説教者会(ドミニコ会)創立800周年記念ミサ説教

2016年7月18日、渋谷教会

[聖書朗読箇所]

 説教

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ4・2)
今日の第二朗読の中のこの言葉がわたしの心に強く迫ってきます。
「み言葉を宣べ伝える」ということは教会の使命です。主イエスは全世界に行って福音宣教するように弟子たちに命じました。
聖フランシスコ・ザビエルが日本に福音を伝えたのが1549年でした。キリスト教の教えは短期間の間に多くの人の心を掴み、宣教は大成功の結果をもたらしました。
しかし時の国の支配者がキリスト教に対して不安と疑惑のためでしょうか、一切の宣教・宗教活動が禁止されました。
長い禁教の期間を経て、1873年にキリシタン禁制の高札が撤去されました。それ以来143年経過しました。現在日本におけるカトリック信者数は、およそ44万人、外国籍に滞在者・居住者を含めればおよせお100万人と推定されます。
日本の福音化のために諸修道会・宣教会は、よく養成された、霊的にも知的にも優れた人材を派遣してくれました。本日創立800年を祝うドミニコ会もその事例の一つであります。
それにもかかわらず日本の福音化(福音宣教)は、率直に言ってきわめて厳しい状況に置かれていると言わなければなりません。
今日はこれからミサ中読まれましたみ言葉よりわたしが感じた事の要点を申し上げて、皆さんとの分かち合いを行いたい、と考えました。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4・2)
「折りが悪い時でもわたしたちはみ言葉を宣べ伝えているでしょうか。
今のこの時代、宣教のために、よい機会であるのか、よくない時代であるのか。今の日本の社会の現状と人々の心の動きをどのようにとらえたらよいでしょうか。その分析も必要であると思います。
「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。(Ⅱテモテ4・3-5)
人々は自分の耳に都合のよいことしか聞こうとはしません。わたしたちはあえて聞く人の耳に痛いことを述べる勇気をもっているでしょうか。
教会の外に向かって宣べるときだけでなく、教会の中で宣べる場合もこの言葉は当てはまります。相手が嫌がり拒むだろうと思われる話をすることほど辛い務めはありません。しかし、それは司教をはじめ、すべての福音宣教者に課せられた十字架です。
イエスは言われました。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5・16)
自分の説いていることを実行していない人の言葉は空しく響きます。はたしてわたしたちは、信じていることを説き、説いていることを実行しているでしょうか。
教会は主イエスの復活の灯です。ある時は輝かしい灯ですが、あるときは薄暗い灯にすぎない場合もあります。
確かに主イエスの現存する教会でありますが、教会共同体の中には、人々の躓きの材料になることがないとは言えません。わたしたちの務めのなかには、厳に存在する人間の弱さと罪深さから生まれた悪の現実に立ち向かい、そしてそれを克服する、という、非常に骨の折れる務めがあります。
闇を消滅させるのは光でしかありません。わたしたちは主キリストから光を受け、その光を輝かせなければならないのです。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5・16)
この言葉を噛みしめましょう。
いまわたしたちは「いつくしみの特別聖年」を祝っています。
わたしたちは、この世界、闇と光の織り成すこの社会に、神のいつくしみを宣べ伝え実行すべきものです。
イザヤは言います。
「主は聖なる御腕の力を、国々も民の目にあらわさえた。
地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。」(イザヤ52・10)

この世俗化した日本の社会で、人々に神の存在と主キリストを信じてもらえるかどうかは、わたしたちの自身のあかし、とくにいつくしみわざの実行の有無にかかっている、とわたくしは思います。