お知らせ

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東京教区ニュース第114号

1994年07月01日

教区長司牧書簡『司祭不在の主日における信徒による集会祭儀』と『信徒による聖体授与』1994.5.22

東京教区の信徒、修道者、司祭の皆様へ

本日は現在の、またこれからの教会において、信徒の方々に託される重要な務めについて簡単にお話ししたいと思います。

今日、教会は司祭の不足について切実な悩みに直面しております。役務としての司祭職にとって本来の、また最も重要な務めは、主日にミサ(聖体祭儀)を司式することです。

しかし、現在の状況のもとでは、信徒の方々に洗礼と堅信の秘跡によって与えられた使命を信仰による自覚のもとに、積極的に果たしていただきたいと思います。

すなわち、司祭不在のときに、主日の集会祭儀を執り行うこと、及び病人、高齢者のもとに聖体を運ぶことです。

しかしながら、信徒に委ねられたこれらの任務は、その人々にとって名誉であるというようなことではなく、教会から託された使命であるという自覚のもとに実行されねばならず、何よりも先ず、主任司祭の指導のもとで行われ、信仰を共にする兄弟姉妹への謙虚な奉仕でなければなりません。

止むを得ぬ状況のもと、司祭、助祭が不在のとき、主日の集会祭儀を司会し、聖体を分配する信徒の必要性が、今後ますます多くなると思います。勿論、主任司祭や教会委員の皆様には、主任司祭の代わりにミサをささげてくださる司祭を探し手配するよう、出来る限り努めていただきたいと思いますが、それも難しいときには、主任司祭を中心にして皆様で相談し、ふさわしい方を選んでいただきたいと思います。

しかし、その務めは恒常的なものではなく、一定期間に限定されるものであることにご注意ください。またさらにしばしば必要とされ、すでに実施されてもいる信徒による病者や高齢者への聖体授与、ミサ中の参加者への聖体授与について皆さんのご理解とご協力をお願いいたします。この場合も、聖体を授与するのは、通常は司祭、助祭ですが、公式に任命された教会奉仕者、あるいは必要に応じて主任司祭から委任された信徒は、常に主任司祭の指導のもとで奉仕に従事していただきます。

またこのような奉仕がふさわしい愛と信仰、そして威厳をもって行えるよう、東京教区においても司祭評議会、典礼委員会とはかりながら、そのための養成を推進していきたいと考えております。

聖体の秘跡は、信仰者の力であり、支えであります。皆さんが、この教会の姿をもっともあらわにする聖体の秘跡を更に大切にし、神の民としてみ国の証しのために励まれることを期待いたします。

皆さんの上に神の導きと祝福を祈りつつ。

1994年5月22日聖霊降臨の日
東京大司教 白柳誠一

解説 司牧書簡が出された背景

東京教区においては、現在のところ主日のミサを恒常的に行うことが困難な小教区がたくさんあるという状況ではありませんが、将来のことを考えるとき、従来の姿勢では、司祭の不足や老齢化に対する解決が見出されません。

司祭召命の促進は教会にとって常に心がけなければならない使命のひとつですが、今日の教会において、宣教、司牧について司祭と信徒の協力ということが積極的に推進されるべき時代であります。

東京教区の現状においては、「主日における信徒による集会祭儀」と「信徒による聖体授与」について、基本的な考え方を明確にしておくことが望ましいということから、今回の司牧書簡が発表されました。

典礼省の指針とともに

この書簡とともに留意すべき文書として、聖座が1988年6月2日に発表した「司祭不在のときの主日の集会祭儀指針」があります。

その指針は、主日のミサの重要性について繰り返し強調しながら、それが司祭の不在のために行い得ない状況にある地域のために、次のような解決を提唱しています。

まず近隣の教会に行くことを検討するように勧めています(18項)。

次に、ミサが行われなくとも聖書と教会の祈願を主としたことばの祭儀とともに聖体の拝領を行うことを勧めています(19〜20項)。

しかし、これらの集会祭儀は補助的性格を持つものであって、便利への譲歩であってはならないことも明記しています(21項)。

それゆえ、この書簡においても主日のミサについては、可能な限りまず司祭を探すように強く勧められています(25項)。幸いなことに東京教区内には、427名の司祭が在住しています
(1993年統計より)。

また、指針の規定によれば、この集会祭儀を定期的に行う場合には、司祭評議会の意見を徴ちょうした上で、教区長が決定し、そのための一般規則と個別の規則を定めることになっています(24項)。
現在のところ、東京教区内の小教区で定期的にこのような集会祭儀が必要という小教区はありませんが、特別な場合、どうしても代わりの司祭が見出せない場合には、必ず教区長と協議の上、その小教区の主任司祭と教会委員会はこのような集会祭儀を行うことについて配慮することも可能なのです。

信徒による聖体授与

この奉仕は、ミサ中において司祭とともに聖体の授与について奉仕するという場合とミサ以外の聖体授与の奉仕という2通りの場合が考えられます。そして、この奉仕は今日の東京教区においては、大いに可能性があることです。

但し、ミサ中の場合は、他の司祭や助祭が臨席している場合には、まずそれらの奉仕職を受けている人々によって聖体授与は行われるべきであります。

ミサ以外の聖体授与の奉仕ということに関しては、例えば入院、自宅で療養しておられる病人の方々、高齢やその他の事情から主日のミサにあずかることが困難な状況の人々へ、兄弟的な奉仕としてこれを行うことが可能です。

そのためには、聖体を授与する人と聖体をそれらの人々を通して拝領する人々との両者の理解が必要であり、恒常的に聖体授与の奉仕を行う場合、書簡が強調しているように、ふさわしい準備と公式の任命が必要であります。

教区総会を受けて プロジェクト案のたたき台づくりを始める

3月の東京教区総会は、家庭をテーマに、祈る、学ぶ、分かち合う、助け合うを4つの柱に、具体的な案を検討するために話し合い、そのまとめを事務局に提出した。

ナイス事務局はこれを整理し、それをもとに田中隆弘師を中心としたチームが本格的なプロジェクトに仕上げていくことになった。

いずれ、そのまとめをたたき台として宣教司牧評議会や小教区に提示し、さらに意見を集め、最終的にまとめていく予定である。

中国天主教会巡礼の旅(1)藤岡和滋神父の報告

4月25日から5月7日まで、白柳大司教を団長とする中国天主教会巡礼の旅に参加しました。

中国は共産党独裁の政府の下でその教会活動は強い制約を受けています。バチカンとの交流は禁じられ、政府の意向に沿う形においてのみ、その活動が許されています(愛国教会という組織が作られ、常に監視下にある)。

このような閉鎖状態から少しでも門戸を開かせようと、香港の教会からの要請に応えて、白柳大司教が巡礼団を組織し公式訪問を始めて今回で6回目となったのでした。

これまでの5回の巡礼で数多くの都市、教区を訪れたのですが、今回は上海を起点として、四川省(万県)・湖南省(岳陥長紗)・江西省(南昌)・広東省(広州)そして香港・マカオの教会を訪ねる旅でした。
私自身、第3回、第4回と今回の第6回、そして個人的に3回計6回の中国教会訪問の旅となったのでした。

今回の一行は、香港のピーター神父を加えて司祭6名、ブラザー2名、シスター2名、信徒20名の計30名で、その国籍も日本、アメリカ、アイルランド、イタリア、ネパール、中国の多岐にわたるインターナショナルなグループでした。

上海到着後、直ちにバスで約1時間程のところにある余山大聖堂を訪ねました。小高い丘の上にそそり立つ大聖堂、そこは周辺の信徒にとっても巡礼所として名高い所でもあり、またその麓には上海地区の神学校もある所です。

私たちの訪れた時も、隣の淅江省の信徒の巡礼団が到着し、隊列を組んで大聖堂へと上って行くのに出会いました。大聖堂を訪問した後、神学校を訪ねました。

これまでの巡礼でも、この神学校訪問は私どもにとっても、また神学生たちにとっても大きな喜びの一つとなっています。

後に訪れた万県の教会で、3年前北京の神学校を訪れた時に神学生として在学し、今は叙階されその地で働いている若い司祭が当時の訪問の事を覚えていると話してくれた事は印象的でした。

上海の神学校は、北京の神学校と並んで、中国でも指導的な神学校で、上海教区のみならず、隣接の数教区からの神学生もそこで学んでいるとのことでした。

正確な数は忘れましたが、50名以上の神学生が私たちを歓迎してくれました。

この神学校は、公会議以後の教会の典礼、また知識について積極的に香港その他から教授を招き、また司祭、神学生を留学させたり、アメリカから3万冊に及ぶ図書を受け入れる等、活発な働きをしているとのことで、そこを巣立つ司祭たちの活躍を強く期待しました。

翌日、上海の司教座聖堂を訪れミサを捧げた後、司教との会見があり、現在の上海教区の状況についていろいろとお聞きしました。

その中で注目される事は、最近、教区立の印刷所を持ち、教会用の多数の新しい出版物を発行しているとのことでした。今までこのような書物は不足し、また持ち込みが禁止され、細々と秘密裏に香港などから手に入れていたのが、今や公然と印刷・出版できるようになったということは、数年前に比べて大きな前進といえると思われました。

この後、この印刷所を訪問し、ヨーロッパ製の印刷機が大活躍し、若いシスターたちが明るく働いている現状を見ることができました。また、この旅の終わりに香港を訪ねた際、中国各地の教会に送られる書物の小包が山積みされているのも見ました。

今回の旅は、このように希望の光が差し込むような状態で始まったのでしたが、数日後、通過しただけで訪問することが出来なかった成都にある神学校が閉鎖されたというニュースに接し、まだまだ現実は厳しいと改めて心を引き締めたのでした。

上海を起点として始まったこの旅はいろいろと思いがけないこと、考えさせられることが待ち受けていました。

(次号に続く)

ジュリア祭25周年祝典

日韓巡礼団 5百数十名参加

5月15日、打ち寄せる黒潮に浮かぶ神津島へ、本年25周年を迎えたジュリア祭祝典に参加のため、日韓巡礼団5百数十名一行は、竹芝桟橋より乗船し出帆した。

翌朝6時半、半村村長を始め役場職員、民宿の人々に迎えられ、前浜港で下船、各自民宿へ向かった。
港から見える”ありま”の丘に立つ、16回目の折りに建立された十字架に目を向けると、遠い昔のジュリアが偲ばれる。

年間を通して神津島を訪れる人々に信仰の証人としてのジュリアの名が知られ、キリストの名も知られる。

時代は流れ流れて、現代においてこのような行事を通して神の名を知らせ、救いがすべての人に知られるようにと、愛と平和の働きをしているジュリアに気づかされる。

25周年の今年は、道々角々に「ジュリア祭25周年おめでとう、ようこそ」と日韓の文字入りの旗が目につく。実りあるように村民が協力一致し、歓迎してくださった善意に感謝感激だった。

美しい大自然の下で行われた祝典を喜ばれたであろうジュリア。この地に足を運ばせてくれた神とジュリアに、花束として今日の祝典を捧げたい。25年間続いたジュリア祭は、神の恵みであり、神に従う信仰の道、私たちもジュリアの模範にならって生きることを願いながら、巡礼団は神津島を後にした。

(Sr.小島トモ)

ズームアップ アルンス枢機卿 庭野平和賞を受賞

「長年にわたるブラジル軍事政権時代、声なき人々に代わり、正義と平和を訴え、人権擁護のために戦い、今はまた、ストリートチルドレンのため、家のない貧しい人々、スラムの人々のために働いているアルンス枢機卿に、今年度の平和賞を授与したいと思いました」

5月11日午前10時、新宿のセンチュリーハイアット・ホテルにおいて、庭野平和財団が年に1人、世界平和に貢献した人に授与する第11回庭野平和賞の受賞式で、選考委員が以上のような受賞理由を述べた。

今回の受賞者、ブラジルのサンパウロ大司教であるパウロ・エバリスト・アルンス枢機卿は、受賞式後の講演で、貧しい人々がますます貧しくさせられていく社会の機構を話しながらも、温かい人柄を感じさせた。

最後に「今回いただいた賞金は、家のない人々の家を建てるために使います」という枢機卿の言葉に、出席者一同の熱い拍手がわいた。

なお枢機卿は、来日の多忙な日程をぬって、東京大司教館に白柳誠一大司教を訪ねて旧交を温めた。

割り箸袋の収集にご協力いただいた皆様へ

初夏を迎え、皆様方におかれましては益々ご清栄のことと存じます。

さて、割り箸の袋の収集の件について、ご協力くださいました皆様にご報告申し上げます。

昨年末、私どもが関連している福祉事業体から、割り箸の袋を3万枚収集すると、車椅子1台を得ることができると情報を受け、それを私たちは身近な信徒の方々や修道会の方々に協力を呼びかけました。これを伝え聞いた実に多くの方々が、割り箸袋を届けてくださいました。中には車椅子を送って下さった方もおられました。

ところがこの3月、スポンサーの会社の倒産を伝えられました。私どもは、多くの方々の善意が無に帰してしまうことのないよう、私どもで車椅子を2台購入し、合わせて3台を、皆様の善意のしるしとして、車椅子を必要としておられた慈生会病院に寄贈いたしました。

ここに、ご協力くださいました皆様に感謝申し上げるとともに改めて御礼申し上げ、また、この収集作業が終了いたしましたことをここにご報告申し上げます。

皆様方の上に神様の豊かな祝福を祈りつつ。

1994年6月6日 カトリック東京大司教 白柳 誠一

ある家庭 淳&クリスティン インターナショナルデー分かち合いから

結婚生活の優先順位

私達は、日本人とアメリカ人のカップルです。私達はお互いのことが好きになり結婚したいと思いましたが、お互いの文化、習慣の違いを乗り越えることが出来るだろうかということが、やはり心配になりました。しかし我々の国籍は天国にある。私達の間に神を置くことによって、これらの問題は乗り越えることができるだろう、何か問題が起こったら神の声を聞こうという結論に達し結婚することにいたしました。ですから、我が家の最も重要なおきては神に従うことだと思います。またもう一つ結婚する前に2人で約束したことに、家族を仕事よりも大事にするということがあります。これはまずクリスティンが提案したことですが、私も日本人の仕事に偏りすぎた価値観は、少し軌道修正する必要があると感じておりましたので、その意見に賛成いたしました。

この2つの背景には、私とクリスティン、それぞれの忘れられない思い出があります。今日は、その思い出について分かち合いたいと思います。

淳の思い出…なぜ神を家庭の中心とすべきか

私は幼児洗礼を授かりましたが、10年以上も教会を離れておりました。ところが今から6年前、あるノイローゼの姉を抱えた友人の相談を、佐渡さんというクリスチャンの方に持ちかけたのがきっかけで、神のもとに引き寄せられてしまいました。お訪ねした時は、単に困っている友人を佐渡さんに仲介するだけのつもりでした。しかし、どういう訳かお訪ねしているうちに、自分の悩みを聞いて頂くことになってしまいました。

私はそのとき両親の離婚問題に悩んでおりました。私は父の不義が許せませんでした。私は世間的な価値観や道徳観で父を裁いており、父親と親子の縁を切ろうとさえ思っておりました。しかし、怒りに凝り固まった自分自信が苦しくて仕方ありませんでした。その話しをすると佐渡さんは、それなら是非ダナン神父のミサに来て御覧なさい、あなたも、あなたの御家族も必ず救われますよと勧めてくれました。私は最初あまり気が進みませんでしたが、彼女の確信はいったいどこから来るのだろうかと不思議に思い、ともかく行ってみることにしました。

そして、何週間かしてダナン神父様のミサに行ってみると、不思議なことにミサのテーマは「許し」でした。ミサの中で祭壇の回りに集まり手をつないで、神に祈る場面がありました。そこでダナン神父様は、「もし、今あなたがたに許せない人がいるのなら、その人があなたにしてくれた何か良い事を一つ思い出して、そのことの故に許してあげましょう」とおっしゃいました。そうすると突然私の頭の中に、ひとつの光景が浮かんできました。それは、私の実家の青森県の8戸市の駅のプラットホームで、父親が万歳をしている光景でした。横では、母が恥ずかしいからやめなさいと言いながらもじもじしています。それは何年か前に両親が、私がドイツに留学に出かける時に駅のプラットホームに見送りに来てくれた時の光景でした。私の両親は2人とも公務員で、経済的に特に豊かなわけではありませんでしたが、両親は私の熱意を信じ留学の費用を工面してくれました。父親は愛情表現の下手な人でしたが、この時の万歳は精一杯の愛情表現だったのだと思います。この光景が頭に浮かんだ時、私は一瞬にして、私がいかに父に愛されていたかということを悟りました。また、私が自分が受けた愛情をすっかり忘れて、父を裁こうとしていたことを悔い改めました。そして、仮に父がどのようなことをしても許さなければならないと思いました。

その一瞬のできごとが、私に神の実在を実感させてくれました。神が私のかたくなな心を溶かして下さった。神が、自分ではどうすることもできない怒りから、私を解放して下さった。そんな思いが心に溢れ、私はたくさんの涙を流しました。このことがきっかけとなり、私ばかりでなく、母が、そして妹が心の平安を神から頂き教会に戻りました。そして父との和解が始まりました。

私は人間には不可能に思えるような許しや和解も、神には可能だということをこの時知りました。だから、国際結婚という事で、文化、習慣の違いからくる他の夫婦にはないような問題が出てくるかも知れませんが、その時は神の言葉を聞いて行こうと思っています。

クリスティンの思い出…なぜ仕事よりも家族を優先すべきか

私は、私が17歳の時に父を心臓発作でなくしました。父はまだ39歳の若さでした。私は、父との間に一つのすばらしい思い出があります。それは、私が9歳で堅信を受けた時のことです。父は有能なビジネスマンだったと思いますが、責任あるポストにありましたので出張も多く、この時はちょうどヨーロッパに行っており、堅信式には出席できないことになっておりました。しかし、堅信式の時、突然父が現れ私を驚かせてくれました。父は出張を1日早く切り上げ戻ってきてくれたのでした。私は父がどんなに私のことを愛してくれているかということを知り、本当に嬉しく思いました。

父が亡くなった時、会社は大きなお葬式をしてくれました。何台もの車が連なりパレードをしました。このことで、父が会社のみんなに愛されていたこと、また、有能な社員であったことを知りました。父は有能だったかも知れません。しかし、父が亡くなっても会社は潰れませんでした。誰かが父のポストを受け継ぎ、何事もなかったように会社は成長を続けました。

でも、私にとっては父の代わりはいません。私は父があの堅信式の日に1日早く出張を切り上げて帰ってきてくれて本当によかったと思っています。このことは私の心の中にいつまでも、すばらしい思い出として残っています。もちろん仕事は大事です。しかし職場に代役はいても、家庭には代役がいないということを心に留めて、家族との関わりを大切にして行きたいと思います。

新人リーダーとともに 教会学校リーダー研修会

5月29日、信濃町の真生会館で、東京教区教会学校委員会主催の教会学校リーダー研修会が開催されました。

テーマが「新人リーダーとともに」ということもあり、部屋いっぱいの若い参加者に恵まれました。

プログラムは、
(1)お話の仕方・絵本や紙芝居の読み方
講師 梶谷ミワ氏
(2)リーダーになるとは
講師 門馬邦男神父
(3)青少年の信仰教育について(ナイスの流れに沿って)
講師 森一弘司教

参加出来なかった方たちのため、要点を分かち合ってみたいと思います。

お話の仕方・絵本や紙芝居の読み方 梶谷ミワ氏

話す人の位置が全員に見えることや、聞く側がまぶしくなく人の出入りがわかる場所であること、これは地震などがあったときのことを踏まえての大事なポイントだと思われました。

絵本の与え方については、よい絵本は何年も消えないで来ているし、読み手が絵本の楽しさを知ってから選ぶことや、絵本をしつけの道具になどと考えないことなど、また絵本から劇を作ってみたりして工夫することもたいせつであることを学びました。

最後にエプロン・シアターで「3匹のこぶた」を熱演してくださいました。
お話とともに、先生のかけられたエプロンの中から魔法のように次から次と、こぶたや狼などが出てくるのです。皆、我を忘れて見入りました。

リーダーになるとは 門馬邦男神父

「教会学校のリーダーとして自覚を促すために必要なことは、観察力・判断力・洞察力があることである。反対に、リーダーとして好ましくないのは、実行力のない人・忍耐力のない人・知識力(欲)のない人・柔軟性のない人などである・・」と私たちの取らなければならない姿勢を再認識させられました。

講師の門馬師が指摘したカトリック教会の教会学校のリーダーとして留意すべきことはつぎのようなことでした。

1,子どもに伝える信仰についてよく理解しておくこと。
2,子どもが好きであること。
3,子どもの教育を通して、自分も成長したいと思うこと。
4,子どもの目線で話をすること。
5,自分の得意なことを生かせること(子どもたちはリーダーに感動する)。
6,きちんとしたカリキュラムをつくること。

青少年の信仰教育について 森一弘司教

教え、掟を中心とした信仰のとらえ方から、生きることを中心にした生き方を学ぶこと。

洗礼を受けて教会に来るだけでなく、もっと地域にも目を向けていかなければならない転換が、NICEのキーワードであること。

リーダーは、子どもたちと遊び回ることで神様のことを教えるのは十分と思っていたらだめで、もっと教えなければいけないこと。

人間は非常に弱いものであるから、1人では生きていけないので神は助け手を遣わしてくださったこと。

私たちリーダーは、子どもたちの助け手であること。

人間はよき出会いを求め、よい先生、よい伴侶、よい指導者を得られることは、自分のもっているものを引き出してくれることであり、悪い出会いは傷つけられ破壊されてしまうことである……

など、たくさんの事例をもとにわかりやすく説明してくださいました。

最後に「いかなる場合でも家庭という土台がしっかりしていれば、どんなことでも耐えて乗り越えられていけるものです」とお話になられたのが印象的でした。

(間島道子)

青年ネットワーク事務局だより

第2回 カトリック青年合宿研修会(基礎福音講座)ご案内

大反響! 第1回講座から

○講義を終えて私がいま思うことは、受け取ったのは単なる知識ではない、何かもっと大きな深いものだったということです。(社会人・女性)

○目が覚まされたようです。何につけても僕たちが教会についての様々なことを知ることによって、自分のアイデアと判断が教会の中で自由に生かされてゆくのではないかと思いました。(社会人・男性)

○僕は今まで何しに教会へ行ってるか、何で行ってるかと聞かれても、どう答えていいのか分からなかった。でもこの合宿に来て学んだことを生かして、少しでも皆を信仰の輪の中に招くことが出来たらと思う。(高校生・男性)

○この研修をきっかけに、見事に教会に戻る決心がつきました。(女性)

○きっと明日から会社へ行っても、この4泊5日で深められたと信じて疑わない“真実の出会い”が私の支えとなるであろうと思う。(社会人・女性)

○テーマが日頃の疑問と一致しており興味深かった。(社会人・男性)

○社会で生活している自分と信仰生活を生きる自分との間には、つねにジレンマがつきまとっていた。この研修会に参加して「カトリック教会」の現在と未来の方向性を知るにつれ、そのジレンマを解決する糸口のようなものが見えてきたように思う。(社会人・女性)

「キリスト教って何ですか?」そうたずねられたら、何と答えますか?ふだん教会に来ている青年でもきちんと答えるのは難しいのではないでしょうか。けれども、青年にとってそういう一番基本的で大切なことを学ぶ機会が少ないのは事実です。

「信仰の喜びを知りたい」「教会の本質をわかりやすく、集中的に教えて欲しい」

昨年の反響からもわかるように青年達のそんな要望に答えて、今年度も合宿研修会を企画致しました。

休日をはさんだ4泊5日ですが、平日は研修会場から職場、学校へ出かけ、夜帰って講話を聞くことが可能なプログラムになっています。最後には修了証をお渡し致します。

日常に流され、このままでいいのかなと思っている青年の皆さんに必ず満足して頂ける企画です。どうぞご利用下さい。

講師…森一弘司教、大原猛神父(東京教区)その他交渉中です。
日時:1994年11月19日(土)〜11月23日(祝)
場所:ラ・サール研修所(東京都日野市日野本町3-3-2)
対象:青年男女、高校生から(既婚者もどうぞ)
会費:4泊5日15,000円(日帰り参加も可)
定員:60名
主催:東京教区青少年委員会
事務局:東京教区青年ネットワーク事務局
〒166 東京都杉並区高円寺南2-33-32
カトリック高円寺教会内
東京教区青年ネットワーク事務局
TEL03-3314-6049
FAX03-3314-3982

投稿 広報の集いに参加して

パネリストの方々のお話のなかにヒントがなかったワケではありませんが、「現場」でできる限りの工夫・試行錯誤をくりかえしながら、なおも報われずに日々うなだれている身には、論点のレベルが高すぎていささか物足りなさを感じました。

広報とはいったい何のためにあるのでしょう? 高嶋さんが仰られたとおり、広報・広聴の両面が大切というのは基本ですが、問題は、そのことを意識しているのが、教会内の信徒のなかで広報に携わっている人だけだという点だと思うのです。

「行って福音をのべ伝えなさい」と派遣されたのは広報担当者だけなのでしょうか?「聞く耳」を持たなければならないのは広報担当者だけの使命なのでしょうか? 苦労して教会報を発行しても、読まれているのかどうかさえ分からない。ミサ案内の人が配らなければ手に取りもしない。もちろん、内容や企画の充実や、読ませる工夫など、自分達のより一層の努力が問われるワケでもありますが、そんな信者さんを見ていると、私達が捧げているものは何なのだろう…と、考えてしまうことが度々です。

「初めて教会に来た人や未信者の方が読んでも、何かを読み取ってもらえるような教会報」をモットーに編集している私達は、広報活動は”水やり”だと考えています。今、そこに芽吹くのを見ることができなくても、そこには神様の種がある。どこかに必ずある。だから、たとえもし私達の目が発芽する気配を見つけられなくても、とにかく水をやり続けなければならないのです。どこかに神様が用意している芽を出す大切な種の”時”を、間違って枯らしてしまわないために――。そして、感謝もされず当たり前に根っ子に吸い上げられ、木に生気を与える水こそが広報の務めなのだ(カッコイイじゃないですか!)と、自分たちに言い聞かせ頑張ってきたのですが、最近は、私達が撒いているこの水は酸性雨の水瓶から汲んできたものかしら?…とまで悩んでしまいます。

定期刊行物、冊子類、パンフ等、カトリックのいろいろな団体がさまざまな水を撒いてはいます。しかし、どれも(少なくともうちの教会では)いま一つ響かないのはなぜか。そこで考えたのは、「もしかしたら水を撒く前に、神様の種が発芽しやすいように、根っ子に吸収されやすくするために、土を耕し直すところからやり直さなければならないのかなあ?」ということ。

つまり、教会の信者さんたちに、近隣や社会に証しすること・伝えることの大切さを啓発しようとするよりも先に、まず何よりも先に「私達が何を知っているのか」、弟子達から弟子達に、そして連綿と伝えられてきた「何」を私達が知り、それが「何」を意味しているのかということを意識させるということ。言い換えれば、その自覚の欠如、土台の無さが全ての無関心の元凶なのではないかと思うのです。

「知る・知っている」ということがどんなに大切なことか。
私達がキリストを知らなかったらどうなのだろう?

私達は本当にキリストを知っているのだろうか?

私達は何を知っているのか?―――ということ。

自分たちが「”知る”ことの大切さ」を意識する(させる)ところから始めなければ、伝えることの意味も十分に理解できないのではないかと考える今日この頃です。

「集い」を準備してくださったスタッフの皆様の働きに感謝するとともに、広報に関わる仲間として、これからもどうぞよろしくお願いいたします!

―と、最近めっきり教会報編集に倦怠を感じ萎え切っている自分に無理やり喝を入れながら……。

(匿名希望)

とぴっくす

豪より来日
初代主任司祭(鴨川教会)
創立園長(鴨川聖心幼稚園)

千葉ブロック鴨川教会では、一昨年12月13日に創立40周年記念祭を開催したが、昭和27年に着任した初代主任司祭であり、昭和30年に創立した聖心幼稚園の初代園長でもあったリオ・ベイカー師は、多くの人々との再会を希望しながらも、病気のために、来日を果たす事が出来ないでいた。このほど、4月14日に念願なって来日され、9州など各地から集まった当時のカテキスタや子供たちとの感激的な再会を果たした。17日には、主任司祭久富師との共同司式のもとにグレゴリオ聖歌によるミサは、参加した全ての信徒に小教区の新たな実りを感じさせる1日となった。当時は、嶺岡駐屯地にいた米軍家族に50人ほどの信徒がおり、その寄付によって建てられたボーイスカウトの集会所が現在の園舎の一部となっており、当時の宣教の思い出を、散りゆく桜の木の下で語り合っていた。

(清水裕子)

あなたの信仰があなたを救った(マルコ5・34) ―癒しの旅に同行して―(2)

東京正義と平和委員会は、韓国から元「従軍慰安婦」だったエリザベト崔明順(チェミョンスン)さんを迎えて、4月22日(金)、真生会館で「ハルモニの証言を聴く夕べ」を開きました。(関連東京教区ニュース113号)

ハルモニは、「1960年頃から、部屋の中を服もろくに着ないで尻で這いずり回るようになってしまったのです。

最近になってやっと医者に昔の日本での体験を話すことができました。治療してくれた医師は、私の30数年にわたる不安・脅迫神経症の原因が分かったと言って、それまで薬だけ調合することしかできなかったことを詫び泣き出しました。

このような私をずっと看病してくれたのが、いま韓国で修道女となっている2番目の娘でした。彼女は恐怖で部屋から出られず這いずり回る私に食事をさせてくれながら、いつもいつも神様のことを話してくれました。私の祖父も父もカトリック信者でしたが、母が仏教徒だったので私は心のなかでは神様を信じていたけれど、教会には行っていませんでした。

そして4年ほど前から私は歩けるようになりました。まだ急に不安になったりすることもありますが、服を着て自分でご飯を食べられるようになったのです。

神様の祝福を受けて私は新しい人間に生まれ変わったのです。そして新しい命をくださった主イエスにいつも感謝をささげています。そして主と対話しています。

私は糖尿病なので毎朝、自分でインシュリンを注射しなければなりません。今回も”イエス様、日本に行ったほうがいいでしょうか”と尋ねました。イエス様は何もおっしゃってくれませんが、私は気持ちよく決意しました。

皆さん、一生懸命祈りましょう。神様は必ず解決してくださいます。私は何度も死んだのにこうして新しく生まれることができたのです。」

自分の病気、というより日本の犯罪が原因で精神に異常をきたしてしまった息子さんの診断書を見せるときの涙が、母親としての怒りと切なさを無言で訴えていました。そして明順ハルモニは、「慰安婦にさせられた人たちは今後つぎつぎと死んで行くでしょう。

日本の皆さんは自分たちの親が何をしてきたか知らないと思います。だからまずきちんと教科書に載せて、謝罪と補償をすることが大事です。日本と韓国はとても近い国ですから、わだかまりをなくして行ったり来たりできるように、本当の兄弟のように仲よくしましょう」と話された。

通訳をしてくれた在日の梁澄子(ヤンジンジャ)さんは、自分が従軍慰安婦問題にかかわるようになったことに触れて、次のような話をしてくれました。

「私は民族学校で学んでいたので差別はあまり受けなかったように思います。でも結婚して子どもを育てるようになって、なぜ在日韓国・朝鮮人がいるのかさえ知らない日本人があまりにも多いことに気づきました。そしてこの人たちはほとんどみな善い人たちなのです。こういう何も知らない人たちが作り上げている日本の社会の中で、自分の子を育てていくのが恐いと思うようになりました。

はや戦後も50年です。風化してしまわないように私自身の問題として今後も取り組んでいきたいと思います。」

ハルモニはこの後、大阪の神学院で、また広島の幟町のぼりちょう教会で「証言集会」に臨むために大阪に向かった。

彼女の体調はもちろんだが、戦後、初めて自分の癒しがたい傷を負った大阪・広島の地に立たれることを思うと、今回この集いを準備したものたちは一抹の不安も抱いていた。

しかし、東京に帰られたハルモニはとても元気だった。

「大阪や広島で話せば話すほど不思議に私は元気をいただきました。そして、私の病気が原因で30数年間別居している夫のことを思いました。電話して謝りたいとおもいます」と。

そして本当にその夜「ごめんなさい」と謝りの電話をソウルのハラボジ(おじいさん)にかけたのだった。

小さな思い出になれば幸いと案内した箱根のロープウェーの中で、ハルモニは「私は大阪・広島を訪ねて、本当に病気がなおったことを実感しました。ソウルでは恐くて地下鉄にも乗れなかったのに今は何も恐くありません。これまで見えなかったことが見えるようになりました」と語ってくれた。

祈りの始めと終わりに必ず小さなロザリオに口づけをしていたハルモニは、5月1日に韓国に帰られた。ソウルに夜遅く着いた彼女を迎えに来ていた家族の中に、4半世紀も言葉を交わさなかった夫もいたと、ハルモニからのうれしい電話があった。

しかし、戦争中の日本でのハルモニの悲惨な体験をまだ夫も子どもたちも知らないという。

今回ハルモニをお招きした私たちは、日本の侵略戦争によって被害を受けた多くの人々、とりわけ戦後、自分の性をも呪うように生きてこなければならなかった元「従軍慰安婦」と呼ばれる女性たちに謝罪するとともに、神様の特別の祝福を心から祈りたい。
(完)

(大倉一美神父)

教会・修道院巡り(34) 『クリスト・ロア宣教修道女会』

クリスト・ロア宣教修道女会は、1928年10月28日の『王であるキリストの祝日』に、M・フレデリカ・ジルーによってカナダ・ケベック州ガスペにおいて創立された。クリスト・ロアとは「王であるキリスト」という意味である。

1930年聖座より司教管轄の修道会として認可され、1963年教皇直轄の修道会となった。

宣教を一念とする宣教修道会のゆえに、会憲によってキリスト教徒を対象とする事業を行うことが禁じられている。

会員は『み国が来ますように』をモットーとして宣教地へ派遣されるために養成を受ける。イエスのみ心への崇敬が修道会の内的外的活動の中心となり、会員は聖イグナチオの精神に学び、時と場所に応じて神の国を広めるために生涯を捧げる。

特にキリストをまだ知らない人びとに、イエスのみ心の愛を知らせるため、仕えるキリストに倣って、人びとへの奉仕のうちに言葉をもって、また生き方そのものを通して福音をあかしする。

日本の地には創立5年後の1933年10月、鹿児島県の種子島でハンセン病者の世話をするため、4名の修道女が来日した。

その後鹿児島県の川内センダイ、東京の清瀬、埼玉の浦和・南桜井の各地を経て、1949年12月に現在の東京都保谷市に本部を構えた。戦時中のスプリング工場を買い取り聖堂とした。

日曜日には近所の信者の家族が何組も集まり、共にミサを捧げた。やがてこの共同体は独立し、現在の田無教会となった。

南桜井時代から戦災孤児をあずかっていた聖ヨゼフ・ホームには子供たちが増え、1959年5月、定員111名の施設を新築した。現在の児童数は60名で、2年前に子供たちが家庭の雰囲気を味わえるよう、小グループの、男性職員も交えた新しい形態のホームに作りかえた。

1953年4月には、クリスト・ロア幼稚園を開設し、現在に至っている。

東京教区の他に横浜、大阪、鹿児島、仙台の各教区内に修道院があるが、シスターたちは主として幼稚園、福祉施設、病院で働き、必要に答えて小教区内でも働いている。

1976年、日本人3名が白柳大司教の派遣ミサによって初めて海外に送られ、以後ハイチ、ザイール、コート・ジボアール、韓国などに派遣されている。

本部〒202 保谷市本町4-10-26

全国紙の記事「東京大教区無許可で霊園造成」についての事実経過

5月11日と12日のぜんこくしに、カトリック五日市霊園の増設造成工事が、東京都の許可無く行われ、都市計画法違反として工事の中止を指導されたと報道された。

この報道に多くの信徒の方々が驚き、多くの問い合わせが教区本部にありましたので、ここに事実経過を報告します。

五日市墓地の増設は、平成4年に計画されました。拡張開発面積は、12,326.83㎡(内訳墓域803.16㎡、緑地残留地6、112.06㎡、その他1、411.61㎡)で、設計・管理は有限会社石川設計、施工は株式会社丸吉工業に発注されました。

石川設計が、東京都多摩西部建築指導事務所開発指導課ならびに多摩環境保全事務所自然保護課との折衝を行い、平成5年十月中旬に造成開発に関する東京都の予備審査で了承されました。

ところが石川設計は、工事許可の申請書類を提出せず、正式許可を得ないうちに、教区本部に工頚丁許可が下りたとの報告を行い、平成5年十1月より工事を開始しました。

その後、石川設計は、平成6年3月と4月に相次いで2つの当該事務所から無許可造成と摘発され、工事中止と早急に許可申請の手続きを行うことを指導されました。

時期を同じくして東京教区本部も許可なく工事を行っているので即刻中止せよとの勧告右受けました。この時、教区本部は、当然許可が下りているものと確信していたので、当時近隣から墓地の塀の高さについて苦情があり、低くするべく本体の工事を中止していたこともあって、その工事変更の手続きが遅れて勧告を受けたと思いました。そこで教区本部がその件について石川設計に問いただしたところ、許可申請を怠ったことが明らかになりました。

教区本部と石川設計は、5月11日に東京都多摩西部建築指導事務所ならびに多摩環境保全事務所に出向き、両事務所から聴聞を受けました。

特に多摩環境保全事務所からは、「東京における自然の保護と回復に関する条例」第51条に基づく開発規制、ならびに「みどりのフィンガープラン」の規制を厳守するよう指導されました。

東京教区本部は、東京都からの指摘を厳粛に受け止め、東京都へしかるべき対応を行うとともに、有限会社石川設計に対し今後このようなことが決して起こらぬよう万全の対策をとるよう厳重に注意しました。

五日市墓地造成に関する今回の事件は、石川設計の職務怠慢と依頼主への虚偽の報告に端を発したものですが、東京教区本部も設計監理の石川設計も共に襟を正し、今後とも東京都の行政指導に基づいてこの造成工事を進めていくことを相互に確認しました。

信徒の皆さまをお騒がせした報道記事に関して調査した結果、以上のような事実経過があったことを確認しました。

なお、既存の墓地については、何ら関係はございません。

拘置所で話し相手を求める外国人に助けを〜5月の司祭の月例集会で〜

5月の司祭の月例集会で、司祭たちは韓日外国人の司牧問題について、研修を行った。発題者の中谷師とベルジュローさんほ、外国人労働者が直面しているさまざまな問題点を指摘し、司祭や信徒の理解と協力、援助を訴えた。

訪問グループに参加して B・ベルジェローさんの証言

3年前、松戸教会の一人の婦人から電話がありました。5人のフィリピン人の裁判があるので出席してもらえないかということでした。その時から私の素惰らしい経験が始まりました。

裁判の後、私たちは拘置所に彼らを訪ねました。彼らは私たちを見て大変喜んでくれました。

それから私たちは、1週間に1回、彼らを訪問するようになりました。面会時間は15分でした。

彼らとの面会を通して、彼らの直面している問題が見えてまいりました。

第一に、着るものでした。彼らは夏物しかもっていなかったので、冬は寒さで凍えておりました。私たちはさっそく必要な衣服を集めました。もう1つの問題は、彼らの残された家族とその子供たちのことでした。近隣の教会に呼びかけて援助基金を作りました。

拘置所は厳しいところです。コミュニケーションはありません。暖房もありません。運動は1週間に2回だけです。お風呂は汚く、冬は1週間に2回、夏は3回ときめられております。歯が悪くなったり、薄暗いので目が悪くなったり、運動不足のため体が弱ります。

拘置所ではタガログ語を話せるシスターと一緒でしたから、なんとかなりましたが、小菅になりますと、日本語か英語しか許されません。他の国の言葉は許されないのです。

あるイスラエルの婦人が、小菅の刑務所にいる自分の息子を訪ねたときにも、母国語を話すことが許されず、英語も日本語もできない婦人は、結局、息子の顔を見ているしかなかったということでした。

母親の哀れな気持ちをお察しください。

3年間の訪問で、私には国籍に関係なく、どの囚人もみな誰かの訪問を待っているということがわかりました。彼らは話し相手を必要としています。自分たちを理解し、心配し、支えてくれる人に飢えています。身近なところに身寄りのいない外国人は特にそうです。

私たちのような訪問グループに参加してくださるよう、教会の信徒の皆さまに呼びかけてくださることをお願いいたします。

編集部から

NICE・2後、各地の教会では『答申』や司教団の声明に答えて、活動が展開されつつある。『疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに釆なさい。休ませてあげよう』と言われたイエスの心を心として、家庭が抱えている問題を『共感・共有』し、その家庭を支えていける教会共同体になろうと燃えている。それが福音宣教だと思う。

6月中旬の1週間、お休みを頂いて、初ミサ旅行に行ってきます。それもこの春、叙階の恵みを受けた、全国の7人の新教区司祭が集まっての初ミサ旅行です。この号が出る頃には旅行も終わっているでしょうが、今となっては〝古巣〟の神学校での初ミサは、もしかしたら、今までで一番緊張するミサとなっているかもしれません。なにしろ、すべてバレているのですから……。(熊)

今まで原稿を頼まれたり、掲載していただく身でしたが、今号から編集する側にまわることになりました。

外国人の方の記事を見ると、時代の流れを感じます。社会の変化に見合う紙面作りが求められているのでしょうか…(RIO)