お知らせ

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東京教区ニュース第100号

1993年03月01日

東京教区ニュース100号記念

東京教区ニュースが100号を迎える。3年前広報委員会の一人になって、編集の苦労を身をもって体験し、これまで編集に携わってきた歴代の編集部の方々のご苦労を改めて知り、今あらためて歴代の編集部の方々に敬意を哀したい。

3年前、新たに任命された広報委員たちが、集まって教区ニュースのあり方についてかなり突っ込んだ議論を交わしたことがある。今その時のめもを参考にその議論を紙上に再現してみた。

教区共同体のかなめとして -東京教区ニュースに期待すること-森一弘(補佐司祭)

生身の人間の姿を伝える

A師 教区ニュースといっても、興味をもって読まれるようなものにしなければならないと思う。無味乾燥な官報的な性格は避けたいですね。

Bさん 確かにそうだと思います。私たち一般の信徒にとって何々委員会の議事録や活動報告などには、全く関心がもてませんからね……

C氏 でも委員会だって一生懸命やっているんですから、そうした活動について記事を載せることは必要でしょう。

A師 記事の載せ方、活動の紹介の仕方に工夫があればよいのではないかなあ。どんな狙いがあったのか、どんな苦労をしたか、参加者の反応はどうであったかなどなど、そこに生身の人間の姿が表現されていれば、共感できるでしょう。何が行われたか、という報告記事だけならば、つまらないですからね。

シスターD 教区の一員として、一生懸命努力している人々の姿を生きた形で伝えれば確かに読者の心に響いていきますね。

Bさん 委員会やいろいろなグループの活動報告というならば、私たちからは遠い存在ですが、そこに生きた心が伝わってくれば、身近になりますから、そういう記事なら私たちにもぷらすになります。

教区長の指針を載せる

C氏 教区報ですから、東京教区という大きな船の舵とりをしている大司教さまの方針とか姿勢とかを伝えることば必要です。教区報の第一の役割はそこにあると思います。

F氏 企業の社報などでは社長の顔写真を一面にもってくると読み捨てられるといわれますが・・・・

C氏 それは工夫すればよいでしょう。最近のスポーツ紙が、一面と最終面をからーにしどちからからでも読めるようにしていると同じようにすればよいでしょう。

Bさん 生きた大司教さまの声を伝えるように工夫すればよいでしょう。大司教さまはいろんな教会におでかけになりますよね。大司教さまがお話しなさることを録音し、それを紙面に載せるようにしたらと…。大司教さまの肉声を聴くことのできない人たちが沢山いるのですから。

E師 それは重要なことですよね。複雑な社会の中で信仰生活や教会のあり方が多様化していきますから、教区長の姿勢が明確に伝えられることは大切なことですね。それに文字通り従うかどうかば別の問題としても、司祭にとっても助かりますね。

A師 そりゃそうですよ。司祭にとっては助かりますよ。説教の代わりにも使えますからね。

陰に隠れた動きにもアンテナを

E師 教区長や活動団体の動きを伝えるということは、教区ニュースの大事な役割であるということには異存がありませんが、教区の中のさまざまな良き芽生えを伝えることも大事なことと思います。そもそも教会とは、教区長だけのものでもないし、活動に専念できる人々だけのものでもないですね。表に立つ人々が必ずしも全体を代表するとはかぎらないですから。共同体は、個々の生きた細胞から成り立っているものです。個々の細胞がどのように生きようとしているか、どのような問題に直面し、それをどのように克服しようとしているのか、個々の細胞の生き方を伝えることを怠ってしまえば、片手落ちと言われてもしかたないですよね。

シスターD 目立たないけれども、こつこつと生きようとしている方々は沢山います。そうした人々によって教会が成り立っているのですから、教区ニュースがそうした人々の姿をもっともっと伝える場になったらいいなあと思います。

C氏 ローマ帝国の片隅で誰からも注目されなかった、イエス、マリア、ヨセフの貧しい家族が救い主として人類の歴史を変えてしまったように今の社会でも目立たないけれども、神の目からみたら意味のある生き方をしている方が大勢おられるでしょうね。

F氏 第1回ナイスの後、各地でいろいろな試みが行われ新しい動きが芽生えてきています。そうした動きを、あとの時代の人が、非常に意義のあることであったろ評価するかもしれませんから、小さな声に耳を傾けることが必要でしょうね。

Bさん そうするためには、教区ニュースの編集者をもっと増やす必要がありますね。今の人数ではたりないです。

F氏 小教区の教会報の作成に関わっている人々に手伝ってもらうのも1つの方法です。

情報交換の場として

F氏 いろいろな小教区の教会や修道会のニュースなどももっともっと載るようになるといいですね。

Bさん 私など、隣の教会でどのようなみさが行われているか、そこの婦人会にどのような人がいて、どのような活動しているのか、全く知りませんから・・・。

A師 私も、主任司祭を長くやっていますと、自分のできることが限られてきますから、まんねりになる。隣の教会の主任司祭がどんな工夫・試みをしているか、知らせてもらえば助かるね。

C氏 信徒だってそうです。婦人会にしろ壮年会にしろ、毎年同じことの繰り返しでは魅力がなくなります。刺激を与えるためにも、他の教会がどうなっているか知りたいですね。

E師 教区ニュースが東京教区を愛するすべての人たちの連帯意識を育てる場となり、互いに支え助け合うことができるようになるといいですね。

東京教区司祭・助祭叙階式 教区司祭1人、助祭2人(教区および修道会)叙階される

今年度の東京教区司祭・助祭叙階式が、3月7日(日)午後2時より東京カテドラル聖マリア大聖堂で、白柳誠一大司教の司式により執り行われる。

この叙階式では、東京教区から宮下良平さんが司祭叙階され、すべての教区民の喜びと祈りのうちに教区司祭が一人誕生する。また、今年は助祭叙階も合わせて行なわれ、東京教区の油谷弘幸さんとレデンプトール会の瀬戸高志さんが助祭に叙階される。

そこで、この度教区司祭に叙階される宮下良平さんと教区助祭に叙階される油谷弘幸さんの横顔をご紹介しよう。

司祭に叙階される パスカル宮下良平さん

神学院でのあだ名は≪父っつぁん≫。「おじさんですからね」と38歳の本人はその理由を笑って説明するが、それだけではあるまい、落ち着いたた雰囲気と人なつっこい笑顔、そして何か事があると自然と体が動きそうな秘めた動力。困ったことや悩みごとができた時に、この自分の愚痴を聞いてもらうだけで何かほっとするような安定感とやさしさ。そう、「頼りがいのある兄貴分」いう雰囲気がこの人にはある。それがきっと、このあだ名に込められているのだろう

大学生の時に、キャンプに行った。それは、生き方をみなで考えそして見つめようというものだったが、それがきっかけで関口教会で受洗。大学を卒業後は、上智大の学生部に就職したが、このまま一生を過ごすのだろうか、もっと人と交わりたいとの思いが強く、司祭職になる決意をする。最初は修道会司祭をめざしたが、修練期を過ごしている間に「自分を育ててくれたのは関口という小教区。そのような小教区の人々のために一生を捧げることが自分の喜びであり使命なのだ」と気づき、教区司祭になる決意をする。修道会司祭を目指そうとしたのは≪自分の選び≫だったが教区司祭は≪神の選び≫だと感じたとも語る。

このような道のりを経て叙階式を目前に控えた今、「不安とか、ついに来たかとか、いろいろ複雑な思いがあります。自分が一生をかけてしるしていく出発点にいることを思い、ひしひしと重さを感じます」と語る。目指す司祭像は、「共同体を大切にして、そこに信仰を求めてやって来る多くの人々のために働きたい、仕えられるためでなく仕えるために働きたい」と決意はますます固い。

追いかけてみたいテーマがある。≪死≫の問題だ。死の準備教育や死そのものについて正面から考えてみたい。そして、できれば悲嘆にくれている人々とともに生きたいと語る。

人柄は?との質問に、「典型的な信州人ですよ」。理屈っぽくて表現がへただけど、人に対する関心が人一倍強いとか。うーん、こりゃあやっぱり、≪父っつぁん神父≫の誕生だな…。

助祭に叙階される イシドロ・ドミニコ 油谷弘幸さん

それは、22歳の時だから15年前のこと。「青春とは走ることだ」と言った人がいた(?)が、油谷さんの青春も人生の意味や目標が見つからず、毎朝ジョキングして文字通り走りながら、生きる意味を模索し続けていた。ふと気がつくと走っているコースの途中にプロテスタント教会が…。それまで宗教に関心がなく、軽蔑さえしていたのに、なぜか知識として知っていた十字架上のイエスが、「もし自分が救われるなら、この十字架上で死んでくださったイエスかも知れない」と思えるようになり、3ヶ月後に思い切って教会の門をたたく。そして受洗。

でも、教会の雰囲気が何となくなじめない。そう悩み始めた時に、そこの教会の求道者でカトリックにも通っている女の子に誘われて、麹町教会に行ってみた。そしてカトリックのミサというものに初めて参列した。ショックだった。「ご聖体顕示の特に神の現存を感じたんです。自分が探し求めているものはこれだと思いました」とその時の感激を語る。こうして、26歳の時に麹町教会でカトリックに改宗したのだった。

ショックはまだあった。神父や修道士が独身でいることを初めて知ったのだ。世間では歌にドラマに≪恋≫が満ちあふれ、人は自然に恋をして結婚するものと思い込んでいた。「結婚しない生き方もあるんだ!」それは、驚きであると同時に新鮮でもあった。神のために自分もすべてを捧げて生きる、自分もそのような同じ生き方をしたい。その瞬間、今度は司祭職という目標に向かって再び走り始めた油谷さんの雄姿があった。

今年、助祭という通過点を通る。神学院で学んだ知識を小教区という現場でどうすれば生かせるか、司祭のための準備を一年懸命やっていきたいと語る。不安や困難はあるだろうが、きっといろんなつながりの中で支えてくださるだろうとの安心感がある。好きな言葉は「滅私奉公」。一見古風な言葉だが、そこにはすべてを捨てて神様についていきたい、そして、教会の人たちとともに生きていきたい、そのような思いが凝縮されているようだ。

インドネシア地震災害に義援金700万円

昨年暮れ、インドネシアで起きた地震災害とソマリア内戦による飢餓救済のため、白柳大司教区は、クリスマス前に小教区を中心に義援金を呼びかけた。この呼びかけに応じて教区事務所所に寄せられた金額は、1月10日現在で、約700万円。とりあえず、バチカン大使館を通じて地震災筈の中心地となったエンデ教区の司教に送付した。教区事務前は、今後も義援金の受け付けを続けるとのこと。

ずーむあっぷ 題字入選者 原田進氏

本紙の100号を記念して題字を募集したが、多くの募集作品の中から、全審査員が優秀作品と認めたものが、本号から題字を飾っているもの。

原田進氏が、この題字をデザインした人。「プラクシス」というCIデザインで有名な会社のオーナー、かつデザイナーとして日本、イタリアを行き来している。細い体全体がエネルギーのかたまりかと思えるはど、専門分野に、教会生活に大活躍である。

TOKYOは、国際都市東京をあらわし、大きな教会と小さな教会を、教区ニュースが結んでいるというイメージで創ったとのこと。

(吉祥寺教会所属)

司祭のサバティカル制度、今年中にも実施のはこび

福音書を読んでいると、イエスの時代の人々にとって、具体的に信仰を実践する手段のひとつが安息日を綻通りに忠実に守ることにあったようです。イエスもたびたびこの間題でファリサイ派の人々と議論をされたようです。

今日でも聖地巡礼に参加してイスラエルを訪ねる人々が安息日に出くわして、とんでもない出来事にあって困ってしまうこともあります。

カトリック教会の歴史と伝統の中では、さすがに主日の意味がとらえ直されて、私達も日曜日には教会に集まって聖体祭儀を熱心に行うのですが、安息日というユダヤ教の伝統の持っていた大切な意味が失われてしまっているとも言えます。それは旧約の掟においては、安息日には、単に信者である本人やその家族がすべての仕事を休み、祭儀に参加するだけではなく、特にその使用人のみならず仕事にかかわる馬や牛にまでも休みをあげなければいけないということに本来の重要な点があったのです。今日の表現でいえば、労働者の権利の保証です。日本の社会では、伝統的に働くことの尊さが強調された反面、働くこと以外は、遊ぶこと、怠けることなどと考えられて休息してリフレッシュするとか、やっていることからしばらく身をはずして見直してみるといった点を評価しないという強い風潮があります。

昨年7月26日のカトリック新聞は、1面で「司祭のサバティカルで合意」という定例司教総会の結果を報じていました。その内容は、「教区司祭の心身の休養や研修などを目的とした、サバティカル制度の導入は、教会全体にとって非常に有益なことなので、その全国的な実現を目指して努力していく。その内容、時期、期間、経費等についてはそれぞれの教区で独自の規定を定める」というものでした。

東京教区でもその実践を目指して、早速サバティカル準備委員会が生まれ、93年度の実現を目標に準備が進められてきました。

日本人の伝統的な生き方、考え方という点からみれば、非常にまじめな働きバチの部類に属する東京の司祭達にとっては、初めての体験であって、白柳大司教の熱心な働きかけがなければ、計画は机上の空論に終わってしまったことでしょう。

現在74名の該当者を4グループに分けて、司祭叙階後30年以上働きずめという司祭達の中から数名が今年度中にもサバティカル制度をとにかく実現することになりました。

教区ニュース紙上を通じて全教区民の皆様にも是非ともこの企画を支援していただきたいと思います。具体的な一人ひとりの司祭のサバティカルの過ごし方、いつどの位の期間を取るかといった問題は、それぞれ異なりますが、順番に先輩の方から始めて若い司祭達へと進んでいく中で、誰もが納得するような規定も生まれてくると思います。

イエスの言葉にあるようにサバティカル制度を作ることが目標ではなく、司祭達の心身の休養や研修を本当に各司祭に良いものとする為に試行錯誤が必要ですが、より良く人々に奉仕する司祭にとり、生涯養成のひとつの形である訳ですから、信徒の横様の方からむしろ積極的に司祭達を励ましてサバティカルを有益にすごすことができるよう御協力いただきたいと思います。

(探水正勝神父)

粕谷師を所長に迎えてC-TIC、新たな出発

C-TICの所長として、西川師の後任に任命された柏谷師は、新たな運営委員の人選を行い、左記の5人を大司教に推薦。これを受けて大司教は、5人を運営委員として1月11日付けで任命した。

シスター清水(マリアの御心会)
シスター竹市(力ロンデレットの聖ヨゼフ会)
シスター広戸(聖心会)
満留師(多摩教会主任)

なお、運営委員長には森司教が任命された。

また同日、大司教の出席のもとに、初の運営委員会を開催した。委員たちは、各々の経験を分かち合いいながら、C-TICの今後の基本方針を次のようにまとめた。

1、100年計画の初年として小さく静かに出発する。

2、間接方式をとる。

(イ)職、住、法律、健康問題等の直接協力を控えて、相談を通じて、しかるべき相手に仲介する。そのためにネットワークを確立する。
(ロ)すでに活躍している先発グループの仲間入りをするのではなく、その間の連絡調整を図る。そのためアンケート調香を行う。
(ハ)東京教区内の未発と後発教区の活性化につとめることを初年の中心課題として3月20日の教区総会を公示の日とする。
(ニ)ミサ、祈り、黙想会等を大切にし、日本人と外国人、出稼ぎ人と難民、諸外国人と同国人問との和解と一致をめざす。

3、会計は基金と賛助金(含む基金利子)との2本立てとし、運営委員長の監督下に教区事務局に管理を委託する。

4、C-TIC事務局メンバーについて。

常勤(2名)、半常勤、ボランティアの3種とし、ボランティアには交通費と弁当代を支給する。なお、C-TIC事務所は、2月1日には渋谷教会地下に移転する。

カトリック東京国際センター
〒150東京都渋谷区南市T台町18-13
TEL03-3770-1803
FAX03-3770-1806

千葉県佐原教会 白百合幼稚園の新園舎落成

創立から37年を経た佐原の白百合幼稚園は、コロンバン会のへーデン師により、13名の園児で始まった。木造の赤い屋根の小さい園舎だったが、この度、長年の念願がかない100名定員の基準を満たす新園舎が落成した。そして、園児、父兄、職員ともに喜びのうちに明るい笑顔の中で、保育が続けられている。

新園舎での1月の始業の日、「白百合幼稚園は佐原の他の幼稚園と違うのはどこ?」との園長の質問に、「イエス様のこと知っている」とすぐ答えた幼児の心に驚きながら、今もみことばの種をまくキリストと共に一人一人を大切に育てていくことで感謝を表していきたいと思った。

(お告げのフランシスコ姉妹会 上野百合子)

東京大司教区 司祭人事異動

1993年1月25日付で、東京大司教区人事異動が発表された。なお実際の移動は、原則として復活祭後1ヶ月以内に行われる。

清瀬教会主任 岸 忠雄師 (船橋教会主任)
船橋教会主任 辻  茂師  (清瀬教会主任)
喜多見教会主任 坂倉恵二師 (荻窪教会主任)
荻窪教会主任 高木賢一師 (関町教会肋任)
豊島教会助任(兼)教区事務局付 深水正勝師 (教区事務局長)
東京カトリック神学院付 小宇佐敬二師 (病気静養)
豊田教会主任(共同司牧) 立花昌和師 (立川・豊田共同司牧)
関町教会助任 江部純一師 (立川・豊田共同司牧)
町田教会助任 福島健一師 (八王子教会助任)
鴨川教会主任 久富達雄師 (喜多見教会主任)
教区事務局長 稲川保明師 (教区事務局付)
(兼)裏年会館長 森一弘司教
真生会館長代行 ルドルツ師 (真生会館付)
渋谷教会主任(1992年11月より) ジラール師
田園調布教会主任 湯沢民夫師 (田園調布教会助任)
碑文谷教会主任 マッツア師 (碑文谷教会付)
足立教会主任 デ・ウィッテ師 (三河島教会付)
病気静養 佐藤敦俊師 (町田教会助任)

8つの事例をもとに分かち合い・話し合いを

「東京ナイス2準備委員会」は、いよいよ今年秋に開催される第2回全国会議に向かって、より多くの方々の参加と協力を求めて、事例研究を教区の皆様にお願いすることにいたしました。

ここに提示する事例は、もちろん限られたものであり、家庭のすべての問題を包括するものではありません。それぞれの家庭にそれぞれ固有の課題があることを念頭におきながら、こうした事例を通して、皆様が現代日本社会の家庭をめぐる複雑な問題に対する共通認識を深め、司教団のメッセージが指示したプロセスにしたがって話し合い、家庭に福音の光を与えるために具体的にどうすればよいか、ご意見等をお寄せくださるようお願いいたします。

(1)この事例をきっかけに皆様の体験等を分かち合い、現代日本社会の家庭の苦しみや悲しみに対する共感を深めて下さい。
(2)そこで救い主としてのキリストが具体的に、どのような力、光、慰め、希望を与えてくださるか、明らかにしてください。
(3)更に、信仰共同体としての私たち日本の教会が、現代日本の家庭に福音を伝えるために、具体的にどうすればよいか、前向きに話し合い、そのまとめをお聞かせ下さい。

小教区の婦人会、壮年会、修道会、あるいはその他の集まりや会合でとりあげてくださるようお願いいたします。その結果を、準備委員会の方にお寄せ下さい。

個人としてのまとめであってもかまいません。

できれば、カコミの段階まで深めていただきたいと思います。

なお、3月20日に開催される教区総会は、この事例研究を中心に行います。(昨年7月に司教団が発表したメッセージを、再度読んで下さるようお願いいたします)

事例1 夫婦の付き合い方

3人の子育てを終えた主婦です。夫とは恋愛結婚。

長男は6年前に結婚し、今は九州で生活。長女は4年前に結婚し、しばらくは夫の転勤と共に札幌に。次男は一昨年結婚し、親と住むの嫌だと言って近くのマンションを借りて新生活を始めました。

育てた子どもたちが、それぞれ自分たちの幸せを見つけて、家を離れていくのを見るのは嬉しいことですが、同時にこれから夫と2人だけで生きていかなければならないと思うと気が滅入ってしまいます。夫は会社一筋の人間です。朝6時には起床、7時前には家を出ます。帰宅はほとんど9時過ぎ。月末の忙しい時は10時、11時になります。悪い人ではありませんが、口数が少なく、休日などは家でごろっとしていることの方が多く、信者ですが、教会に行くことはまれです。これといった趣味もありません。これまで私は子育てで精一杯でしたので、夫と会話がなくても、なんとかやってこれたと思うのですが、子どもたちが離れて行ってしまった今、これから夫と2人だけで生活していくことに非常に不安を覚えます。夫が私と同じような思いでいるのか、分かりません。夫には定年退職までまだ数年ありますから、私のように痛切に感じていないのかも知れません。でも私は、定年退職後、毎日のように夫と顔を突き合わせていなければならないのかと思うと、今からぞっとしております。

私の周囲の同年輩の主婦たちを見ますと、ボランティア活動をしたり、カルチャーセンターに通ったり、旅行に行ったりして結構楽しんでいるようなのですが、私には、そうしたことは夫との関係から逃げてしまっているように思えてなりません。昔のように子育ての終わった頃、親の人生終わっていれば、こんな思いをしないですんだのでしょうが…。人生80年を迎えた今、夫婦の絆とは何なのか、問われているのかなあと思っております。

周囲の友だちにそれとなく聞いてみますと、あまり深刻に考えない方がいいわよとか、夫に期待しない方がいいわよとか、今から自分の世界を作って夫に馴れてもらった方がいいわよ、とかいう言葉が返ってきますが、どうなのでしょう。夫ともっと話し合うようにしたらとか、一緒に何か趣味をみつけたらとか、具体的な方法を提案してくれる人もいますが、子育てに夢中になって夫との心の交わりをおろそかにしてきた報いが今になって現れてきたようで、いまさらそのようなことをしても、夫がのってくるとは思えません。こうしたことに耐えながら、生きていくしかないのでしょうか。夫婦とは何なのでしょうか。

1、同じような体験の分かち合い。妻の気持ち、夫の気持ちにどうしてずれが出てくるのでしょうか。
2、夫婦とは何か、聖書はどのような光を与えてくれているのでしょうか。
3、現代社会に生きる信仰共同体としての教会は、このような状況にある夫婦にどのような手を差し伸べることがせきるでしょうか。

事例2 生命の伝達について

私は34歳の主婦です。7歳、5歳、2歳の3人の子どもがおります。私は信者ですが、夫は信者ではありません。

夫は26歳。デパートに勤務しております。性格がおとなしく、とても優しい人です。私が教会に通うことや子どもの幼児洗礼についても、これまで一言も不平を漏らしたことはありません。しかし「子どもはもう欲しくない。自分の今の給料で、月13万円の家賃を払いながら、3人の子どもを育て、大学に行かせるのが限度だ。これ以上子どもを養うことばできそうもない」とハッキリと意思表示します。そう言われると、幼い子供を抱えてパートに出ることさえままならない私は、精一杯家族のために働く夫の姿を見ると強いことも言えなくなり、仕方なく教会が禁じているような方法で家族計画をしてまいりました。

ところが、ちょっとした気の緩みがあったのでしょうか、3番目の子を出産した後、しばらくたって身ごもってしまいました。私は、どうしても産みたいと主張し、夫とも言い争ったのですが、頑として「うん」と言わず、泣く泣くおろすことになってしまいました。

その時に相談した司祭は、「おろすことだけは避けなさい」と言われましたが、実家の母には「神父さんは家庭の難しさを知らないからそんなことを言うのよ。夫に負担をかけてはかわいそうだから、あなたががまんしなさい」と言われてしまいました。

家族計画のこともありますが、自分は教会の教えにそって生きていないというコンプレックスがあり、後ろめたさから教会から足が遠のいてしまいました。

日本では信者ではないご主人と生活している方が多いと思いますが、他の方はどうしておられるのでしょうか。

1、このようなケースが多いと思いますが、もしあなたがこのような相談を受けたとしたらどのように答えますか。

2、家族計画と中絶についての現在の教会の姿勢を知っておられますか。もし、教会の姿勢とあなたのアドバイスとの間に相違があるとすれば、その理由はどこにあると思いますか。

3、このような問題に悩み、重荷を背負う人々に、信仰共同体としての私たちは、そのようなこころで接していったらよいと思いますか。皆様で話し合ってください。

事例3 子供の信仰教育と家庭

私と3人の子どもたちは洗礼を受けています。夫は洗礼を受けていません。中学2年になった長男が最近、教会に行かなくなりました。

きっかけは、中学1年生の時、クリスマスの準備のために中学・高校生を対象として神父が企画した黙想会でした。母親の私にも責任があると思うのですが、長男は学校の友だちと一緒に申し込んでいた学習塾の模擬試験に出てしまったのです。それを知った主任司祭は、次の週、ミサの侍者の奉仕をした息子を「教会と塾とどちらが大切なのか」と一方的にしかりつけてしまったのです。その後、息子は教会に行くことを渋るようになってしまいました。最初の内は、私が「教会に行かなくては駄目よ」と言うと、何とか従っていたのですが、最近は効き目がありません。「教会は行ってもつまらない」と言い返し、私が教会に出かけた後、友だちと誘い合ってどこかに出かけているようです。

日曜日、クラブ活動があったり、塾の模擬試験があったりして、教会に行くことが無理な時もあることは事実ですが、今教会に行かなくなってしまうと彼の心から信仰の光が消えてしまうのではないかと心配しております。私には息子の信仰を育てていく自信がありませんので。

また一方で、多くの子どもたちが高校・大学の進学のため塾などに通って着々と準備を進めているのを見たりすると、信者である私も、教会だけが子どもの世界ではないと考え、内心とても迷い、正直なところ、「教会に行かなくては駄目よ」と自信をもって言うことができません。

信者でない夫も、優しい思いやりのある子に育てば十分ではないか、それよりも、将来社会に貢献するためにはきちんとした大学に進学する必要があるのだから、今無理やりに教会に行け行けという必要もないのではないかと言います。

大人の目から見ても、お世辞にも、子どもたちの心を引きつける力があるとはいえない教会の現状を見るとき、日本のような複雑な社会の中で生きていかなければならない子どもたちに、だれが、どのように信仰を伝えていってよいか、途方に暮れております。

1、子供たちに信仰を伝えることは親の責任といわれてきましたが、あなたの家庭ではどうでしょう。あなたの身近なところにもこのようなケースがありますか。分かち合いながら、問題点を出し合ってください。

2、子供たちに信仰を伝えるとは、どういうことなのでしょうか。子供たちが置かれた状況(家庭、親の生き方、学校、教会のあり方など)をふまえながら、子供たちにどのような信仰を、そのような形で伝えたらよいか、具体的に話し合ってください。

事例4 年老いた家庭にどうかかわるか

しばらく教会に姿を見せなかった婦人会の昌子(34歳)さんがある夜、教会の神父のところに相談に来た。すっかり痩せこけ、「身も心も疲れ果てました。これ以上夫と一緒に生きていく勇気がでません。子供を引き取って実家に戻りたい」と言う。

彼女は、10年前、大手商社に勤める正夫氏(40歳)と結婚。子供は2人。小学1年生の男の子と3歳の幼稚園に通う女の子がいる。

これまでに夫の地方勤務が2度。2年前から本社勤務になっていよいよこれから落ちついた家庭生活ができると意気込んだ矢先、1年前下関の実家の母(67歳)が癌で倒れ入院、手術。2人の実の兄たちは、それぞれ結婚して家を離れてしまっている。長男は北海道、次男はアメリカ勤務。父親(73歳)が頼りにするのは昌子さん一人。

昌子さんは、週の前半の3日間、母の看病と実の父の世話のため下関に行かざるをえなくなってしまった。幸い、幼稚園の送り迎えや家事などを近くに住む夫の母に頼むことができた。

しかし、最初の内は喜んで協力してくれた姑も、馴れるにしたがってさまざまなことで昌子さんの領分を侵すようになり、時には面と向かって「家のことは何もしない。正夫がかわいそう」などと嫌みを言うようになってしまった。ある日、下関に行っている間に風邪で倒れた夫の看病のために枕元に姑が寄り添っているのを見て、主婦として妻としての自分の居場所がなくなってしまったことを実感した。

夫の正夫氏は、悩みを打ち明ける昌子さんを理解しないどころか、「自分の家庭を守りたければ、お父さんやお母さんを老人ホームに入れたらよいだろう」と一方的に言い、また、新幹線に揺られてくたくたに疲れた昌子さんが夫婦の関係を拒んだり、いやいや応じたりすると「おれと母親とどっちが大事なんだ」とふてくされ、「新幹線の旅費など実家から出してもらえ」などと言う。こうした夫の態度に、夫への不信感が芽生え、心を開けなくなってしまったと言う。

家にいると針のむしろの上にいるように緊張し、父の世話、倒れた母親の看病をする時が、一番ホットするようになってしまった昌子さんは、年老いた父母のそばで暮らしたほうが、ずっと気持ちが落ちつく、夫と一緒に生きていく気持ちが薄れてしまった、と悩みを打ち明けた。

1、高齢化社会の到来と共に年老いた親の世話、看護を、誰がどのようにするのか、大きな問題になってきております。あなたの身近にこのようなケースがありますか。分かち合いながら、問題点を出し合ってください。

2、年老いた家庭について福音、あるいは信仰はそのような光を与えてくれるでしょうか。

3、地域社会に生きる信仰共同体として教会は、このような重荷を背負う家族にどのように関わることができるでしょうか。・具体的にどのような手をさしのべられるでしょうか。

事例5 単身赴任中に起こったこと

45歳の男性(信者)。妻は40歳(末信者)、中1(女)、小(男)。地方都市の支社に単身赴任して5年。私は家族一緒に行くことを希望したが、妻や子どもたちは学校や進学を理由に、また妻は憤れない土地に行くことを嫌って反対した。遠距離のため、東京の自宅に帰るのは年に数回。

単身生活の寂しさ、家族への不満や仕事のストレスをアルコールに逃げ、生活は荒れた。僅かなことで、上司や同僚、さらにはお客と口争いもしばしば、会社のはうも、自分も困ってしまった。孤独の中にある私に同情し、理解し、立ち上がるよう励ましてくれたのは、私の下で働く30歳の女性だった。妻は1,2度赴任地まで来て心配してくれたが、子どもたちの学校や世話を理由に帰ったままになった。手紙は時々来た。

そのうち、彼女の家に食事に招待されるようになった。彼女はアパートに独り暮らし。数回目の招待の時、自然のように、2人は男と女の関係になった。

所帯疲れをした妻より、彼女に女らしさを感じる。子ども中心の妻への不満を強く感じるようになった。

たまに帰省しても、妻との夫婦関係に心がのらない。良心の責めを感じている。妻は私を信頼して、子どもの世話に専心し、単身赴任を無事終了して帰って来るのを楽しみにしていた。

ところが、帰省間際に彼女から妊娠したと打ち明けられた私は、今後どうしたらよいのか、即座に返事ができなかった。

1、やむをえなく単身赴任となるときに家族が直面するさまざまな問題点をわかちあってください。
2、このケースでは何が欠けていたのでしょう。
3、単身赴任者と家族が支えあっていくために、どのようにしたらよいのでしょうか。単身赴任者とその家族にとって福音となるものはなにか、話し合ってください。

事例6 三高に憧れて

A子(28歳、信者)、前夫は証券会社に勤める、いわゆる三高(高学歴、高収入、高身長)。教会で皆から祝福されて結婚。

しかし、結婚3年目頃から、結婚生活に不満を感じるようになった。

帰りは毎日深夜。別に女ができた訳ではない。中堅社員は今、同僚に差をつけなければ将来がないと言う。彼の望みは社会的地位と名誉だけである。

妻の気持ちなど理解してくれない。そろそろ子供を作り家庭のだんらんが欲しいと思ったが、彼はまだ子供はいらないと言い、セックスにも応じてくれなかった。夫婦の会話もめっきり少なくなっていた。

そんな生活がしばらく続き、憂うつを感じるようになった。

女子大時代の級友たちも心配してくれた。級友の誘いで、ある小料理店に行ったのがきっかけで、その店に勤める級友の男友だちと知り合うことになった。3人で飲みに行くことも何度かあった。

彼は高校卒業後、調理師の資格を取り、その店に勤めるようになった。

ある日、そんな彼(独身)からプロポーズされた。彼は将来、ニューヨークに自分の店を出すのが夢だと言う。

財産も学歴もない彼が一途に夢を追い求める姿に心をひかれ、この新しい彼に自分の人生を賭けてみる決心をして、離婚。そして再婚した。

両親、親戚は反対したが、今は子どももあり、事実を認めている。

A子は信者。教会に離婚について相談せず民法上、再婚した。最近になり「教会に戻り、聖体も拝領したい、子どもに洗礼も授けて欲しい」と思ったが、2、3の信者の人は彼女のことを快く思っていない。今の夫は彼女が教会に行くことも、子供の洗礼にも賛成している。

1、このようなケースをあなたは知っていますか。あなたはどう感じていますか。
2、このような彼女をあなたの共同体は温かく迎えてくれると思いますか。
3、キリストはそのような時、どういうメッセージを与えられると思いますか。

事例7 国際結婚をしたふたりは今

本田浩二(38歳・未受洗)は、中規模の商事会社に勤務。フィリピンに2年間滞在中にマリア(30歳)と知り合い結婚した。当初、困惑気味だった浩二の両親もマリアの明るい人柄が気に入ってくれ、何とか東京での結婚生活をスタートした。日本語のできないマリアを一人にしておけないので、両別と同居。そのうち子供も2人でき、マリアもすっかり日本の生活に慣れた様子だった。

残業の続いたある日、帰宅してみると、マリアは家におらず、聞いてみるとこのところ出かけることが多く、時には帰りが夕食後になることもあるという。その夜10時を過ぎてから帰宅したマリアによると、毎日、寂しくてフィリピン人の友だちの家に遊びに行っているとのこと。どうして寂しいのかとの浩2の質問に、何もかもと答える。ふだんやさしい姑も、姑の友だちが遊びに来ると、マリアには出てくるなという。マリアのことが恥ずかしいらしいと言う。子どもたちも、近所の子どもたちと外では遊ぶが、他の子どもの家の中には入れてもらえない。遊んでいたと思うと、突然帰ってくるので聞くと、他の子どもたちは何々ちゃんの家に行ったから自分たちは遊べないと言うそうだ。それに自分だけならまだよいが、子どもたちを連れて出歩くと回りの人がじっと見たり、変な事を言ったりする。

フィリピン人の友だちの家に行けば、そんな心配もないし、安心してそこでフィリピンの料理を作って食べられる。子どもたちは半分フィリピン人でもあるのだから、フィリピンの食べ物も食べさせたい。国のお母さんや兄弟にも会いたいし、日本では他に友だちもいないから、フィリピン人の友だちの所についつい行ってしまうと言う。

次の日何げなく浩2は母にどうしてマリアをお客の前に出さないのか聞いてみた。母は「あら、いつもお茶をマリアに出してもらっているのよ」と素直に驚いている。お茶を出した後は、もういいわと言っているそうだ。母にしてみれば、話題も合わないマリアがその場に無理にいても、つまらないだろうとの配慮である。マリアはお客が来れば家族中で歓待するフィリピンのやりかたを期待したのだろう。

初めのうちはなるべくやく帰宅して、マリアと一緒に過ごす時間を努力して作っていた浩2も、以前よりも責任のある地位に着き、仕事も忙しい今、そうそう帰れない。友だちの所に行くなとは言わなかったが、悪いと思ったのかマリアは明らかに行く回数を減らした。それに比例して、浩2が帰宅するとマリアが電気もつけずに泣いている回数が増えた。そんなマリアを前にして浩2もどうしたらよいのか、分からず泣きたい思いでいる。

1、日本にも外国人が増え、国籍の違う者同士が家族を構成しているケースもふえていますが、習慣、文化の違いゆえに行き違いが多いのではないでしょうか。ご近所にこれに煮たケースがあったら、あなたに何かできることがありますか。

2、信仰共同体としての教会が、今後益々増加するであろう国籍の違う人々を受け入れるにあたって、具体的に何をしていけるでしょうか。

事例8 ハンディを持った子供たちとその家族

誠(熊本出身)と和子(秋田出身)は、ともに故郷を離れて都会に出て来た者同士で職場で知り合い、結ばれた。身寄りのないさびしさと生活の不便さが、26歳と23歳の2人を結婚に踏み切らしたとも言える。結婚式も終わり、やっと落ち着いた頃、和子は懐妊した。

誠は生まれて来る子どものためにも、これからの人生をがんばろうと言う気持ちが、心の底から沸き上がって来ていた。やがて産気づき、産院に駆け込み、3000グラムをちょっと切る男児を出産した。意識のもうろうとした中で、和子は弱々しい新生児の産声を聞いたような気がした。1ヶ月後母親は退院できたが、赤ちゃんだけは、新生児黄疸が……とか、今、外では流行性の感染症……とかで退院できなかった。

1ヶ月ほど過ぎて病院から父親だけ呼び出された。なぜ父親だけ呼び出すんだといぶかりながら医者の前に立った椅子に座るように勧められた。椅子に座るなり医者は口早やに話しかけた。「実は、お宅のお子さんはダウン氏症候群という障害児です。いろいろな能力の発達が少しずつ遅れたり、病気にかかりやすかったりします。

こうした子どもの場合、心臓の合併症を持つことがめずらしくありません。幸いお宅のお子さんの場合、はとんど問題ありませんので、その点についてはひと安心です。このようなお子さんの出生の確率は、1000人に1人と言われています。とにかく奥さんと協力して大事に育てて下さい。もう少し、奥さんにはこのことは話さない方がよいでしょうね。お父さんはできるだけ平静に振る舞ってください。」

誠は脳天を強く打たれたような気がしたが、1ヶ月近く忍従の日々を送った。それから1カ月後の産院での検診の折り、改めて夫婦に対して医者はダウン氏症候群であると宣告したのであった。

涙する夫婦の間には、会話や笑顔が途絶えがちで、人生に対する絶望感だけが頭をもたげて来るのだった。

そんなある日、保健所の保健婦さんの家庭訪問を受けた。子どもはもう4ヶ月になっていた。「どうしてこんな子が生まれたのだろうか」「この子は今、どの程度育っていて、これからどうなるのか」「今、親として何をしなければならないのか」「将来はどんな人生になるのか」など日々疑問に思い、知りたいと考えていたことを、いっきに吐き出したのだった。

2人はこの日以来、夫婦の会話も増え、明るさを取りもどした。何がこの打ち沈んでいた2人の心を変えたのだろうか。それは保健婦から聞いて、自らも確かめたことからだった。「自分たちだけで、重荷を背負おうとしては駄目」「重荷を一緒に担おうとする人々が沢山いるのだ」また、「同じように重荷を背負ってがんばっている仲間がいるのだ」という言葉だった。

1、生涯を持つ子供とその親を見かけたとき、どう思いましたか。
2、福音のこころで障害者とともに生きる道を話し合いましょう。
3、信仰共同体として、障害のある子供、障害者に対し、どのような対応をしたらよいと思いますか。

第5回 「信仰の喜びを生きる」 -生涯養成コース その歩みと展望-

ナイス1で「現代社会に生きる私たちの現実に即した信仰理解、人の誕生から始まる一生の歩みに焦点をあてた教え」が求められ、その要望に答えようとする企画の一つ、養成コースが誕生して3年が経ちます。養成コースには、

(1)ライフサイクルにそったコースの設立
(2)現代人の実生活に即した社会問題に視点をおいたコース
(3)現代社会・生活に結びつくような信仰理解への手引きとなるコース

という3本の柱がありますが、第1回目は(3)に基づき「教会の共同理解をめざして」というテーマで毎月1回、全6回のコースを行い、その後ライフサイクルにそったコースとして「子育てのさなかで」「第2の人生を豊かに」 を行いました。その結果、共通の反省点が浮かび上がりました。一つは月1回づつ行うと、コースであるのに連続性が薄れて前回の復習に時間を取られ、1回ごとの内容を深める時間が不足してしまうこと。もう一つは信仰共同体である以上分かち合いの中心に聖書のみことばと祈りがなければ豊かな実りが得られないのではないかということでした。そこで今回はコース7回分を2泊3日の申に凝縮し、研修会、黙想会等の資料も参考にして新しいプログラム作りをしました。全体の流れは、みことばの祭儀に始まり、様々な分かち合いがあることに気づき疑似討論会方式の分かち合いによって私たちの信仰を振り返り、信仰の再発見をします。ミサ奉仕や食事の片付け、掃除など生活の全てが分かち合いであるという認識のもとにその実りとして各グループが信仰をどのように理解したのかイメージ化し、グループのメンバーが一つになってそれを絵にしました。そして森司教の講話。感謝のミサの後は絵を肴に飲(ノ)ミニケーション。最終日はまとめの分かち合いと、派遣のミサによって再び世の海原に漕ぎだそうというものです。

今回のコースの大きな特徴は一つの集いが次の集いのステップとなっていて、その歩みを進めて行く時に、みことばの分かち合いの中で、その集いのテーマを考え分かち合ったということでしょう。

「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われた復活のキリストを囲んで、聖書のみことばを分かち合い、祈りによってみことばを消化し、血となり肉となったみことばに支えられて、一人ひとりが日常生活のとらえ方を福音的な喜びのあるものに転換させて行こうとするコースと言えるのではないでしょうか。次回のコースの日時は未定ですが、信仰の喜びを自分一人にとどめないで外にも広げて行くプログラムを予定しています。

(折田淑子)

訃報

滝沢暁子(きよこ)修道女(援助修道会)

1月4日、東房・厚生年金病院でS状結腸がんのため帰天。63歳。1930年兵庫県生まれ。57年初誓願。東京の同会経営の女子寮、神戸六甲児童館や小教区の司牧活動に貢献した。83年ブラジル・サンパウロに派遣され、8年間日系人信徒の司牧の手伝いをした。誠実な人柄で多くの人から慕われた。

「主婦する」「妻する」って 教会委員連合会で 上野加代子氏講演

1月10日(日)午後1時半より、カテドラル構内において、東京大司教区教会委員連合会の「1993年新年の集い」が白柳大司教、森司教、54教会(160名)の教会委員の参加で催された。

第1部では、森司教の挨拶につづき、当番教会(千葉寺)の報告が行われた。次回の当番教会は、銚子教会、鴨川教会、佐原教会、館山教会で合同運営、事務は佐原教会が行う。報告に引き続き講師の上野加代子氏による「変わり行く家族とその行方」という演題で講演が行われた。

第2部では、カトリックセンターに会場を移し、白柳大司教の新年のあいさつのもと、祝賀パーティで親交を深め合った。

変わりゆく家庭とその行方

性別役割分業の変化

昔から言われてきた「男は外、女は家庭」という“性別役割分業”が最近ゆらいできています。女子大学学生の意識では、性別による役割は支持されてなく、逆に「男が家庭、女は外というのも嫌、男女とも同じ」ということが望ましいとなっています。

いろんな背景があると思いますが、ひとつは女性の職場進出が急激に進んでいまして、それに伴い、女性の高学歴化が変化してきています。

昭和35年の大学・短人の進学率は、男15・3%、女5・5%、それが平成4年では、男37%、女40・8%という統計が出されていて、男性より高くなっています。

以前は、専業主婦というとワンランク上の階層に属すると思われていて、あこがれの対象だったのが、現在は少し変わってきているため、専業主婦の位置づけがあいまいなものになってきています。

更に平成4年4月から施行された育児休業法により、子どもが満1歳になるまで、1年間仕事を休める、これは男女ともに共通の制度で、その流れのなかで少し変化がおこり「夫が一緒に子供を育ててくれないなら、私は産まない」と母性から父性の方へ移行しています。

家族の個人化

最近、家族であっても「私は私」、夫婦であっても「私は私」という意識が強くなっています。これは男性よりも女性に多く見られます。

「主婦する」、「妻する」これは男性にとって、決して耳障りのいい言葉ではないですが、特に30代の女性に多いですね。子供の授業参観に出かけ「今日は母親してきたのよ」、又共働きの女性が日曜日たまに家の仕事をした後「昨日、主婦したのよ」という言葉の使い方をします。

これは、家族の規範が弱くなってきて、自覚して「母親した」り、「主婦した」りしなければ、家族というものがなかなか維持できない時代になっているという解釈もできるのでしょう。

〝夫婦別性″ も1980年後半から、進んできています。女性の職場進出によって「結婚で性が変わるというのは不都合」という、〝選択性″の議論もあります。

もうひとつ同居の原則(1同居、2経済、3食事)の変化も挙げられます。

女性の職場進出などで、単身赴任を余儀なくされている男性。

若い共働き夫婦で、毎月お金を出し合って別会計の生活。

好きなものを貰い、好きな時に食べるという、”個食化”の傾向が進んでいます。

家族の結合よりも個人の自由

若い世代を中心に「やむを得ない場合は、離婚してもしかたがない」という意見が毎年増えています。それは個人がその家族によって、どれだけ「幸福でいられるか」という個人に重きを置く発想に変わってきています。

〝1・53ショック〟、女性が一生涯で子どもを出産する数は、1,53人、2人の子どもを生まない時代になったと言われています。

これは、高齢化社会の中で危機感があり、この「少産化時代」の一番大きな原因は、男女とも初婚年令が上昇しているところからきています。

女性は、働きやすい職種、職場があり、結婚したいという願望の程度が弱くなっていますし、親も、社会も寛大です。

家族によらない人間関係の限界性

92年度の総理府の国民生活に関する世論調査では、家族の団らんを大切にしている人が昨年は倍増しています。これは、バブル経済崩壊以前からで、家族の指向性が相対的に強まっているという統計が出ています。

アメリカの調査でも、家族によらない人間関係をもてる人ともてない人では、差がある。もてる人とは、ごく一部の人で、家族によらない人間関係が難しいということは、ずいぶん前から指摘されています。

変わりゆく家族の行方として、「個人の拘束から、個人の生き方を支援し、支え合う」という家族のありかたが求められているのではないかと上野氏の家族の実話も折り込みながら語った。

(教区連合委員会)

講師略歴

1957年松山市住まれ、関西大学卒業後、大阪市立大学にて博士号取得。現在は四国の聖カタリナ女子大学講師

ちょっとおたずねします

Q、4句節は文字通り40日間だと教わり、長い間そう思っていました。ところがこの前、灰の水曜日から復活祭の前日までを実際に数えてみると、46日ありました。どうしてちょうど40日になっていないのでしょうか。

A、復活祭前の整-備の期間を4句節と呼んでいます。もともとは、復活祭に洗礼を受ける志願者たちの準備の期間として起こったようですが、洗礼志願者だけでなく、教会をあげて復活祭をふさわしく迎えることができるように、祈りと断食をする習慣もごく初期から始まりました。キリストの荒れ野の40日にならって、4世紀ごろには、その期間が現在と同じ40日となっていたようです。それで4句節というわけですが、日曜日は4句節中でも復活の記念日として断食をしない習慣だったので、実際に断食をする日が40日になるように4句節の始まる日を少し前にずらして次の水曜日から始めるようになったのです。それで、4句節第1主日から受難の主日(枝の主日)までの6回の日曜日を引くとちょうど40日になります。

ただし、第2バチカン公会議以降はっきり示されている考え方によると、聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサから始まる「過越の3日間」が教会暦1年の頂点であることをはっきり示すように、4旬節はその前で終わります。それで、現在の4旬節は正確には44日です。(「典礼暦年の一般原則」19、28参照)

聖木曜日・聖金曜日を4句節の中で、復活祭を復活節の中で別々に祝うのではなく、受難と死を通して復活された主の過越を、復活徹夜祭を中心として3日間かけてあたかも一つの祭日のように祝います。4句節は、復活祭というよりも過越の3日間の準備の季節となっているのです。

40日という考え方のもとになった断食についてもふれておきます。断食というと食べ物を一切とらないことのように思われますが、カトリック教会がこの期間に納めている断食はむしろ節食といったはうがいいでしょう。具体的には大斎・小斎という形で定められていますが、4句節の断食には特に大斎が問題になります。大斎は、一日に一回だけ十分な食事をとり、そのはかにもう一回わずかな食事をとることができ、守る人は60歳に達するまでの成年者となっています。もちろん、病気の人や妊娠中などの理由のある人には義務はありません。現在の日本の教会は、灰の水曜日と聖金曜日に大斎を義務として定め、聖土曜日にも任意に勧めています。

4句節の40日という期間がキリストの荒れ野での40日を思い起こさせるように、教会がこの期間に断食(節食)を勧めているのも、それによって、キリストのことをよく思い起こさせるためです。その限りにおいて断食には価値があるのであり、断食それ自体にキリスト教的価値があるわけではありません。4句節は、断金をはじめとして自分を厳しく見つめ、律する期間のように思われますが、一番大切なことは、むしろそのことを通して神を見つめる、キリストを見つめる期間ということではないでしょうか。「神を求めよ、わたしたちの近くに神はおられる」と4句節の間、何回も歌う典礼聖歌がそのことをよく教えてくれています。

(山本量太郎)

『東京教区・修道女連盟』の集い行われる テーマは「NICE・2」の課題

『家庭について』

恒例の東京教区修道女連盟の集いが1月4日、聖心女子大学において4百数十名の参加者のもと、盛大に行われた。

白柳大司教、森司教の共同司式によるミサ後、福音宣教推進全国会議(NICE・2)の精神、その日指すところについて、小田武彦師の講演があった。

小田師は、NICEは全国会議と言われているが、むしろ『福吉宣教の全国的な運動』と言うはうがより精神を現していると語った。そしてこの運動は、第2バチカン公会議の精神に基づいているものであり、日本の司教団は1970年代から取り組んでいるとその歴史を紹介した。

NICEの基本的な姿勢については、常に現実から出発するものであることを強調し、初代教会がまさにそうであったことを、ステファノの殉教を取り上げ説期した。

ギリシア語を話すユダヤ人のやもめが、日々の分配に与かっていない現実があった。
(現実との出会い)

たちはこの問題を解決しなければならないと思った。(開かれる。回心)

7人をこの役務の為に任命した。この7人は名前からギリシア語圏の人、つまりユダヤ人2世であった。使徒たちは、彼女たちの問題がよく分かる人を任命した。(交わり)

この7人は分配の仕事をしていたが同時に、宣教者として活躍した。迫害が起こり、ステファノは大説教をして殉教した。(宣教)

信者は地方に分散し、そこでまた新しい現実に出会う。(現実との出会い)

NICE・1では、社会の現実を見つめることによって、私たちの信仰の現実が朋らかになった。つまり信仰と住活、教会と社会の遊離。その現実の認識から新しい歩みが輪まった。

NICE・2も同じ歩みを続けるが、特に生活の基盤である家庭の現実を見つめることを通して福音宣教を考える。

最後に小田師は、初代教会は現実に出会うことによってどんどん変わっていった。日本の教会もこの変革に取り組んでいる。修道会もこの教会の歩みを共にしていただきたい、と講演を結んだ。

午後は、1992年5月に行われた『司教団を迎えて、男女修道会・宣教会合同総会』で出された「確認文」 のいきさつについて、3人のパネラー…(森司教・福田神父・Sr.今泉)から報告があった。

親睦を兼ねた約1日の集いをもって、東京教区修道女連盟の1993年の新しい歩みが始まった。

ケルン教区の現状 藤井泰定神父のレポート その2

「司牧ベテルク」制度

1991年9月、東京教区創立100年祭に招かれて出席されたケルン教区のルーテ補佐司教はクリスマス前の水曜日に、ヨハネ・パウロ2世教皇からルール地区のエッセン教区(ケルン教区の北側に接している)の第2代教区長に任命され、2月2日着座されました。

この人事によって、デュッセルドルフ市を含む北司牧ベチルク(区域)の担当責任者は空席になりました。

ルーテ補佐司教は1957年に故フリングス枢機卿来日のとき、秘書として同行され、大変な親日家になられました。

また、第2バチカン公会議中は故フリングス枢機卿の秘書として、ずっと同行され、1969年10月28日に補佐司教に任命され、12月14日に司教に叙階されました。1975年12月15日から北司牧ベチルクの担当者でした。

時期を同じくして、ボン市を含む南司牧ベチルクの担当責任者であったプレーガー補佐司教が1991年12月31日付けで引退しました。

2人ともケルン教区に「司牧ベチルク」制度が実施されたときの最初の担当者でした。司牧ベチルク制度は広大な地域にたくさんのキリスト者が住み、組織が巨大化して、ダイナミックな行動が取りにくくなっている教区を少しでも活性化するために1975年に実施されました。

統一後のドイツ

よくご存知のように、1987年10月にハンガリーは「人道的見地に基づいて」との立場から、ブタペスト旧西独大使館に避難した旧東独亡命者のために、ワルシャワ条約に基づく、旧東独からの亡命者引き渡し要求を拒否し、オーストリアとの国境を開きました。続いて、ポーランドからワルシャワ旧西独大使館亡命者のための特別列車が旧東独を走り、旧西独へ運ばれました。その時、旧西独政府は亡命者一人ひとりに200マルクを渡していました。11月9日にべルリンの壁が壊れ、1990年10月3日にドイツ再統一が実現しました。

分割された一つの民族が40年間待ちに待った統合は、夢のような出来事であり、拡大した統一ドイツの未来はバラ色に輝いていました。しかし、一つの国として国際社会の中で歩むために、事務レベルの調整が1992年末をめどとして、1993年1月1日を統一制度の施工準備が始められると、政治、経済、文化、法、教育、宗教等の形態、事情、制度の違いが、40年も意識的に、時には対立的な状況で経過したことは、予測だにしなかった越え難いギャップを背負っていることが少しずつ示されてきました。

統一後の経済

インフラストラクチャーをはじめ社会生活を同じレベルにするのに、旧西独の国際経済力にあまり打撃を及ぼさないで現状を維持しながらだと、10年はかかると予測されたのは、91年5月でした。7月には、まず、通貨をマルクに統一し、旧西独マルクと旧東独マルクを1対1で交換しました。実際には1対2、ないし1対3の力しかないと言われていました。国際競争力のレベルからは程遠い旧東独の生産力と老朽化し公害まみれの国営設備を民営化する家庭で、失業者が続出し、失業率は著しく増大し、旧東独地区では20%を記録しました。全ドイツで諸物価も高騰し、不安材料ばかりがマスコミや一部政党や政治家によって指摘されながら、他方では、周辺諸国からは「ドイツの脅威」が騒がれていました。

そんなドイツにユーゴスラビア内戦とソ連山朋壊にともなった民族主義の台頭により、東から、南からの難民(かつてドイツから東欧諸国に移民したドイツ系住民も含め)と不法移民が続々とドイツに流れ込んできました。中には、モスクワ経由のベトナム人もいました。

(つづく)

金祝・銀祝おめでとうございます

司祭金祝

望月 光師 (東京教区・国分寺市)
マンテガッツァ師 (サレジオ会・泰日英修道院)
リーチ師 (イエズス会・SJハウス)
フエールケン師 (イエズス会・SJハウス)
エーデルマン師 (イエズス会・Slハウス)
中山利喜太郎師 (マリア会・シャミナード修道院)
チースリック師 (イエズス会・SJハウス)

司祭銀祝

岩橋 淳一師 (東京教区)
池島  潤師 (イエズス会)
高橋 義博師 ( 〃 )
山田 経三師 ( 〝 )
ハンコック師 ( 〝 )
赤波江春海師 ( 〃 )
マルシリオ師 (サレジオ会)
山口 輝男師 (聖パウロ修道会)

編集部から

東京教区にはたくさんのグループが活動しています。この1年はできるだけ多くの活動をご紹介しようと努めました。私たちにニュースを進んでお送りくださるようになって大変助かっています。また、個人的に活躍しておられる方もありますので、もっとそちらも取り上げるべきだったと反省しています。

第2回福音宣教推進全国会議が「家庭」をテーマに決定され、3年前から各地で準備が進められて来ましたが、本紙でも趣旨を深くご理解いただくために、東京教区総会で検討されたことや、教区の信徒、司祭、修道者の方々によるアンケートや研修会のことなど、出来るだけ詳細にご紹介したつもりでいます。いよいよ会議は今年10月、長崎で開かれることになりました。本紙も、現地で取材したものをホットな形で、ご紹介するよう頑張ります。応援してください。

(泉富士男)

教区ニュースもついに100号を迎えました。お陰様で教区の皆さまにだいぶ親しまれるようになったと思います。100号を機会に題字募集を行いましたが、多くの方々の応募をいただきました。編集部の皆で、検討しました結果、原田進さんの作品が選ばれました。国際都市東京と教会の2つを結びつけたアイデアが秀逸ということで選ばせていただきました。応募して下さった方が多かったことで編集部一同大喜びでした。

これからも教区のあちこちで行われる色々な出来事を拾って皆様に提供できるようにしたいと思っています。読者の皆様も奮って教区ニュースに情報を提供して下さるようにご協力をお願い申し上げます。

(門馬邦男)

応募された題字は、次回に全部発表させていただきます。