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教会学校リーダーの皆さんへ 

2011年07月24日

教会学校リーダーの皆さんへ
「東京教区こどものミサのお知らせ」

 

2011.7.24
東京教区教会学校委員会

 

2011年度東京教区「こどものミサ」

 

【日時】  2011年10月9日(日) 午後2時~5時

【場所】  東京カテドラル関口教会「聖マリア大聖堂」&前庭 

【テーマ】 「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3) -神さまに信頼して生きる-

⇒ミサで歌う曲、参加申込みハガキの控え

※9/16 音源を追加しました。

 

今年も東京教区主催の「こどものミサ」が、10月9日(日)午後2時から、東京カテドラルにておこなわれます。「こどものミサ」では、毎年参加される小教区ごとに、テーマに基づいた奉納物を準備していただき、当日のミサで奉納するという形をとっています。

そこで、今年のテーマについて、テーマに関するカテケージス(教え)、奉納物など、教会学校リーダーの皆さんに、当日までに子どもたちと共に準備していただきたい事についてお知らせします。

 

1.テーマについて
テーマとなっている聖書の箇所についての説明です。子どもたちとより豊かな準備が出来る様に、リーダーの皆さんもテーマとなっている聖書の箇所を深く味わってみてください。

2.カテケージス(教え)
「テーマについて」の資料を参考にしながら、子どもたちにカテケージス(教え)を行ってください。

 3.奉納物の説明
製作していただく奉納物についての説明と注意点、製作時のヒントなどをまとめました。ご確認ください。

 

1.テーマについて
「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3) 
 -神さまに信頼して生きる-

今年のテーマとなっている聖書の言葉は、ガリラヤのカナで行われた婚礼での、母マリアの言葉です。宴会でぶどう酒が足りなくなっているのに気付いて、イエスさまにこう告げたのです。最後には婚礼の宴会は大量の良質のぶどう酒で満たされましたが、そこには母マリアの大きな信頼がありました。ヨハネ2章1~11節を一度お読みいただきたいと思います。

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスさまの母がそこにいました。イエスさまも、その弟子たちも婚礼に招かれました。

ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスさまに、「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。

イエスさまは母に言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」

しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてありました。いずれも二ないし三メトレテス入りのものでした。(*1メトレテスは約39ℓ)

イエスさまが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしました。イエスさまは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われました。召使いたちは運んで行きました。

世話役はぶどう酒に変わった水の味見をしました。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていましたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言いました。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」

イエスさまは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現されました。それで、弟子たちはイエスさまを信じました。

 (ヨハネ2章1~11節参照)

この箇所は「カナでの婚礼」という小見出しがついているところで、イエスさまのなさった最初の「しるし」です。水がぶどう酒になったという喜びの出来事なので、聖書の出来事の中でも記憶に残る物語です。またこの出来事は「三日目」の出来事として、ご復活の喜びの光が重ねられています。

今回の「こどものミサ」では、テーマとして「ぶどう酒がなくなりました」という母マリアの言葉を選び、また、-神さまに信頼して生きる-をサブテーマとしました。物質的にも、精神的にも、何かが「なくなってしまう」「欠けてしまう」「不足してしまう」・・・ことを経験しながら生きているわたしたちが、そのような中にあっても、いつも神さまに信頼して生きることができるように、一緒に祈る時となるように願って、テーマを設定しました。ここでは福音書の言葉に解説を加えながら、テーマについて説明したいと思います。

 

「ぶどう酒がなくなりました」

三日目にガリラヤのカナで婚礼がありました。先にも書きましたが、この出来事は「三日目」の出来事。ヨハネの福音書はこの出来事を復活の喜びの光の中で眺めています。もちろんこれは、イエスさまが復活されるより前の出来事です。しかしこの出来事にご復活の光と喜びを前もって見いだしているのです。

さて、イエスさまの時代の婚宴は普通1~2週間にもわたって続けられたそうです!その際ぶどう酒はなくてはならないもの。ぶどう酒がなくなるということは、喜びの終焉、あってはならない大失態でした。

婚宴に招かれていた母マリアは、ぶどう酒がなくなりかけていることに、いち早く気付きました。そしてイエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と告げたのです。

わたしたちは、すぐにいろいろなものが足りなくなってしまったり、欠けてしまったりします。自分の力ではどうにもならないことも多いのです。しかし、母マリアは配慮の方であり、それらの不足にいち早く気付いて、その窮状をわたしたちに代わって、神さまの前に執り成してくださる方なのだと思います。 

 

「わたしの時はまだ来ていません」

それに対して、イエスさまはちょっとびっくりするようなお答えをなさいます。

 

  「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」

 

母マリアの申し出に対して、はっきりと断りを表明しておられるのです。

また、「婦人よ」という呼びかけは丁寧な言い方ですが、自分の母に向かって言うには奇妙な言葉遣いです。しかしこの表現を通してイエスさまは、母マリアを、「一人の息子の母」であることを超えた使命を受けた方として呼びかけておられるのだと思われます。そしてこの呼びかけは、「まだ来ていない」と言われる「わたしの時」という言葉にも深く関連しています。

ヨハネの福音書の中で「わたしの時」とは、十字架の時。死と復活を通して栄光を現される時です。イエスさまは後に「父よ、時が来ました」(ヨハネ17・1)と言われますが、それはまさに、裏切り者のユダが、イエスを引き渡すために最後の晩餐の席から出て行った夜のことでした。そういう意味で、イエスさまにとって今日の箇所は、「わたしの時はまだ来ていない」・・・という時なのです。

また、驚かれるかもしれませんが、ヨハネの福音書に母マリアが登場するのは、実は2回だけです。今日の箇所と、あとはイエスさまの十字架の下に立たれる場面だけです。

そして、そこでもイエスさまは母マリアに「婦人よ」と呼びかけておられるのです。

 

「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』」(ヨハネ19・26)

 

「婦人よ」という呼びかけは、明確な意図をもって用いられていると思います。

イエスさまは自分の母親に「婦人よ」と呼びかける時に、旧約のエバが「すべて命あるものの母」となったように、自分の母親が「すべてのキリスト者の母」となる、「新しいエバ」となる使命を見ておられるのではないかと思います。

 

「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」 -母マリアの信頼-

イエスさまのはっきりとした断りの言葉にも関わらず、母マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。ここに母マリアのイエスさまへの大きな信頼があると思います。

わたしたちは人を信頼して心を通わせていても、軽い拒絶にあっただけで、もうすっかり相手の所から自分を引き上げて来てしまうということがあるかもしれません。「はいはい、わたしが悪かったです!」とか言って、亀が首を引っ込めてしまうように、相手の所から心も体も引き上げて来てしまうかもしれません。もう眼差しさえ、そちらに向けないようにしてしまうかもしれません。しかし、母マリアは、イエスさまへの信頼から少しも動きません。

「信頼する」ということばは、英語でいうと、「believe in」です。「in」ということばは「中に」という意味です。だから、相手を信頼するなら、自分を相手の「中に」置くことになります。感覚的な言い方になりますが、母マリアは、まるでイエスさまの中に立って、そこで生きておられるかのようです。

「ぶどう酒がなくなりました」という窮状を携えてイエスさまの中に立たれます。そして「わたしの時はまだ来ていません」というはっきりとした拒絶を受けた時も、イエスさまへの信頼の中からまったく動きません。そしてイエスさまへの信頼というその場所から召し使いたちに、

「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」

と言い、信頼という歩みを教えておられます。この母マリアの姿のうちに、わたしたちが学ぶべき、-神さまに信頼して生きる-といういのちのありようの、具体的な姿が見えているのではないかと思います。具体的ないのちの置き所が見えているのではないかと思います。イエスさまというお方の中こそ、わたしたちのいのちの置き所です。そしていつもそこに留まる方、母マリアのいる所、それが神さまを信頼するという場所なのだと思います。

聖母マリアという方は信頼の内に、イエスさまの内に自分の存在のコンパスの針を置いて、何があってもそこから離れませんでした。そしてそこで自由に神さまの平和という輪を描いて生きたのです。

人生の歩みの中には、「どうしてこんなことが」という言葉が口に上ってしまうような、理解できないできごともあると思います。今回の震災にしても、「なぜ」ということを問うならば、その答えは見つかりません。しかし、神さまへの信頼という場所に留まり、そこで生きることの恵みと力をこの聖書の物語は教えてくれているのではないでしょうか。

 

「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった」

ユダヤ人は宗教的な汚れ・清めに敏感、厳格で、食事の前後に清めを行いました。そのための石の水がめが六つ置いてありました。それはいずれも80~120リットルは入る、大きなものでした。

「六」というのは象徴的な数字です。ユダヤ人にとって完全数(全体を表す)は「七」ですから「六」は不完全を表します。「清めに用いる六つの石の水がめ」とは、ユダヤ教の律法の掟の遵守によっては、完全ないのちと喜びに至らないということを象徴しています。しかしイエスさまはそれを乗り越え、まことのいのちと喜びに至る、栄光を表されるのです。

 

「水がめに水をいっぱい入れなさい」

母マリアの絶対的な信頼が、イエスさまからの最初の「しるし」を導き出したのでしょうか。一旦お断りになったイエスさまは召し使いたちに、 

「水がめに水をいっぱい入れなさい」 

と言われます。

母マリアに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言われていましたから、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしました。母マリアの言葉を通して、召し使いたちはイエスさまの言葉に従う者となっていました。イエスさまは

 

「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」

 

と言われました。召し使いたちは運んで行きました。

ぶどう酒に変わった水の味見をした世話役は、このぶどう酒がどこから来たのか知りませんでした。

それで花婿を呼んで言ったのです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」

このぶどう酒はイエスさまのところから来たのです。

信頼のうちにイエスさまの中に留まった母マリアの言葉を通して、イエスさまの言葉に留まった召し使いたちの業は、良質の、しかも大量のぶどう酒へと変えられました。そしてそのぶどう酒は、驚きをもって宴会の喜びの中に供されたのです。

イエスさまはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現されました。それで弟子たちはイエスさまを信じました。最初にも書きましたが、今日の出来事を通して、その向こうに、復活の栄光を現されるイエスさまと、それによってイエスさまを信じる弟子たちの姿が見えるかのようです。

最後のしるしである、「十字架の死と復活」を通して、イエスさまは、死による喜びの終焉を、永遠のいのちによる喜びの充満に変えてくださるのです。

 

 

「ぶどう酒がなくなりました」

わたしたちは、物質的にも、精神的にも、すぐにいろいろなものが足りなくなってしまったり、欠けてしまったりします。そして自分の力ではどうにもならないことも多いのです。今回の大震災においても、多くの人の命が、家が、仕事が、そして安全や安心が失われました。まさに喜びが枯渇してしまう危機に晒されている時と言うことができます。

今日の福音は、そんなわたしたちに、神さまに信頼して歩む道を教えてくださっていると思います。

不足や欠乏の窮状を持ったまま、イエスさまへの信頼の中に入る。そしてそこで言われたことをする。

それがわたしたちのすることで、その業を良質のぶどう酒に変えてくださるのは、神さまの業です。そんな神さまへの信頼を教えてくださっていると思います。

わたしたちを日々不安へとひっぱり出そうとする様々な状況に囲まれながらも、母マリアと共にイエスさまという信頼の場所に立ち、そこに留まって-神さまに信頼して生きる-ことができるようにと願って、今回のテーマを設定しました。

 

 

 

2.当日までに行なっていただきたいカテケージス(教え)

今年のテーマ「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3)を受けて、当日のミサの福音の箇所はヨハネ2・1~11としました。事前に福音の内容に親しんでおいていただくために、リーダーのみなさんに子どもたちといっしょにやっていただきたいことがあります。簡単に以下のようにまとめてみました。

 

1.当日の福音 ヨハネ2・1~11を子どもたちに読んで聞かせる。

ガリラヤのカナの婚礼の出来事です。リーダーのみなさんが、一度子どもたちの前で声を出して、読んで聞かせてほしいと思います。

 

2.言葉の説明をする。

  「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた」

→イエスの母とは母マリアのこと。ヨハネの福音書ではマリアという名前は登場せず、「イエスの母」という言い方で表されています。

「ぶどう酒がなくなりました」

→婚礼の宴会にお酒はつきもの。ぶどう酒がなくなってしまったら、宴会がしらけてしまう。花婿と花嫁は恥をかいてしまいます。母マリアは、そうならないように、先に気付いてイエスさまにお願いしています。

「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」

→ユダヤ人たちは宗教的な理由で、食事の前に念入りに手を洗い、身を清めました。(マルコ7・3参照)

→二ないし三メトレテスは、80~120リットル。赤い石油タンクが4~6個分、かなりの大きさです。

「召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」

→何の意味があるのか分からない仕事でしたが、マリアさまに言われたとおり、イエスさまへの信頼の中で行われました。井戸から水を汲んだその当時は、今よりたいへんな仕事だったでしょう。どんな道具で、どのように汲んだのでしょうか。

 

3.こどもたちに質問する。

マリアさまが「ぶどう酒がなくなりました」と言った時、イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」とお断りになりました。

しかし、マリアさまは怒ったり、がっかりしたりせずに、召し使いたちに

  「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言いました。

「マリアさまは、どうして怒ったり、がっかりしたりせずに、召し使いたちに『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言ったのでしょうか」

   →イエスさまを信頼していたから。

   →きっとなんとかしてくださると思った。

この問いは構造が少し複雑なので、子どもには問い自体の意味が、受け取りにくいかもしれません。

こどもたちはすぐ、上のような答えをするかもしれませんし、全くわからない・・かもしれません。

いつものことですが、無理に答えを出そうとしなくてよいと思います。

どんな意見も「そうかもしれないね」と、答えてくれたことを大切していただいたらいいと思います。

 

4.リーダーの考えを言う。

「やっぱりマリアさまは、イエスさまのことを信頼していたのではないかな・・・」

「リーダーはこうではないかと思う」という言い方で、お考えを伝えてあげてください。リーダーがこの福音の箇所を読まれて、お感じになった表現で伝えてくださったらいいと思います。

「テーマについて」の中に書きましたが、人は誰かを信頼していても、軽い拒絶にあっただけで、もう相手を信じなくなってしまう、相手の所にあった自分の心を、自分のほうに戻してしまう・・・ようなことが度々起こります。

でも、マリアさまは自分の願いが思った通りに聞き入れられなくても、心をイエスさまの所から、引き上げることがなかったのだと思います。それが「believe in」という信頼ではないかと思います。

思い通りにならない時も、なぜこんなことが起こったのか理由がわからない時も、

わたしたちの心を、神さまのところから決して引き上げないこと・・・これが、神さまへの信頼であり、信仰だと思います。マリアさまは信仰のお方、マリアさまの心はいつもイエスさまの内にあったのだと思います。

リーダーの皆さんも、ご自分の経験から似たようなことがありましたら、こどもに話してあげたらいいと思います。「思い通りにはならなかったけれど、信じ続けたこと」反対に「思いがけないことが起こって、心を引き上げてしまって、失敗してしまったこと、」

そんな経験があったら、どんな些細なことでも、話してあげたらいいと思います。他の人の目にどう見えても、自分にとっての真実であるなら、こどもは喜んで、そして真剣に聞いてくれるはずです。そしてそのことは必ずこどもたちの心のどこかに残っていくと思います。そして自分を振り返る上での、大切なヒントになるのです。

そして最後に
「神さまは、『わたしたちの思った通り』をはるかに超えて、『わたしたちの思った以上』の良いものを用意してくださる方です。だから、わたしたちも思い通りにならない時も、神さまを信頼して、わたしたちの心を神さまのところに置く(委ねる)ようにできたらいいですね」

と投げかけてほしいと思います。

 

 

5.イエスさまに(神さまに)手紙を書く

「イエスさまに(神さまに)、お手紙を書こう」

前項の結びの投げかけを受けて、子どもたちに手紙を書かせていただきたいと思います。子どもたちは「わたしたちの思った通りをはるかに超えて、思った以上の良いものを用意してくださる」イエスさま、神さまに向けて書くことになりますが、テーマだけに限定せず、自由に書かせていただいていいと思います。

手紙の内容は、イエスさまへの感謝、質問、疑問、お願い、お祈り、など、さまざまだと思います。

震災に関わる内容もあるかもしれません。その時、できればリーダーも一緒に書いていただくと、子どもたちもより一生懸命に取り組むと思います。子どもたちが書いた手紙は、奉納する物(後述)の中に入れていただいて、一緒に奉納できるようにしてほしいと思います。

 

 

 

3.当日持参していただきたいもの(奉納物の製作)の説明

今回の奉納は、小教区(聖堂共同体)ごとに、1.「水がめに水を汲む『道具』」(後で詳述します)2.「イエスさま(神さま)への手紙」を奉納していただきます。1と2は、ひとつにまとめて、(1の中に2が入るようにして)一人の子どもが運べるようにしていただきます。(いずれも当日持ってきてください)

製作していただく奉納物については、当日のスムーズな進行のため、ある程度の制約をこちらで決めさせていただきました。ご協力のほどよろしくお願いします。

 

 

1.「水がめに水を汲む『道具』」

今回は、召し使いが石の水がめに水を汲んだ『道具』を奉納していただきます。イエスさまの言いつけは「かめに水を満たすこと」です。でも、どんな道具で、どのように行うのかは、一人ひとりに任されていたと思います。

以下の要領で、各小教区で「水がめに水を汲む『道具』」を作ってください。

 

◇個数:小教区毎に1個

◇機能:水を汲む『道具』・・・「壺」「桶」「ひしゃく」「バケツ」・・・等、

ご自由にお考えください。ただし、その中に、下記の「イエスさま(神さま)への手紙」が入るような形状のものにしてください。

当日奉納の子どもたちが、祭壇の前で、6つの石の水がめ(スタッフ側で用意)の中に、手紙を(水のように)入れて(注いで?)いきます。

◇大きさ:高さ30センチ以上(あまり小さいと会衆席から見えないため)台座の奥行き38センチ以下(祭壇の前の階段に置くため38センチは階段の幅です) でお作りください。(ただし子ども一人で持って奉納できる大きさ・重さ以下(厳守))

◇材質:可燃物でお願いします。

(とくに、当日持ち帰りを希望されない教会の奉納物は、教会学校委員会で適切に後処理を行いますので、プラスチックや金属、粘土などではないもので作って頂きますようお願いします。)

 

作り方について

決まった作り方はありませんが、

◇子どもが一人で運べるように、なるべく軽いものでお作りください。

段ボールを切り貼りして作ったり、あるいは、型の上に紙を何重にも糊付けしていって、張り子のようなものにすることなどが考えられます。又は新聞紙を丸めて棒状のものを作り、らせん状に巻いていって、壺状のものを作ることもできると思います。

◇奉納物が自立するように、台座等をご工夫ください。

なお、台座ではなく、何らかの工夫によって奉納物を自立させても構いません。

◇奉納物の中に、後述する「イエスさま(神さま)への手紙」が入るよう、(そしてすぐに出せるよう)あらかじめ配慮して製作していただければと思います。当日奉納の子どもが、石の水がめ(スタッフ側で用意)に手紙を入れていきます。(注ぐイメージ)

 

2.「イエスさま(神さま)への手紙」

◇子どもたち(一人ひとり)からイエスさまへお手紙を書いてください。

・ 手紙の紙質,大きさや色などについて、特にきまりはありません。

・ わたしたちの思った通りをはるかに超えて、良いものを用意してくださる、イエスさま、神さまへの手紙を、書いてもらいます。(手紙の内容については、「2.ミサまでに行なっていただきたいカテケージス(教え)」を参照してください)

◇ 書いた手紙を奉納物の中に入れて、一人の子どもで運べるようにしてください。

 

当日奉納の子どもが、石の水がめ(スタッフ側で用意)の中に手紙を入れて(注ぐイメージ)いきます。奉納物の「水を汲む道具」から、すぐ手紙が出るようにしてください。

 

 

奉納物&手紙の奉納

◇「奉納物&手紙」はミサの中で奉納します。

・ 各教会1名の代表者(厳守)が、中央通路を通り、祭壇まで進みます。祭壇の前に並べられた「石の水がめ」に手紙を注いでいきます。その後、奉納物を係が並べていきます。(例年奉納の行列が長くなってしまうので、代表者は必ず1名でお願いします。)

・ 「奉納物」を持ち帰りたい教会は、ミサ当日に会場の受付で申し出て下さい。ミサ後お返しいたします。(手紙はこちらで預かり適切に処理をさせていただきます。)

 

以上、説明が大変長くなりましたが、よろしくお願いいたします。

ご質問等ございましたら、下記お問い合わせ先までご連絡ください.

 

問い合わせ先:
東京教区 教会学校委員会 担当司祭
稲川圭三神父(カトリック八王子教会 主任司祭)
電話:  042-622-1642
fax: 042-627-6490
e-mail: all_saints@nifty.com

 

 


 

*今年ミサの中で歌われる曲は次の通りです。

ミサの曲 

入祭: 「神さまがわかるでしょ」

アレルヤ唱: 「アレルヤ豊かな愛を」

奉納: 「ひとりの小さな手」「マリアの賛歌」

感謝の賛歌: 上村幸一郎作曲(例年こどものミサで歌っているものです)

平和の賛歌: 「キリストの平和」

拝領: 「マラナタ」※「ジョイ」「クレド」

閉祭: 「心をつないで」

 

※「ジョイ」と「クレド」を聞くことができます。再生ボタンを押してください。

「ジョイ」

「クレド」

google chromeをお使いの方は初期設定のままでは自動再生されてしまいます。
一度それぞれの曲を停止してから再生ボタンを押してください。(※→本件改修済)

 

 

*参加確認ハガキの内容の覚えです。ご確認下さい。