お知らせ
東京教区ニュース第6号
1974年04月01日
目次
神の国建設へ努力を “聖年をふさわしく”大司教が教書
パウロ6世教皇は1975年を聖年と定め、それに先立つ期間に、全世界でふさわしい準備がなされるように望んでいるが、この呼びかけにこたえ、東京教区では伝統的な聖年を単なる形式的行事とせず、特に霊的向上、霊的刷新の機会としてゆきたいとしており、白柳大司教はこのほど書面で、全教区民に次のように訴えている。
聖年とは何か
旧約時代、イスラエルの民は、祖先がエジプトの苦しみからのがれ、自由にされたことを記念して50年ごとに喜びと感謝の祭りを行ないました。レビ記(25章8〜55)によりますと、この50年ごとの年は「ヨベルの年」といって、神聖な年と見なされ、その年には貧しさのために売却された土地・家屋がもとの所有者に返され、また奴隷となっていた人には自由が与えられて、家族のもとに帰ることが出来ました。すなわち、かれらにとってこの特別な年は、イスラエルの人々に対する神の哀れみを新たに自覚して、それにふさわしくこたえるために、人間同士の不平等を少しでもなくし、かつ、お互いにゆるしあう時期でありました。
このイスラエルの民の習慣が、のちになって精神的意味で教会にとり入れられ、紀元1300年、ポニファチオ8世教皇は、その年を聖年と称し、父なる神から受けた恩恵にこたえるべく、特に償いのわざをするようにすすめられました。1470年、パウロ2世教皇は、この50年ごとの聖年を25年ごとに改めさせ、今日にいたっております。
以上簡単にのべた歴史から見ても、聖年が個人的に霊的利益を得ることを目的としたものではなく真の愛の実行と正義の実現への努力の時であることがおわかりでしょう。
テーマは和解
教皇様は、今回の聖年を始めるにあたって、全世界のキリスト者が特に和解(神との和解、人との和解、自然との和解)について考え、これがために自分たちの内的刷新を行なうよう、強く呼びかけておられます。
キリストは、十字架の死者と復活によって、ユダヤ人・異邦人というような敵意をもってわかれ争う群れに対して、その敵意を葬り、群れをひとつにして、これを新しい人につくりあげることによって平和をもたらされました。(エフェソ2章14〜16)キリストのみわざによって、人と人との和解、神と人類との和解は完成されたのです。
私たちはこの救いのみわざにあずかっているのです。そしてここに、キリストによる和解の完成という事実がありながら、私どもがなぜ事新しく和解を考えなければならないかという理由があります。それは「神は和睦の役目を私たちにゆだねられた」(2コリント5章18)とパウロがいうようにキリストが一身をなげうって私たちに与えてくださった和睦を、彼に従う者としてふさわしく、身をもって示す証しの任務があるからです。
神との和解
聖年は、神と、その子どもである私どもとの基本的関係について反省させる機会であり、同時に私どもを回心に導く機会でもあります。
この世に生をうけ、洗礼によって神の子となった私たちは、はかり知れない愛と救いの恵みをうけているにもかかわらず、それに十分こたえてない、というよりも恩恵をしばしば忘れて、不平不満のうちに日々を送っています。こうした自分を考えるとき、深い痛悔の念を禁じ得ません。「神の国は近づいた。悔いあらためよ」(マルコ1章15)という主のみことばが、強い、きびしい響きをもって迫って来るのを感じます。
現代社会は、技術的、経済的、政治的価値に多大な配慮を示しながら、超自然的な事や精神的な価値は、個人的生活においても、社会的生活においても、余りにしばしば忘れ去っています。今こそ私どもは放蕩息子の譬えのように、おのがミゼリア(悲惨な状態)を自覚し、父のやさしいふちころにたち帰ることが必要です。真の和解の唯一の可能性は、この謙虚さと信頼の態度の中に示されていると思われます。和解はまずひとりひとりが自らを反省し、その真実の姿を認め、神からいただいた恩恵をもう一度思いおこしながら、生活のすべてを神のみ旨に従わせるという、個人的回心から始まるのです。
しかし、回心は個人的なものにとどまってはなりません。「私たちの」御父のみ前に、兄弟とともに、時には兄弟のかわりに、「罪深い私たち」を自覚するという共同体的意識がたいせつです。なぜなら、私どもは神のみ前に、個別的に救いの恵みを受け、それにこたえるために生きているのではなく、イスラエル人が選ばれた民という共同体として救いの恵みをうけ、これにこたえたように、兄弟とともに救われ、ともにこたえて行くのが、キリスト者の根本的姿であるからです。私たち皆が、ひとつのキリストの体を構成しているということを忘れてはなりません。
私どもは、この地上における教会の不十分さを反省し、教会として父なる神に赦しを願うとともにまた日本人として、日本の社会のありかたを考えながら、日本のため、御父との和解につとめたいと思います。
人との和解
キリストは山上の説教において「祭壇に供え物を献げようとするとき、兄弟が何かあなたに対してふくむ所があるのを思い出したら供え物を祭壇の前において、まず兄弟のところへ行って和睦し、それから帰って供え物を献げよ」(マタイ5章23〜24)と仰せになり、神との和解が人との和解と切り離すことができないことを教えておられます。
ところで、「天にましますわれらの父よ」と毎日祈っている私たちが、父なる神のみ前に、本当にお互い同士兄弟としてつながっているでしょうか?私どもは、個人の間、団体の間、民族の間、国と国の間に、この兄弟関係がいかに不十分にしか実現されていないかを見いだし、神のみ前に恥じ入らずを得ません。そしてパウロ6世教皇の言われるように、「真理に基礎をおき、正義によって築きあげられ、愛によって統合される自由な行為」によってこの和解が推進されなければならないことを痛感します。真理、正義、愛と自由のないところに、真の平和、真の和解は、あり得ないからです。
さて、私はここで特に次の3点について注意をよびおこしたいと思います。
1、 教会の中に、年代の差や考え方の違い、性格の相違などによる意見の差異があること
は、決して珍しくありませんし、むしろ当然なことです。しかしどうしてもひとつにならなければならない点があります。それは、いつ、いかなる時代であっても、だれであっても、キリスト者である限り福音に生きねばならぬということです。具体的には、教会が神からゆだねられた正統な権威によって、福音を現代に生きる指針ととして与えてくれた第二バチカン公会議の教えに生きるということであります。
この公会議こそ教会の正しい伝統に立脚しながら、われわれの新しい生き方を示したものでありこれを離れて私どもの信仰生活はあり得ないといっても過言ではありません。教区の全員が、この公会議の線路を神の導きとして謙虚に受けいれ、さらに強力に実践に移して行くという点で一致が行なわれることを、強く要望したいと思います。
2、 私どもが忘れてならないのは社会の中だけでなく、教会の中にさえ見られる差別という
問題です。財産・健康・職業他、いろいろな面において、私どもは差別していないと云い切る自信があるでしょうか。
人手や資金のたりない施設のことを考えているでしょうか。健康にすぐれない人々、体の不自由な人々のための配慮が教会の中で、どれだけなされているでしょうか。
富んでいる教会と貧しい教会とがあるとき、これに無関心でいるのではないでしょうか。日々の労働に追いまわされている人々の待遇改善や、そのために努力している人々の苦労を、真剣に考えているでしょうか。教会を離れて行った人々のことを忘れてしまってはいないでしょうか。見捨てられた老人、その他困っている人々のため、どれだけ努力しているでしょうか。
右に指摘したような差別に関する反省を、私どもはキリスト者として、さらに地域社会についても行うべきことは云うまでもありません。私どもが社会の人々に対して差別を行ってはいないかという反省はもとよりこのこと、社会の中で差別が行われているのを傍観してしているのではないか、ということについても考えなおす必要がありましょう。
3、 いわゆる先進国といわれる国に属する私どもは、和解という点からもエネルギッシュに働く使命をもっています。それは、開発途上の国を日本経済発展のための道具として使うようなことはしないという消極的態度にとどまることなく、同じ神を唯一の父として持つ兄弟として、かれらの希望と権利を認識した上で、積極的関係を結ぶべく各人が努力するという姿勢であります。
日本の社会がこの点について、直接、間接、神のみ心に反している現状を痛み、赦しうを願いつつ、父なる神のみ旨「神の平和」が広く行きわたるよう、努力を誓いたいものです。
自然との和解
このことばは耳なれない響きをもつかもしれませんが、特に現代の日本にとって,重要な意義をもっています。
ヨベルの年が定められたとき、神は「地は私のものである。おまえたちは私のもとにいる他国の者滞在者だからである」(レビ25章23)と仰せになり,この自然界が本質的に神に属し、私ども人間が私利私欲のために使うべきでないことを教えられました。自然は神につくられたものであり、現在だけでなく,将来の世代も,より人間的な、より精神的な生活を営むことができるために必要な環境であります。
聖パウロはローマ人への手紙の中で、「神の見えないところ、すなわちその永遠の力と神性とは、世の創造の時以来、そのみわざについて考える人にとっては見えるものである」(1章20)といって、自然が神の栄光のあらわれであることを強調しています。ところが、日本の最も美しい伝統のひとつである自然への愛、自然の観想は今大きな危機に瀕しているのです。
私どもが自然を考察するとき、救いの歴史の中でこれをとらえなくてはなりません。同じローマ人への手紙の中で、パウロは、「全被造物は、切なるあこがれをもって、神の子らのあらわれを待っている。・・・神の子らの栄光の自由のあずかることを希望している」(8章19〜21)と述べ、自然を含む全被造物が、私たちとともに救いの歴史に参与し、あがないのわざに浴し、新しい世界に入っていくというほど、私どもと結ばれていることを示唆しています。
従って、人為的な環境破壊、自然にさからったおこないを反省するだけでなく、信仰の目をもって救いの歴史の中に、神の国の場として、私どもと深いつながりのある自然界の役割を見る心を養いたいものです。
結び
以上のように、神と、人と、自然との和解を考えるとき、私どもは神のみ前に、隣人に対し、いかに大きな負い目をおっているかに気づき、深い痛悔の念を覚えずにはいられません。この痛悔をふまえた和解こそ、すべての霊的刷新に基本的に要求されるものであることを思い、摂理的に与えられた聖年のこのよき機会に、教区内のすべての教会、修道院、施設、団体において、真剣な反省がなされ、神の国建設への努力が一歩一歩なされることを願ってやみません。聖年の意図するものは一時的な大きな活動ではなく、内的刷新を基礎とした地道な努力なのです。
具体的な内的刷新運動のありかたについては、それぞれで考え、実行していただきたいと思いますが、後日、教区としても何らかの示唆を与えたいと思っております。
「キリストは苦難を受けて栄光に入られた」(ルカ24章26)私たちもそれぞれの立
場によって行なうことの出来る日々の小さな努力を積み上げながら、キリストの栄光に
与り、喜びのうちに復活祭を迎えることが出来るよう、お互いに努力してまいりましょ
う。
1974年3月19日
白柳 誠一
教区の皆さんへ
布司協の現況
布司教の活動や、ブロック会議の成果についての検討と将来への展望のために拡大布司協あるいは合同ブロック会議の開催日程が、きまった。これは代議員会が行われるほどには各機関の内容が醸成されていないという現状から、代議員会に代わるものとしての臨時処置である。
1、 各委員会・事務局からの予算要求と活動計画報告 3月3日まで。
2、 運営委員会で予算原案と活動方針案作成 3月18日。
3、 布司協で予算・活動方針案の決定 3月28日。
4、 各委員会および各ブロックで昨年度の活動報告作成提出 3月末日まで。
5、 活動報告のまとめ作成、布司協に提出 4月25日。
6、 各ブロックで予算・決算・活動方針・活動報告の検討 5月中のブロック会議。
7、 拡大布司協(あるいは合同ブロック会議)で予算・決算・活動方針の承認 6月某日
なお、その規模、構成、時期もできるだけ早く決める。
ひろば 対話の小さな場に
教区ニュースは現在まで6回発行されたが、その様式はあくまで暫定的なものであり、編集の根本方針もさだかではなかった。このほどひらかれた広報小委員会で、このニュースを教区の公の機関紙と定めることに意見の一致を見たが、ニュースの性格規定のような重大なことがらは、教区運営委員会を通じて、布教司牧協議会に報告、そこで正式に承認されるべきものである。
ところが、その布教司牧協議会は3月28日に開かれることになっていた。復活の主日をメドに発行しようとするためには、原稿締切りの関係上、実際にはそれが承認される以前に、あたかも承認されたものとして、その性格にのっとってすべての記事を書かねばならぬという冒険があるわけである。
しかし、たとえ、このニュースがどのような性格のものになったにせよ、かわらないものはこの「ひろば」欄だけのように思われる。何故なら、すべての出版物には、たとえそれが機関紙的性格をもつものであれ、何であれ、それが建設的なものであるなら必ず読者からの声を反映する欄が残されていてよいからである。
もしこのニュースが教区の機関紙となる以上、その性格は上意下達の色あいの濃いものになることは論をまたないが、これは決して「おしつけ」や、「一方通行」と解せられるべきものではなく、教区共同体の一致と協力のための指針として提示されるべきはずのものである。
しかし現状では、どんな社会にあっても、一致と協力は対話なしにはあり得ずまた対話を反映しない指針もまた無力である。このように重大な共同体内の対話と教区民の声のすい揚げの場は、もち論ブロック会議など別のルートで正式に用意されているが、ニュースの紙面もその小さな1つの場としての役割を、同時にになうものであることを忘れてはならない。
その意味で、第2号に「みんなの声」という欄が特に設けられたことがあったが、今後はこの「ひろば」を「みんなの声」をもふくむものとしたい。(教区ニュース編集係)
あした葉
こんどの聖年のメイン・テーマは「和解」であるときく。そこには神との和解、人との和解、そして自然との和解が3つの柱になっているという。「和解」とはやさしくいえば「仲直り」ということだろう。神との仲直りは「告解」によって、人との仲直りは「愛の実行」によってなどと、早くも口先だけで調子よくいっている向きもある。自然との和解ともなればすぐに公害のことが頭に浮かぶ。文明の魅力にとりつかれ無秩序に自然を傷つけた結果、同じ自然から報復をうけた人間は、それでは結局損になるからこのあたりでと、これまた手前勝手な動機で仲直りを考えたりしている。▼いうまでもなく和解は「切り離された関係」を前提としている。2つのものかに切り離されるということは古来から、そのまま、悪とか、罪とか、死の形面上学であった。「決裂」「分裂」「離反」「反逆」「離別」「分離」「差別」など書きだせばきりがない、これらの言葉はみな一致である和や愛とは、正反対の「断絶」の概念をあらわしている。「原罪」という名をかりるまでもなく、人間がおりなすこのザマは、歴史の最初において人間が神との関係を、自らの責任で切り離したことに起因している。「断絶」えお、いわば人間の業(ごう)として終生経験してゆかねばならないということは悲しく、恐ろしいことだと思う。▼しかし、キリストは丁度この「断絶」を克服するためにやって来た。彼のもたらしたものが、人間と神との和睦であり、これにもとづいて、すべての断絶との戦いに凱歌をあげたことは、彼自身の復活であるとともに、人類そのものの復活にほかならない。このことを信じている少なくともわれわれキリスト者にとっては「断絶」は人間の「業」だからなどといって、これに挑戦することを放棄してしまうことは許されない。その戦いがいかに困難なものであったとしても・・・。キリストは、それに必要な原動力をわれわれに与えてくれるはづだ。否、復活したキリストはそれ自身が、その原動力なのである。(S・A)
靖国神社に対する 教会の態度は変化か? 前向きの判断を 浜尾司教が回答
東京教区では、先に開かれた教区大会の決議事項の1つである「靖国神社国家護持法案反対」を具体化するため、昨年10月より署名などを中心に教区規模で反対運動をすすめてきた。政治にかかわりの深いこのような運動を、教区規模で行うことは画期的なものとして各方面より注目されたが、一方では「靖国神社」についての教会の態度に中に矛盾を感ずるものとして必ずしも良心的にこの運動に参加できないとする声も出ている。このほど浜尾補佐司教は、白柳大司教の意を体してこの問題の答え、かさねて教区としての見解を明らかにした。(なおこの回答で引用した資料は、すべて司教館に保存されている)
東京教区では、昨年来、靖国神社国家護持法案反対運動が行われています。この運動は教区大会の第一部会がとりあげた問題で、大会の結末である大会代議員会では法案反対の決議がなされました。さらに布教司牧協議会でその具体化が考えられ、その実行機関である靖国問題実行委員会の手によって、現在も反対運動が続けられています。
しかし、その実行にあたって、ブロック会議や母体からいろいろな質問や問題が出されました。
そのうち最も大きな論点は、次の問題です。
「戦前・戦後の教会は、靖国神社が宗教でないという判断をしていた。ところが、戦後、何ら公の宣言もなく、靖国神社を宗教とし、その国家管理に反対している。この態度の変化は理解できない。」
この問題について、私は白柳大司教から依頼を受け、当時の資料等を調べました。その結果を、大司教の意を体して、次のように発表し、おこたえしたいとおもいます。
1、 戦前、戦中の靖国神社参拝に関する教会の姿勢
昭和の初め、国家によって、高校の生徒が靖国神社の参拝を強制された事がありまし
た。このため、カトリック信者はもちろんのこと、ミッションスクール全体が苦境におちいりました。このときにあたり、その弾圧から救うため、教区長は文部省およびローマ聖座の意見をたずね、聖座から靖国神社参拝が宗教行事でないという返答を得て、信者の靖国神社参拝を許可したのです。
このときの文書は次の通りです。
1936年(昭和11年)5月26日付ローマ布教聖省から教皇使節パウロ・マレラ大司教にあてた「日本のカトリック教徒の祖国に対する義務について」の指針(主要部)
たびたび日本国内でカトリック信者がキリスト教と異なる宗教の儀式への非参加を余儀なくされているという事実について、いかに身を処するべきかの質問を受けている。これについて、まず、1659年当聖省が宣教師に対し与えた指針をよびおこしたい。(中国に布教するパリ外国宣教師に対しての指針)、「決してその国と民族の習慣に、それが本質的に悪でない限り、不必要に逆らうよう信徒を導いてはならない」従って宣教師はまず日本人の愛・国心と忠義心を認め、尊重しなければならない。
日本人が愛国心を示す外的行為は、それがかっては宗教的要素を含んでいたにしても、本質的に悪ではなく、それ自身無色である。それはただ単に愛国心、忠誠心の国民的行為にすぎない。これらのことは日本の権威ある者の証言によって一度ならず宣言されている。すなわち、国家神道(神社)と宗教的神道を区別すべきであるということである・・・。
1932年(昭和7年)9月22日、東京教区長A・シャンボン大司教は、鳩山文部大臣あてに、「カトリック学生が国家神道の神社、祖国のために戦死者をまつった神社に参拝を強制されることから生ずる困難さについて意見を伺いたい。日本のカトリック信徒が祖国愛および忠誠を否定するのもでは決してないが・・・自ら信ずる宗教と異なる宗教の儀式に参加することに良心の反対を余儀なくされるという重要な問題がある・・・以上の神社参拝(頭を下げて拝む態度)は、愛国心と忠誠の表現か、宗教的行事か」という質問を出した。これに対して、同9月30日付雑宗140号をもって、粟屋文部次官は次のように答えた。「9月22日附をもって、照会の学生、生徒、児童を神社に参拝せしむるは、教育上の理由に基づくもので、この場合に学生、生徒、児童の団体が要求せらる敬礼は、愛国心と忠誠を表すものにほかならないのである」
このことは、1899年(明治32年)8月3日の法令でも明らかである・・・
専門家の意見をきき、特に1890年の長崎シノドス、駐日教皇使節E・ムーニーおよびP・マレラ両大司教、および日本の司教たちの意見を聴取したうえ同聖省の高位聖職者とともに5月18日に設けた会議の結果、次の指針を出すことに決定した。
(1) 日本の教区長たちは、神社において国家的儀式が公に行なわれる場合、有識者間の常識として、愛国心すなわち天皇家に対する尊敬と、国家のためにつくした恩人に対する尊敬の表明を目的とするものである限り、これらの儀式は単に国民的行事であるため、カトリック信徒が他の者と同様参拝してようと教えるべきである。ただし誤解を招くおそれのある場合、参列の意図を明らかにすべきである。
(2) 同じく教区長は、一般社交上、例えば葬式、結婚式その他の私的儀式が行なわれる場合だといそれらが元来は他宗教にその起源を発していても今日においては有識者間の常識によって宗教的意識が失われていると認められる場合には、カトリック信者に他の者と同様参与することを許可してよい・・・
ローマ布教聖省にて
1936年5月26日
長官 P・ビオンディ
秘書 C・コンタンティニ
日本の教会に関する聖座公文書集第2巻150ページ(「日本カトリック新聞」昭和11年7月26日版第562号参照)
2、 当時の教会の姿勢
明治維新後、宗教的神道の中から特定の神社が国営化され、次第にそこの儀式が国家行事となり、大正、昭和初期に至ってますます軍国主義の当時の政権の国政に利用されて来たことは、皆さまもご存じと思います。
前述のように、この時期に神社参拝の強制があり、信者全体の大きな良心の問題となって来たわけですが、当時の東京教区長シャンボン大司教は、教皇使節マレラ大司教とともに、信者の良心の問題解決のため、文部省はじめ日本の有識者の意見をたずねながら、参拝が信仰上の良心に反しない道をローマの回答に見いだすべく努力されたのです。当時、キリストの信仰の立場から参拝を拒絶することが、信者個人はもとより、その家族、さらにミッションスクール全体に対して行なわれる軍国主義国家の迫害を避けることが出来なかった事態にあって、信者を助ける最大限の努力であったことは疑うことが出来ません。
さらに注目すべきことは、当時教会は、靖国神社が宗教であるか否かを文部省や聖座に質問したのではなく、神社参拝が宗教行事か否かをたずねたということです。信仰の本質に鋭く対立しない限り国の弾圧から信者を守る道を見いだそうというのが、教区長の主旨であり、そのための質問であったわけです。
3、 戦後20年を経た今日の教会の姿勢
戦後靖国神社が法律的には宗教法人になったにもかかわらず、その国家管理という問題がふたたびとりあげられて来ました。
一方、教会も過去のにがい体験をもとに、国家と宗教との問題を深め、特に第二バチカン公会議以来、大きな変化を遂げました。教会は信仰の自由を強く主張したのです。
たとえば、
本バチカン公会議は、人間が信教の自由に対して権利を有することを宣言する。このような自由はすべての人間が個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、従って宗教問題においても、何びとも自分の良心に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の良心に従って行動するのを妨げられることのないところにある(信教の自由に関する宣言 第2条)
として、信教の自由がどこにあるかを述べ、さらに第3条で、自分の信仰、良心に反する
行為を強制されるべきでないことを、次のように宣言しています。
実際、宗教の儀式は、その性質上、第一に人間が自己を神に関係づける任意かつ自由な内的行為にある。このような行為は単なる人間的権力によって命じることも妨げることも出来ない。・・・なお人間が自分の判断によって私的または公的に自己を神に関係づける宗教行為はその性質上、地上的、現世的秩序をこえるものである。それゆえ、現世的共同善をおもんばかることを本来の目的とする俗権が、市民の宗教生活を認め、かつ奨励するのは当然であるが、万一宗教行為の指揮あるいは阻止を考えるとすれば、それは自らの限界を越えるものといわなければならない。
公会議は、宗教がその本質上いかなる国家とも結びつくことを否定し、キリスト教を国教
とした事実を反省し、一宗教が国家の政策と結びつくことが出来ないことを決定しました。
さらに、靖国法案で提示されている死者の問題は、本質的に宗教に属する分野であるこ
とも述べています。(例「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」第
1条参照)
4、 昭和の始めと現在との教会の姿勢の変化について
先にも述べましたように、以前は、国家の重圧という環境の中で信仰の本質を失わずにいかに教会全体への弾圧を避けて行くかということが、司牧者の最大の関心事でした。そして、参拝という行為が宗教行事であるか否かの判断を当時の有識者や政府や聖座に仰いだわけです。
戦争がおわって過去が反省され靖国神社も宗教として宗教法人となったにもかかわらず、今ふたたび政治と結びついて、国家管理になろうという動きが見えます。
教会もこの間、政治と宗教の問題を深め、両者が別個の道を進むべきことを確信しました。そしてこの信仰の自由という立場から見て、靖国法案はそのおびやかしを内蔵していることを予見し、過去のにがい経験をくりかえさないことを求めています。
私たちだれもが人類の平和を望んでいます。そして宗教が国家権力からまったく自由であることなしには、真の平和はあり得ません。私たちはこの姿勢から、他者に判断をまかせるのでなく、教会独自の立場から、靖国神社の問題を主体的に考え、この法案に反対していこうとしているのです。
過去の司牧者の態度が、現在から見れば不十分であったかもしれません。しかし同時に私たちも将来においてどのように判断されるかわかりません。戦時中の司牧者が、委ねられた羊の安全を守らんがために、信仰に反することなく道を見いだそうと努力したことについては、それにふさわしい評価をくださなければならないのではないでしょうか。(浜尾文郎)
靖国反対に署名2万 カンパも13万円余
教区大会の議決事項の1つ、靖国国家護持法案反対運動の一環として、カトリック靖国問題実行委員会を推進機関に、昨年10月よりはじめられた請願署名運動は教区内外に大きな反響を呼び、多くの讃同者を得てこのほどその署名数、衆議院あて9,412名、参議院あて9,361名に達した。
同委員会では一応これをとりまとめ、4月4日、衆、参両議院議長に請願書として提出した。
なお、同運動のための資金カンパも各方面よりの絶大な支援により、総額135,060円に及んだ。この紙面をかりて協力者各位に深く感謝の意をあらわしたい。同委員会では今後とも法案の成立、不成立にかかわらず、あくまで反対の努力を続けていくつもりである。(靖国問題実行委員会)
この児らと共に 荻窪「シオン会」
信者会館の南側にある日当たりのよい保育室から元気な子供達の声がひびいて来る。その声は底抜けに明るい。保育室一杯に拡げられた白い紙の上に5人の子供達が座りこんで好き勝手なことをしている。1人の子供は自分の真白な靴下に色をぬっている。もう1人の子は手いっぱいに色をつけて、紙の上にその手型をつけてにっこり笑っている。1人の子は白い紙からはみ出し、背をみんなの方に向けて、座りこんでいる。手にもった粘土をまるくしたかと思うと、すぐに崩してしまい、こんどは四角なものを作る。天衣無縫、天真らんまんといおうか、そこには社会の掟も自然の掟もない。その子供達は自分の能力を出しきって遊んでいる。しかしこの子供達は、自分で食事することも出来ず、また、自分で靴もはけないでいる。洋服を着替えることも出来ない子供達なのだ。でもその瞳は、青く澄んだ空の様に、非常に美しく汚れていない。
水道の水を出しっぱなしにして水の感触を楽しむ子供、こうした感触の感覚を身につけた知恵おくれの子供達は、第2ステップとして、その子供なりが持っている知的能力を遊びの中で伸ばしていく。積木を重ねたり、おしゃべりをしたり、絵を書いたり、自分の力で自分の体に感覚機能を作用させる子供達、こうして、「しおん会」で育った知恵おくれの子供達は2年、3年たつと、自分で靴をはく能力をもち、自分で洋服を着替えようと努力し、自分の手で自分の弁当を食べようとする。簡単な作業にも、時間が普通の人より2倍も3倍もかかることがある。でも子供達は、自分でそれをやりとげたという喜びを胸一杯にふくらませている。
「しおん会に子供を入れて家庭が明るくなった」という知恵おくれの子供のお母さん、私達は1つでもこういう喜びにあふれる家庭が増えてゆくことを切に神に祈っている。
父である神から、尊い生命を賜りこの世に生を受け育った子供達。しかしこうした子供達にまじって不幸にもいろいろな障害により、知恵おくれとなった子供達がいる。その数は日本全国で300万人近いともいわれている、この子供達を1人の人間としてそのあり様を理解し、子供に適した良き環境と適切な指導の中に育ってゆくとき、神の子としてすばらしい人間形成がなされゆく。ところが、この知恵おくれの子供達を育てる施設は、日本全国でわずか374、約2,500人の子供しか保育できないのが現在の社会福祉の現状である。
こうした知恵おくれの子供達が1人でも多く社会生活ができる人間に成長するようにと、カトリック荻窪教会の信徒の総意によって昭和41年10月に知恵おくれ幼児保育グループ「しおん」が設立されカトリック精神にもとづいて知恵おくれの子供達の保育にあたっている。(荻窪教会運営委員会)
ブロック便り
合同ミサを計画
「城西」
布教の協力態勢について、引続き問題提起されている。ブロックとして取り上げている1つに、「心のともしび」利用があげられる。最後のページを白紙のまま一括購入し、そのページは、ブロックの動き、小教区案内、外部への宣教等を印刷し、教会内外を対象に配布する。既に「心のともしび」を小教区単位で利用しているところもあり、今回は小教区、女子修道会等10母体で5,000部程度の利用が予想されている。
いま1つの課題は合同ミサの開催予定である。まだ準備の段階で早ければ6月頃になるが、合同ミサは聖心女子大学の聖堂であげられ、一致のための画期的な行事として盛大に行なわれることが期待されている。
最近目立つことは、会議員の欠席者の多いことである。前回の出席者は約半数になっている。小教区、修道会、その他各母体の代表として出席することを再認識する時ではないだろうか。会議員個人が、浮き上がってしまわないよう母体への積極的働けかけと意義の重要さを自ら反省することにより本年は一層の努力を全員期待する。
「城北」
ブロック会議が布教司牧協議会の下請けでないように、そしてまた各母体の監視機関とならないようにと運営委員(ブロック会議員の互選による5名と布司協委の4名計9名)は今年も昨年に増して努力することを1月の運営委員会(7日)で決心を新たにした。「城北」と云うニュースが隔月に出され、各母体に届いているので、知ろうと思う人にはかなり豊富なニュース源となる。
幸いにも、城北ブロックからの不司協委4名のうち3名が教区運営委員会のメンバーに推されているので、そちらからも情報が入りやすくなっている。
各母体を大切に
運営委員会はブロック会議の2週間前に開かれ、報告、議題等が整理され、ブロック会議員の手許には10日前に配られる。そのため必要な事務については、母体会議を開き、その意見をブロック会議の席上で発表できよう。
ただ、どうやって母体の各構成員に理解してもらえるかが常にわれわれの頭痛の種である。結局は時間をかけて、わかりやすいPRをつづける以外に術はないと思い、その努力をつづけている。
「多摩」
武蔵野西として誕生、途中、多摩と改名して育って来たブロック会議は、新しい年で「石の上の3年目」を迎えた。
屠蘇気分の未だ醒めやらぬ1月13日には、はやばやと運営委員会を、さらに1月27日には本年第1回のブロック会議を開き、今年の活動計画が検討された。
高校生錬成会も
昨年3月31日から4月1日にかけて行なった多摩の「夜間錬成登山」は、ブロック内だけではなく、司教をはじめ、ブロック外からも多数の参加者があって、ブロックの活動として大きな反響をまき起したが、今年も、3月30日夜から31日にかけて実施。多摩という地域的な利点もあるがこれが教区全体の活動に輪を大きく拡げることも期待されている。
夏休み中の中学生錬成会も昨年と同じテーマで8月中に行なう予定。はじめて合宿した中学生たちは、その後も連帯し、昨年のクリスマスは、合同クリスマス会を開くなど、キリストの少年兵として活動しはじめた。成長期の高校生に対する錬成会も、今年の新しい目玉商品として検討されている。
「あけぼのは早や過ぎて、陽は多摩に昇った。」の大きな抱負を抱いて、ブロック員全員が充実した日々を送る新しい1年となろう。