立川教会堅信式説教

2016年8月21日、年間第21主日、立川教会

[聖書朗読箇所]

説教

今日は、年間第21主日でございます。ミサの中で、堅信式が行われます。聖霊の賜物、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心、を受けて、キリストの弟子として、生涯歩む、そのための力を司教が授ける秘跡、これが堅信でございます。  
さて、今日、ミサの中で、読まれました、福音の言葉をご一緒に味わってみたいと思います。  
今日の箇所は、「狭い戸口から入るように努めなさい」、という主イエスの言葉を伝えています。  
狭い戸口となっておりますが、わたしは、狭い門、狭き門という言葉の方になじんできました。戸口と門というのは、どう違うのか。  
念のために、福音書の本文を比較してみると、マタイの7章13節に、狭い門という言葉が出てきますので、狭い門というのは、マタイの福音書の方の言葉なのですね。今日は、ルカの福音を読んでいるわけです。  
そもそも、ギリシャ語の原文が違う訳でしょうから、日本語も違うのは当たり前ですけれども、ただルカ福音書で、「戸口」と訳されている言葉を門と訳しても間違いではないようであります。(フランシスコ会訳聖書ルカ13・24参照) それはともかく、「門」か「戸口」か、というのは、色々調べてみると大した問題ではないということになるのですが、狭い戸口、あるいは狭い門から入りなさいという、このイエスの言葉は、何を意味しているのだろうか。がんばりなさい、という意味でしょうか。  
第二朗読では、「主の鍛錬を軽んじてはいけない」という言葉が出てきますが、この言葉は、イエスの弟子は、鍛錬、訓練を受けて、がんばって、狭い戸口から入るようにしなさい、という意味でしょうか。  
延いては、今日、堅信を受けられるみなさんも、いままでのようではだめですよ、これからはこうしなさい、ああしなさい、そういうことをしてはいけません、そういう意味の言葉でしょうか。  
そうでしょうが、しかしわたしはそれだけではない、と思います。  
このイエスの言葉はどういう意味かな、ということを考えてきました。そういう時に、他の人はどう説明しているかな、気になるものですね。  
そうすると、こういうふうに言う人もいれば、ああいうふうに言う人もいるので、説明する側は多少とも困ってしまい、「イエスという人はどんな人だったのか。弟子たちに、何をされたか、何を言ったか」等々と考え込んでしまいます。 そう考えながら、改めて、イエスの振る舞いを振り返ってみると、イエスは場合によって、相手によって、かなり言い方が違うことが分かります。いつでも、誰にでも、同じことを言っているわけでもない。  
「わたしのもとに来たい人は、何もかも捨ててついてきなさい。父、母、妻、子ども、兄弟姉妹、自分の命も捨ててついてきなさい、自分の十字架を背負ってついてきなさい」、そのように厳しくおっしゃったとありますが、病気の人や障害を持った人に、大変優しく、心から同情され、そして、慰め、癒されました。悪霊を追い出すという話が、非常に多く出てきます。「だれでも、重荷を負っている人、疲れた人は、わたしのところに来なさい、休ませてあげよう」とも言われました。  
いったい、イエスという人は、どんな人であったのでしょう。  
わたしたちは、イエス・キリストを信じる者です。天の御父のもとに行くためには、イエスという門を通らなければならない、イエスという道を通って行かなければならないのです。  
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」とおっしゃった。  
そのイエスが、難しいこと、厳しい掟を全部理解し、それを実行することを求め、難行苦行と申しますか、そうしなければ救われないよと、言っているのでしょうか。  
実は、当時の熱心な宗教の指導者、それは、ファリサイ派の人とか、律法学者と呼ばれる人でした。イエスはそういう人と論争しています。そして、彼らを怒らせている。  
イエスは、そのような人々にとっては、神の教えをないがしろにする、とんでもない、冒瀆を行う人だというように見なされた、何とかして、イエスを亡き者にしようという相談を始めたと福音書には書いてあるのであります。  
みなさん、いまわたしたちは、『いつくしみの特別聖年』を過ごしています。神は、いつくしみ深い方です。どんなに、いつくしみ深いかということを、完全にあらわし伝えてくださったのが、主イエス・キリストであります。  
イエスを信ずること、それは神のいつくしみを信ずることであり、どんなにわたしたちが、罪を犯している弱い人間、あるいは、ちょっとねじけてしまっている人間であるとしても、そのような人間を、いつくしみ、赦し、受け入れてくださるのが、わたしたちの神です。  
そういうことをイエスは教えてくださった。イエスはそのような福音、よい便りを伝えてくださったのであります。  
でも、そういうイエスを、なかなか受け入れられない人もいた。そういう人にとってイエスは、広い門ではなくて、狭い門であったのかもしれない。狭いか広いかは、わたしたちの心によって、心の状態によって、変わってくるのかもしれない。  
イエスの他に、誰も頼る人のない人にとって、イエスは救いの門であります。イエスの教えが全く気に入らない人にとっては、イエスは受け入れがたい、それゆえに、通りにくい門であったのかもしれない。  
わたしたちは、改めて、主イエス・キリストを通して、わたしたちに示された神のいつくしみを、より深く信じ、そして、その神の呼びかけに、日々こたえ、周りの人に、いつくしみ深い者であるように努めたいと思います。  
堅信を受けられるみなさん、『いつくしみの特別聖年』であります。神のいつくしみをより深く知り、そして、実行するように心がけてください。