロ・バスに乗り東京に戻りました。
これからも、入門講座の現場で出会う喜びと困難の中に、共におられる神に信頼して、カテキスタ全員で協力しながら歩んで参りたいと思っています。