お知らせ

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東京教区ニュース第412号

2024年05月08日

アド・リミナ訪問を終えて

東京大司教 菊地 功

教皇宮殿にて

教皇様は、87才という年齢にもかかわらず、元気なご様子で、笑顔でわたしたちを迎えてくださいました。4月12日の金曜日午前中、バチカンの教皇宮殿にある執務室で、「アド・リミナ」訪問の締めくくりとして謁見に訪れた日本の司教団全員17名に対して、教皇様は、「公式なスピーチはいりませんから、じっくりと語り合いましょう」と招いてくださり、一時間以上、日本の教会からのさまざまな報告に耳を傾けてくださいました。 

「自分は宣教師として日本に行きたかったが、健康のためにそれは適わなかった」と冒頭で言われた教皇様は、謁見の終わりに、司教全員に向けてこう言われました。

「一つ言いたいことがあります。喜びを失わないように、そしてユーモアの感覚も失わないで。……喜びに満ちていないキリスト者は悲しいキリスト者だと言われますから」

「アド・リミナ」という言葉を耳にされたことはあるでしょうか。教会法の399条の1項に、教区司教は5年ごとに、教皇様に対して、自分に任せられている教区の状況を報告しなくてはならないと定められています。それが「アド・リミナ」訪問で、「アド・リミナ・アポストロールム」の略であって、「使徒たち(聖ペトロと聖パウロ)の墓所へ」の訪問を意味しています。

司教たちが好きなときに自由に訪問できるのではなくて、その訪問と報告をいつするか、どのようにするのかは、聖座が決めると定められています。 わたしにとっては新潟司教時代の2007年、2015年に続いて、3回目のアド・リミナです。これまでは、聖座から訪問の日程だけが示され、司教団が省庁訪問を、日程やメンバーを含め自由にスケジュールを組むことができたのですが、この数年で聖座から指示される「どのように」の部分が、大きく変わりました。現在世界に5千人はいる司教は、聖座の司教省か福音宣教省の管轄下にあります。アジアの教会はフィリピンを例外としてすべて宣教地ですから、教会も、そしてその司教も、福音宣教省の管轄下にあります。数年前から、アド・リミナのスケジュールは、宣教地の教会に対しては福音宣教省がスケジュールを組み、省庁訪問も司教団全員で出かけるようにと定められました。

省庁の数は多数ありますから、1週間以内にそのほとんどを訪問するためには、結構厳しいスケジュールとなりますし、また今回から、各省庁で司教団の代表がレポートをすることにもなりましたので、そのレポート作成も簡単ではありません。わたしも司教協議会会長を務めている関係で、国務省をはじめかなりの数のレポートを担当いたしましたが、事前の準備にかなりの時間を要しました。

ベネディクト16世の時代までは、司教ひとり一人と個別の面談がありました。15分程度でしたが、初めてのアド・リミナの時には、「あなたの教区の希望は何ですか」と尋ねられ、答えに窮したことを憶えています。現在の教皇フランシスコになってから、全員で謁見し、自由に話をする形に変わりました。司教としては個別面談の方が嬉しいのかもしれませんが、教皇様の負担を考えれば、そうとも言ってはいられません。それでも教皇様は、十分に時間をとって、日本の教会のことについていろいろと質問をされました。

中でも、広島や長崎を訪問したときのことにふれ、核兵器の保有は、それ自体が非倫理的であるという指摘を繰り返されたことや、人間のいのちの尊厳を護るために、さまざまな角度から取り組むようにという示唆など、具体的なお話をいただきました。

謁見の終わりに教皇様から、「わたしのために祈ってください。わたしも皆さんのために祈ります」との言葉があり、使徒的祝福をいただきました。この言葉と祝福は、司教たちだけのものではなく、司教を通じて、教区の皆さんにも届けられるものです。教皇様のために、お祈りください。

そのほか、多くの省庁を訪問しましたが、いくつかの省庁では、役職者に女性の姿が多く見られるようになりました。数年前には全くなかったことです。以前は、居並ぶ省庁高官の前に裁かれるために引きずり出されたような雰囲気があった省庁訪問でしたが、雰囲気が変わりとても友好的に対話ができる省庁が増えたように感じました。もちろんどこに行っても、教皇様ご自身も、教会のあり方としてのシノドス性の重要性の話となり、共に助けあって歩んでいこうとの呼びかけが繰り返されました。

またこの数年進められている教皇庁の改革に合わせ、聖座は地方教会を監督して命令するところではなく、教皇様をはじめ司教たちを助けるためにあるのだという改革の意図を強調する省庁が多くあったのも印象的でした。

日本の教会と聖座と、互いに助け合いながら、神の民としてふさわしい教会のあり方を模索し続けたいと思います。

福音宣教省にて、聖ヨハネ23世の胸像と

ミャンマーの教会に想いを寄せて

ミャンマーでの国軍によるクーデターから3年、抗議デモへの弾圧、軍事政権に対する少数民族武装勢力や民主派の武装組織の抵抗、戦闘拡大に伴う避難民の増加と、同国内では緊張と混乱が続いている。ここ数ヶ月のミャンマーの現状について、ミャンマー委員会担当司祭のレオ・シューマカ神父(築地教会主任司祭)に報告していただいた。

今年、内戦は激しさを増し、国軍は多くの挫折を体験しています。大都市周辺での戦闘は激しくなっていますが、国軍は多くの地域で都市から離れた地域に追いやられています。

この2年以上にわたって、「希望の種」のプログラムを通して、東京大司教区は紛争地域やIDP(国内避難民)キャンプに300以上の学校を作ることができました。これらの学校は、現在、戦闘から離れて、5万人以上の子供たちにより良い教育を与えられるようになりました。

現在は、2023年に戦闘が行われていた多くの地域では大体戦いも止み、IDPの一部は、自分たちの家に戻りはじめています。

しかし、都市部では事態は悪化しています。国軍が教会の建物を占拠し、大勢の司祭やシスターたちの生活と生命が脅かされています。ある教会では銃撃された人もいます。4月12日の朝、ポール・クワイン・シェーン神父は、ミサを捧げている最中に武装した2人に銃撃されました。彼は現在、地元の病院で重篤な状態にあります。銃撃者は国軍の信奉者シャンニ軍の所属で、再び、宗教的・民族的紛争を引き起こそうとしているのではないかと推測されています。

教皇フランシスコは、「ミャンマー国民の苦悩の叫びと武器の轟音が、人々を特徴付けていた微笑みにとって変わってから、3年が過ぎました。『破壊の兵器が人間性と正義のうちに成長する道具に変わるように』と願う同国の司教らの声に一致したい」という思いを述べられました。

東京の私たちも教皇と共にミャンマーの姉妹教会のために祈ります。この大きな試練と苦しみの時に彼らを忘れることはない、という思いを確かなものにしたいと思います。私たちの祈りと支援を通して、私たちは希望の種を蒔こうではありませんか。

レオ・シューマカ神父

「霊における会話」について その1

教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父

「ともにある」ために

2021年10月より始まっているシノドス(世界代表司教会議)第16回通常総会は昨年の10月に第1会期を終え、今年(2024年)10月に第2会期を行います。すでにご承知のことだとは思いますが、第1会期で採用された討議のための方法が「霊における会話」でした。その具体的な姿については、今後、さまざまな機会に紹介されていくと思います。おそらく、教会の新しいあり方としてこの「霊における会話」は広まっていくものと考えられます。ここでは数回にわたって「霊における会話」がもたらす恵みをお話しします。

教会は「集い」です。父と子と聖霊の三位一体の神は「集い」を通じて働いてくださいます。父なる神との出会いは「集い」である共同体を通じてなされるのです。主イエス・キリストが宣べ伝えてくださった「福音」は「集い」の中でわたしたちのこころに届きます。聖霊は個人に働きかけるというよりも、共同体に属している一人ひとりに恵みをもたらすのです。キリスト教の信仰とは「集い」による信仰、「集い」とともにある信仰、「集い」のうちにある信仰なのです。

小教区の共同体に信仰を求めて訪れる人がいます。神が「集い」へとその人を招いてくれたのです。神が「集い」に導いてくれたのです。信仰を求めている人は、小教区の共同体の中で神と人に出会います。小教区を通じて神との交わり、人との交わりを体験していきます。共同体なしにはわたしたちの信仰は育まれません。もちろん、人の「集い」ですから、小教区共同体がきれいで、非の打ちどころのない完璧なものではありません。むしろ、人間の「集い」に生じる「疑い」、「裏切り」、「失望」などがあります。多くの洗礼希望者はそんな小教区共同体の現実に夢破れてしまいます。

しかし、そんなドロドロした「集い」であったとしても、そんな汚れた「集い」であったとしても、そこには神がおられると信じて、「集い」を構成するメンバーの一人として生きていこうとするのが信仰の決断なのです。その時、その人のこころにイエスの福音の種が芽吹くのです。

ですから小教区共同体は「ともにある」共同体です。個人主義が大手を振っている現代社会にあって、教会にだけは愚直にも人と人のつながりがあります。そのつながりは、何か共通の目的を目指すようなものではありません。あるいはうまくいくことだけを求めるような機能的なものではありません。ただ、キリストと「ともにある」、兄弟姉妹の関係のつながりです。「ともにある」共同体のすばらしさは、そこに居合わせた人々にはなかなか分からないかもしれません。むしろ、教会とはまったく関係ない人々のほうがすばらしさを教えてくれるでしょう。例えば、お葬式の時に信徒の皆さんが協力して仕える姿の中に、人々は何かすばらしいものを感じるのだと思います。

「霊における会話」は、キリスト者が「ともにある」という事実を教えてくれます。つまり、「霊における会話」は真の共同体となるためにとても有益なものだと思います。なぜなら「霊における会話」では、一つのことがらを「ともに」祈るからです。兄弟姉妹の祈ったことがらを「ともに」聞くからです。また「ともに」沈黙の時間を過ごします。こうして、聖霊が今、ここに働いていることを「ともに」認め合うからです。

『ルカによる福音書』のエマオの弟子たちの物語は「霊における会話」の原型かもしれません。失意の中で故郷へと帰っていく二人の弟子はこころの中で祈っていました。いっしょに歩いてくれる人に出会って、自分たちの気持ちや想いを打ち明けました。歩きながら救いについてのいろいろなことを聞きました。二人は少しずつこころが変わっていきました。「一緒にお泊まりください」(ルカ24章29節)という二人の呼びかけは、「ともにある」ことへの願いです。食事をして、パンを裂いたときに、その人が復活したイエスだと分かります。弟子たちの真ん中にイエスがおられたのです。

「霊における会話」の最大のめぐみは、「ともにある」共同体の中心にキリストがいるという気づきなのです。

よく尋ねられるのは、これまで実践してきた「わかちあい」と「霊における会話」はどう違うのかということです。確かに聖書の「わかちあい」などは信仰の共同体では積極的に行われています。「わかちあい」はその人が感じたこと、考えたことを披露します。しかし、「霊における会話」ではその人が祈ったことを「集い」に明け渡すのです。ですから、「霊における会話」では明け渡すという決断と勇気が必要となります。それを可能にしてくれるのは聖霊の働きなのです。そして、「霊における会話」では最終的に「わたしたち」という共同体が生まれます。キリストが結び合わせてくれて、キリストが中心にいる共同体なのです。このようにして「ともにある」ことの喜びを、キリスト者は感じるようになるでしょう。

訃 報 使徒ヨハネ 澤田 和夫神父

使徒ヨハネ 澤田 和夫神父が2024年4月11日(木)午前0時40分、老衰のため入居先の施設にて帰天されました。享年104歳でした。どうぞお祈りください。  葬儀ミサ・告別式は4月18日(木)、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、菊地功大司教の司式で行われました。なお、納骨式の日程は未定です。

【略歴】

【略歴】

1919年12月9日        東京都渋谷区に生まれる。
1920年4月21日        麻布教会にて受洗。
1951年12月21日         司祭叙階(ローマにて)
1954年12月~1961年9月   真生会館付
1961年10月~1969年10月    川口教会主任
1969年11月~1974年5月   清瀬教会主任
1976年1月~1988年3月     東京カトリック神学院養成協力者
1989年4月~1994年3月     関口教会助任
1994年4月~2002年3月     浅草教会主任
2002年4月~2002年6月        青梅教会小教区管理者
2002年7月~2006年3月        千葉地域協力(千葉寺教会居住)
2006年4月~2012年1月     高円寺教会協力
2012年2月~2017年11月      ペトロの家居住
2017年11月           介護施設に転居
2024年4月11日        帰天

東京・ケルン姉妹教会関係70周年記念訪問

今年2024年は、東京大司教区とケルン大司教区が1954年に姉妹教会の関係を結んでから70年の記念の年となっている。これまでの友情への感謝と、これからの両教区の関係のさらなる発展のため、4月14日から17日の4日間、菊地功大司教、稲川保明神父(関町教会主任司祭)、熊坂直樹神父(八王子・高幡教会助任司祭)が代表団としてケルンを訪問した。この度、その訪問記を菊地大司教、稲川神父そして熊坂神父に寄稿していただいた。

Domradio バルコニーから望む大聖堂

これからも、力を合わせて

菊地 功 大司教

アド・リミナ終了後すぐ、わたしはローマからミュンヘン経由でケルンに飛び、ケルン教区を訪問して参りました。一人で行くのも何ですから、司祭団を代表して、前司教総代理の稲川保明神父様と、若手司祭を代表して熊坂師の二人に同行していただきました。

4月13日の夕方、ヴェルキ枢機卿様や、一昨年東京にも来られた司教総代理のアスマン師たちと共に、夕食を一緒にし、その翌日はケルン大聖堂で10時のミサを一緒にしました。カテドラル参事会の司祭団や、大聖堂の聖歌隊も参加して、荘厳なミサを捧げていただきました。

またこの日曜の午後にはデュッセルドルフを訪問し、聖フランシスコ・ザビエル教会で、定期的に集まっている日本人会の皆さんと、日本語のミサを捧げました。イエスのカリタス会のシスター方の修道院が隣接しています。

さらに月曜日にはケルンとボンの間にあるブリュールという町にある聖ウルスラ高校というカトリック学校を訪問しました。もともとはウルスラ会が経営していた学校でしたが、現在は教区の運営に代わっているとのこと。東京のカトリック学校とのパートナーシップ関係を期待している学校です。10年生のみなさんに、学校の紹介と、日本についていろいろと質問をいただきました。

東京とケルンのパートナーシップは、二つの教区の関係にとどまってはいません。25周年を記念して始まったミャンマーの教会支援は、いまも続いていますし、今後も、東京とケルンとでできる限りの力を合わせ、ミャンマーの教会を支援し続けたいと思います。

この二つの教区の関係を始められた当時のケルン大司教、フリングス枢機卿の言葉を、今一度心に刻みたいと思います。

「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません。」

ケルン教区長墓所にて。左から稲川神父、アスマン総代理、菊地大司教、ヴェルキ枢機卿、熊坂神父 ©ケルン大司教区 Tomasett

アルテンベルクを訪れて

稲川 保明神父

1954年7月にフリングス枢機卿が土井大司教に贈った一通の書簡から始まったケルン大司教区と東京大司教区の兄弟姉妹的な友好関係が今年70年を迎え、東京カテドラル大聖堂で行われた1月28日のケルンデーのミサにおいて、現教区長ヴェルキ枢機卿のメッセージが発表されました。その答礼として4月14日、菊地大司教様はケルン大聖堂を訪れ、ヴェルキ枢機卿様と共に友好70周年を祝う記念ミサを捧げられました。このミサのために東京教区を代表して、私と若手司祭の熊坂直樹師が菊地大司教様に同行しました。

4月12日、ウクライナでの戦争の影響で、ロシア領土上空を飛行できないため、北極圏を飛び、日付が変わる深夜にようやくケルンに到着しました。菊地大司教様はアド・リミナを終えて夕刻ケルン入りする予定でしたので、翌日の13日は私と熊坂師の2人で、ケルン郊外ベルギッシェスラントにあるアルテンベルクを訪問しました。アルテンベルクの大聖堂の主任司祭トビアス師と会い、この大聖堂の歴史や「アルテンベルクの光」についてお話を伺いました。

この小さな町にあるアルテンベルク大聖堂はケルン教区の第2のカテドラルと呼ばれるほど信仰・霊性・歴史・環境などで特色のある聖堂でした。この聖堂の周囲には住宅やいわゆる商業施設などの建物が一切なく、小さな渓谷に囲まれた森と丘、小川という自然の中に聖堂と旧修道院を改装した宿泊設備だけが建っているのです。 1133年にこの地にシトー会の修道院が建てられ、1259年から1379年まで現在も残るゴシック様式の大聖堂が建設され、のちにこの地域の司教座聖堂となりました。この大聖堂は豊かな自然に囲まれていたため、いわばケルン教区の黙想のための場所として、週末の休みの日、夏などの休みの日々に祈りのために大勢の人々、特に若者たちが集まる場所となりました。

1922年にケルン教区はこの地を青少年活動の中心地と定めました。その時期に始まった青少年を戦争に駆り立てようするナチズムによるヒトラーユーゲント(肉体の鍛練、準軍事訓練、祖国愛が、民族共同体の一員である青少年に集団活動を通じて教え込まれ、人種差別を含むナチスのイデオロギーを教え込まれた)の脅威に対して、ケルン教区は抵抗したのです。

そして第二次世界大戦の傷がまだ癒えていなかった1950年にヨーロッパの和解と平和を願うカトリックの若者たちが復活ローソクの光の元に集まり、祈り、その光を分け、さらにドイツの東西南北の国境まで、光を届けるという活動を始めました。「アルテンベルクの光」と呼ばれる平和と和解を求める運動が若者たちによって始められ、それはまもなくヨーロッパ全体のテーマとなって広がってゆきました。

1960年代後半になると第二バチカン公会議の典礼刷新や学生運動の台頭により、一時、この運動も休止されましたが、1980年に再開され、参加者は年々増えて行き、現在は毎年、5月1日にアルテンベルク大聖堂にドイツ全土から2千~3千人の若者が集まり、祈り、光のリレーを行います。1987年にはヨハネ・パウロ2世が司式するエディット・シュタインの列福式のミサの会場にこの光が届けられ、ミサ後に教皇により光は祝福されて送り出されました。この光はアウシュビッツ(コルベ師の殉教の地)にもコソボのような紛争の地にも、そして2002年にはキリストの生誕の地、ベトレヘムにも届けられました。この地に、今年の5月1日に日本から初めて15人の日本の青少年が参加する予定となっており、アルテンベルクからの光が日本にも届くことでしょう。こうして有意義な第1日目が終わりました。

アルテンベルクでのミサ、ベネディクト16世(黄)とマイスナー枢機卿(白)着用のカズラを身につけて

アルテンベルク聖堂のステンドグラス

ミサを祝う精神が息づく教会

熊坂 直樹神父

今回、若手司祭としてケルン訪問団に加えられたことに、私は二つの点で不思議な巡り合わせを感じていました。一つ目は、ケルン教区からの支援で創立・献堂された関町教会で受洗した私が、信者・司祭になったことは、両教区の友好関係の賜物だという点です。二つ目は、2022年に来日したケルン教区代表団が神学院を訪問した際、当時そこにいた私も彼らと出合っていたという点です。実際に「あの時の神学生が、今は神父になった」と報告を兼ねて挨拶できました。

さて、稲川師の報告にあるアルテンベルクからケルンに戻ると、ローマでのアド・リミナを終えられた菊地大司教と合流し、3人揃った訪問団は、ライン河畔のレストランにて、ヴェルキ枢機卿らとの夕食の席に着きました。その日は初夏のような陽気で、屋外の席は大変賑わっていましたが、案内された部屋は非常に静かで、両教区長をはじめ、一同は互いの言葉にじっくりと耳を傾けられました。

その和やかな雰囲気に後押しされ、私は信者になった経緯により個人としても恩義を受けていることをヴェルキ枢機卿に伝え、両教区の友好関係に対する謝意を表明しました。また、現・関町教会主任司祭である稲川師は、1957年にフリングス枢機卿の司式により初代聖堂が献堂されたことなど、さらに詳しい関町教会の歴史をお話しされました。これらの話を受けてヴェルキ枢機卿は、両教区の友好関係がもたらした具体的な実りについて、心に深く留められたようです。

翌日は、今回の訪問のハイライトとなるケルン大聖堂での荘厳なミサがありました。開祭の挨拶でヴェルキ枢機卿は、菊地大司教と二人の東京教区司祭とともに友好関係の70周年を記念することを述べただけでなく、前の晩にお伝えした私の召命の話についても言及してくださいました。その後ミサは、当然ドイツ語で行われたのですが、私の隣に座った司教総代理のアスマン師が、適宜サポートしてくださったので、私も名ばかりでない共同司式者として、ミサを祝うことができました。

こうした温かな配慮からは、互いの記憶や物語を分かち合い、ともに記念しようとする姿勢が感じられました。それは、キリストの記憶を思い起こし記念するという、ミサを祝う精神そのものでした。さらに、その精神はミサ後も続き、私たちは大聖堂地下にある歴代教区長の墓所に案内されました。その場所で私たちは、土井辰雄枢機卿とともに両教区の友好関係を開始したフリングス枢機卿や、白柳誠一枢機卿とともに25周年を機にミャンマーの教会への支援へと関係を発展させたヘフナー枢機卿などの墓所に敬意をこめて聖水を灌水しながら、両教区が積み重ねてきた歴史に思いを馳せました。

その日の午後にはデュッセルドルフに移動し、現地でご活躍のイエスのカリタス会のシスター方や日本人共同体の皆さんと、ミサを行いました。そこでは、先ごろ初聖体を終えたばかりの少年が侍者の一人として奉仕してくれたり、ミサ後に歓迎会を開いてくれたりなど、信仰共同体が現地に息づいている様子を目の当たりにしました。その翌日は、カトリック学校を訪問し、教職員や生徒たちと交流しました。よく準備されたプレゼンテーション、ハッとさせられる質問など、生徒たちの積極的な姿勢に一同感銘を受けました。

今回の訪問は日数こそ短かったものの、両教区の友好関係の記憶を、また一つ刻むものになったと思われます。実際、今回お会いした人々は、これまでの歴史を思い起こしつつ、その文脈で今の時代を見つめ、敬意をもって互いに響き合いながら、将来の展望を見いだそうとする方々ばかりでした。ミサを祝う精神が人との関わり方に息づいているケルン教区の皆さんに感化されて帰国しましたが、その影響はこれからも続いていきそうです。

アルテンベルクにて。クレルヴォ―のベルナルドとマルティン・ルターの肩を抱くキリスト

この度のケルン訪問はケルン教区が発行している「ケルン大司教区新聞」2024年4月17日号にも掲載された。ケルン大司教区の許可の下、その記事の日本語訳を東京教区の皆様にも紹介する。

「協力の道を歩み続ける」

東京大司教、ケルン大司教区との70年のパートナーシップを称える タルチシオ・菊地功大司教は、ケルン大司教区との70年にわたるパートナーシップを「困難な時代における励ましのしるし」であり、人の目線の高さでの祈りと支援の共同体であると述べた。復活祭の第3日曜日、ライナー・マリア・ヴェルキ枢機卿は、ヨゼフ・フリングス枢機卿とペトロ土井辰雄大司によって1954年に設立された両大司教区の友好関係を称え、ケルン大聖堂でミサを捧げた。

神言修道会に所属する菊地大司教は、教会新聞の編集者とのインタビューで、第二次世界大戦の惨禍の後、このパートナーシップがその初期段階において東京司教区で大きな成果を上げたことの重要性を強調した。日本の経済が好転し、このような支援が必要なくなったとき、パートナーシップから25年を経た両教区は、ミャンマーの教会への共同支援を開始することを決定した。内戦と貧困の影響を受けているこの国を支援する直近のプロジェクトのひとつは神学校の建設だった。

菊地大司教は、ケルン大司教区とのパートナーシップをさらに拡大することに賛成している。「私たちは互いに支え合い、共に祈り、共に道を歩んでいます」と大司教は言う。このことは、両大司教区が共に参加し、共通の立場で議論しているシノドスのプロセスにおいて特によく表れている。例えば、東京のカトリック学校とブリュールの聖ウルスラ学院高校との協力関係である。菊地大司教が視察後に報告したように、生徒たちの日本文化への関心は高い。2人の教師が、この学校のパートナーシップを深めるために、教区の青年聖職者部門と協力している。「コミュニケーションと協力の道をさらに進むべきだと思います」と菊地大司教は言う。

東京大司教は、昨年任命された、世界160カ国以上の国のカリタス組織からなる国際カリタスの総裁としての役割を、とりわけ困難なものだと語る。「世界には対立や紛争があまりにも多すぎます」と菊地大司教は言う。単純な解決策はない。しかし、相互支援と緊密なネットワーク作りによって、カトリック教会が支援する機会があると彼は考えている。アフリカやアジアでは、小規模なカリタスの組織がドイツ、アメリカ、フランスなどからの援助によって特別に支えられている。国際カリタス総裁である大司教は、「これは資金面だけでなく、専門スタッフや養成の面でも重要です」と説明する。彼はまた、この援助を奨励し、調整することも自分の仕事だと考えている。菊地大司教が事務局長を務めるアジアの司教協議会は、この連帯の模範となるだろう。すなわち、多様性だけでなく、「多様性における一致 」は、政治的・経済的問題を克服できるよう、カトリック教会が大陸を越えて提供できる証しなのだ。

ヘニング・スクーン、ケルン大司教区の教会新聞編集者
(翻訳:カトリック東京大司教区広報)

アルテンベルクにて。ムスリム、ユダヤ、クリスチャンの和解のしるし

CTIC カトリック東京国際センター通信 第277号

晴天の霹靂
在留資格のない親のもとに生まれたため、日本で教育を受け、日本語しか話せないにもかかわらず、強制送還の対象になっている子どもたちがいます。どんなに成績が優秀でも、スポーツができても、在留資格を得ることができない限りは就労が許可されないため、卒業後の生活を思い描くことができず、将来を語り合う同級生の輪には入れません。それどころか、ある日、言葉のわからない親の生まれた国に強制送還されるかもしれないという恐怖を、友達にも打ち明けられずに抱えています。

CTICでは長年にわたり、修道会、信徒の皆さまの協力を得て、そんな子どもたちの生活や学びの機会を支えてきました。岡田大司教様、菊地大司教様は「この子どもたちの健やかな成長と未来のために在留資格を付与してください」と法務大臣宛の「上申書」を何度も書いてくださいました。しかし、事態は変わらないまま時間が過ぎていました。

昨年8月、そんな私たちのもとに驚くべきニュースが舞い込んできました。法務大臣が「今回に限り」と前置きしながらも、「日本で生まれながら強制退去処分となっている子どものうち、改正入管難民法の施行時(昨年6月の公布から1年以内)までに小中高で学んでいる子どもを対象に、一定の条件を満たせば、家族とともに『在留特別許可』を与え、滞在を認める(ビザを与える)」と発表したのです。

発表から現在までに、CTIC関係者17人にビザが付与され、4人にも間もなく付与される見込みです。彼らは皆、口を揃えて「これまでありがとう。いつか恩返しをします」と語っています。これまで彼らを支えてくださった皆様に心から感謝申し上げます。

朝三暮四
先行きが真っ暗だった家族に未来が開けたことは大きな喜びなのですが、喜んでばかりはいられない問題があります。 何より問題なのは、今回の在留特別許可が、「子どもの人権尊重」を基盤に進められた議論の結果ではなく、「難民認定申請3回目以降の人については強制送還できる」という法改正の議論の中で出てきたものだということです。まず200~300人の子どもとその家族に在留特別許可を与え、改正入管難民法施行後に多くの難民申請者や非正規滞在者が送還されるようになるとしたら、とても喜んではいられません。

次に今回の措置が「今回限り」と強調されていることです。つまり「将来的に同じような子どもが存在するようになったとしても、今回のような措置は行わない」と宣言している点です。

そして、今回の在留特別許可から「不法入国の親」が除外されているということも暗い影を落としています。この15年間、入管は不法入国の親に対して「親が帰国すれば子どもにビザを与える」と親の帰国を強く求めてきました。今、ビザをもらった子どもたちは、自分たちのビザと引き換えに親が強制送還され、難病を患っている親が医療の十分でない国籍国で治療できなくなること、幼い妹や弟が親と会えなくなること、祖国で親が迫害されることをとても恐れています。

神の似姿としてつくられた一人ひとりの人間の尊厳が守られる社会となるため、カトリック教会は常に思慮深く毅然と働き続けることを求められています。

相談員 大迫こずえ

東京で暮らすミャンマー出身の家族。子どもの健やかな成長を願う気持ちは世界共通(写真は本文の内容と関係ありません)

 

カリタスの家だより 連載 第162回

子どもの家エランの庭から春便り

子どもの家エラン 村田あや

子どもの家エランは、児童発達支援事業という、発達に遅れやでこぼこのあるお子さんとその保護者の方たちの支援をしています。杉並区荻窪の閑静な住宅地の一角にある、けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会の修道院だった建物を譲り受けて、2017年10月に誕生しました。多くの方々に見守られながら、無事に7年が過ぎ、今年8年目を迎えようとしています。

子どもの家エランでは、3月末に成長を祝う会を行い、通所クラス5人、通園クラス5人の卒園児を無事に見送りました。

最終登園日の3月29日には、お別れ遠足で井の頭公園に行く予定でしたが、あいにくの天気で雨に加え台風並みの強風のため中止になってしまいました。予定を変更し、エランでの通常療育となったのですが、エランの庭では大嵐の中、小学校への期待と不安がいっぱいの子どもたちの門出をお祝いするかのようにチューリップがきれいに咲いていました。チューリップは、庭のお手入れをしてくださる金曜日のボランティアさんたちが準備してくださり、子どもたちと植えたものです。球根から葉が伸びたと思ったら大きな蕾ができ、背が高く伸びないまま花が咲くという不思議な形のチューリップでしたが、きれいに花が咲いたあとにぐんぐんと背が伸び、毎日違う姿を見せてくれていました。写真は、大嵐の後に嘘のように晴れた3月29日の午後のチューリップの様子です。雨上がり、色とりどりの花がとても綺麗でした。

チューリップの隣には、小さな実をつけ始めた苺の苗があり、子ども達は赤く染まった大きな実ができるのを楽しみにしています。だんだんと色づいていくかわいらしい様子を見るのが、私にとっても密かな楽しみです。

4月には、新たに6人のお子さんを迎え、にぎやかに新年度をスタートしました。初めてのエランに緊張気味の新入園児さんたちの中で、在園の進級した子どもたちは何だか頼もしく見えます。チューリップの花は、その後もぐんぐん背を伸ばし、スラリとした姿で新年度もまた違った様子を見せてくれていました。 庭には新たにボランティアさんたちが、庭をぐるっと回ることができる小道を作ってくださる予定です。子どもたちは、小道ができる予定の場所に準備のためにつけたテープの道をすでに大喜びで走っています。小道が完成する前から、こんなに大喜びしていますので、完成したらどんなに喜ぶだろうと、私も完成を楽しみに一緒にわくわくしています。

季節の花や野菜だけでなく、子どもたちのために様々なアイディアを出してご尽力くださるボランティアさんたちには、感謝の気持ちでいっぱいです。今年も夏野菜に朝顔や向日葵、秋の芋掘りなど、エランの庭からたくさんの季節のお便りを受け取ることを楽しみにしています。

小道が完成し、よりパワーアップするエランの庭!お近くにお越しの際はぜひご覧ください。

今年度も子どもの家エランをどうぞよろしくお願いいたします。 

福島の地からカリタス南相馬 第31回

一般社団法人カリタス南相馬 所長 

根本 摩利

能登の被災地の復興を願って 1月1日の能登半島地震発生に伴い「カリタスのとサポートセンター」が開設され、今カリタス南相馬としてできることを検討し、常勤スタッフ2人を派遣することが決まりました。発災直後に石川県に支援に入っていたカトリック中央協議会のERST(緊急対応支援チーム)の応援スタッフとしてカリタス南相馬のスタッフ2人が1月下旬から3月末までの間、1週間交替で能登支援の活動に参加しました。

まずは、幸田司教様と共に羽咋(はくい)教会に開設予定のボランティアベース用に南相馬から布団5セットをお届けしました。その後、必要に応じて500ℓの水タンク、布団セット、現地で使用する車(南相馬で長年活躍していた聖心会の車)などもお届けすることができました。

水支援や炊き出し(じんのび食堂)の際、住民の方から「雨水や雪をバケツに溜めて生活用水にした」「給水所に何度も足を運んでやっと洗濯用の水を貯めることができた」などと聞くと、ご高齢で給水所に足を運べない方や車のない方に生活用水をお届けするという活動の大切さを痛感しました。また、じんのび食堂(じんのびは、のんびりという意味の方言)では、「地震で老人会も開かれなくなってみんなに会う機会がなくなったから、こうしてみんなに会えるのが楽しみなの」と毎回楽しみに参加くださる方もおられ、被災された住民の方との「つながり」の大切さと「集う場作り」の大切さを強く感じました。

徐々に水道も復旧し、必要な支援活動も変化していますが、能登半島北部の被害は思った以上に甚大で、地理的な要因も加わって復旧は年単位になると思われます。羽咋ベースと七尾ベースでボランティアの宿泊受け入れが始まっておりますので、可能な方はカリタスのとサポートセンターのブログもしくはFacebookで詳細をご確認の上、ぜひご参加いただければと思います。カリタス南相馬としても今後も必要な支援を継続していきたいと思っています。

能登で被災された方々が、1日も早く日常を取り戻すことができることを心からお祈りいたします。

カリタス東京通信 第14回

わたしたちの心は燃えていたではないか

事務局 田所 功

昨年9月3日カリタス東京が開催した、「東京教区内生活困窮者直接支援団体・グループ交流会」には15団体31人が集まった。そこに千葉県の小教区からの参加した信徒から「私たちは2019年の教皇フランシスコ訪日の後、教会で何かやろうと話し合って生活困窮者支援グループを立ち上げました」との発言があった。私はその時「はっ」とした。「自分は、教皇が訪日した際日本の信者に語りかけた呼びかけに応えて生きてるだろうか」と思ったからだ。

2019年11月「すべてのいのちを守るため」をテーマに掲げ教皇フランシスコが訪日された。当時私はカリタスジャパンで働いていたので「教皇と東日本大震災被災者との集い」の企画運営に携わった。東京でのさまざまな行事、とりわけ東京ドームでのミサに参加された方も多かったのではないだろうか。教皇はミサの説教の中で「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」と話された。そして日本の信者たちに「すべてのいのちを守るために働くように」との呼びかけを残して帰国された。「あの時わたしたちの心は燃えていたではないか。」

しかし、残念なことに教皇訪日から数カ月後に、私たちは新型コロナの現実に直面することになる。ミサへの参加義務も免除される事態となり、対面での教会活動はほとんど停止に追い込まれてしまった。悪夢のような3年間。その間コロナの影響で収入が減少したり仕事を失ったりする人が増えた。特に、契約社員やフリーターとして働く人に影響が大きかった。また近年の物価高も人々の生活を直撃している。日々の食べ物への出費を削って生活せざるを得ない人が増えている。炊き出しや食糧支援に集まる人の中に、若い人、女性、外国人が増えてきている。家賃が払えなくなり住む家を手放さなければならなくなった人も増えている。シエルター(一時避難のための宿泊場所)を運営している団体では、いつも満室の状態で新規の受け入れが難しい状態が続いている。日本全体に「視えない貧困」が拡がっているように思われる。そのような状態の中にあって、いくつかの団体・グループが「野戦病院」となり、新たに支援活動を立ち上げているのも事実だ。最初に紹介した千葉県の小教区のグループのように。

あれから4年半の歳月が流れたが、あの時の教皇の呼びかけ「すべてのいのちを守るために働くように」をもう一度思い起こそう。そして、呼びかけに応えて、個人としてまたはグループで何ができるか考えよう、そして行動しよう。「あの時わたしたちの心は燃えていたではないか。」

編集後記

会えない時間は不信と疑いを生む。心が闇に支配されてしまう。

だったら会いにいけばいい。大切な人に。そして、聖体に現存する復活のイエスに。

愛はどんなときも不信に打ち勝ち、心に光を取り戻してくれるのだから。(Y)