カトリックとは

カトリックとは

カトリックとは

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ福音書22章37-39)

今から2000年前、現在のパレスチナ地方で、イエスは人々にこのように説きました。イエスが説いたことは、神はすべての人の父であり、父である神は苦しむ人間の姿を見て「はらわたがちぎれんばかりに」いつくしんでくださる方だということ、そして、神がすべての人の父であるならば、すべての人はみな兄弟姉妹であるということでした。

イエスが説いた「愛(アガペー)」とは、好き嫌いとは関係ありません。それは「大切にする」「尊重する」という意味のことばです。すべての人が違いを超えて、同じ神の子として自分自身を、そして互いを大切にし合う世の中を実現させようと、そんな世の中こそが「神の国」なのだと、イエスは人々に語ったのです。

イエスはこの想いをことばで語っただけでなく、実際の人々との出会い、関わりの中で伝えました。特に貧しい人、病気の人、心や体に障害を負った人、差別されている人、そして罪人として社会から軽蔑されている人や、異民族・異教徒とさえも親しく交わり、その人たちを友と呼び、同じ食卓を囲みました。このイエスの活動は、多くの人の心に信頼と希望と愛を呼び覚まし、イエスに従う多くの弟子が集まってきました。

そんなイエスの教えは、当時のユダヤの社会的・宗教的指導者たちには理解できない、許すことのできないものでした。イエスの活動は彼らの反感を買い、ついにイエスは捕らえられます。かつてイエスを称えた人々もイエスをあざけり、弟子たちさえも師を見捨てて逃げ去りました。そしてイエスは十字架刑というむごたらしい方法で処刑されてしまいます。

イエスの死から三日目のこと、墓に葬られたはずのイエスの遺体が消え去ります。そして、人々から隠れて過ごしていた弟子たちのもとにイエスが姿を現します。その後もイエスは何度も弟子たちの前に現れ、生前と同じように弟子たちに教えを説き、同じ食卓を囲みました。この、単なる肉体のよみがえりとも幽霊とも違う不思議な出来事を、キリスト教では「復活」という言葉で表します。

復活から四十日が過ぎ、イエスが天に上げられます。残された弟子たちはもはや隠れることをやめてイエスのことを人々に語り始め、イエスを信じる人々の集いが生まれました。これが「教会」です。教会は、イエスを神の子、キリスト(救い主の称号)と信じ、イエスが説いた愛に従って歩もうとする人々の共同体です。なお、人がキリスト信者になる儀式として、最初の時代から「洗礼」が行われてきました。

神の子であるイエスが人となってこの世に生まれたこと、全ての人の罪をその身に背負って償うため、全ての人の罪が赦されるために神の子であるイエスが十字架上で死んだこと、そしてイエスが死に打ち勝って復活したことは、キリスト教の信仰の中心です。