教区の歴史

教区の歴史

聖アウグスチノ会助祭叙階式朗説教

2016年07月23日

2016年7月23日、葛西教会

受階者 ヨハネ松尾太(ふとし)

[聖書朗読箇所]

説教

お集りの皆さん、本日わたくしどもはヨハネ松尾太(ふとし)さんの助祭叙階式を行います。今日の叙階式のために選ばれた福音朗読は、マタイ福音書5章の「地の塩、世の光」という教えであります。  
「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と主イエスは言われました。わたしたちは皆、ここにいる人だれでも、「地の塩、世の光」であります。  
おりしもわたしたちはフランシスコ教皇の意向に従い、『いつくしみの特別聖年』を祝っております。  
主イエスは、「あなたがたの天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深い者でありなさい」と言われました。教皇は「主イエス・キリストは父である神のいつくしみ顔である」と教えています。  
天の父は目に見えない神です。目に見えなない神がわたしたちと同じ人間、目に見える神となってくださいました。その方がわたしたちの主イエス・キリストです。  
イエス・キリストに出会った人は神のいつくしみに触れ、神のいつくしみを知り、イエス・キリストに従う者となりました。  
イエス・キリストはこの世を去るとき弟子たちに、「全世界に行って福音を宣べ伝え、イエスの弟子を造るよう」に、命じました。イエス・キリストの弟子とは、「地の塩、世の光」となるべき人であります。  
さて、2016年の日本においてわたくしどもは、「地の塩、世の光」であるということをどのように自覚し実行しているでしょうか。わたしたちに出会う人々は、わたしたちのことを、「地の塩、世の光」として受け取ってくれているでしょうか。  
わたくしはずっと考えてきました。わたしたちが「地の塩、世に光」であるということはどういうことだろうか。どんなことを拒否し、どんなことを実行することだろうか。  
様々な出来事の中でわたしたちは本当に、誠実に、正直に、偽りのない生活をしているだろうか。あるいは清潔で質素な生活をしているだろうか。  
わたしたちのカトリック教会では、いま司祭による性虐待が問題とされていることを皆さんもご存じでしょう。教皇フランシスコはその問題に厳しい態度を表明しています。そのような状況で松尾さんは助祭になり、司祭への道へと歩みをすすめようとしています。わたくしは今日、特にこの問題を意識しています。  

「地の塩、世の光」はすべてのわたくしどもに向けられたことばですが、修道者である松尾さんにとってさらに特別な意味があると思います。松尾さんは修道請願を立てています。それは、すなわち、貞潔、清貧、従順の三つの誓願です。この誓願を生きることが松尾さんの召命であります。特に貞潔とは、単に独身を守るというだけではなく、自分の体を清らかな献げものとして神に献げる、ということであります。松尾さんは、自分の立てた貞潔という誓願を日々大切にし、生涯この誓願をももれるよう、日々祈っていただきたいと思います。  

今日の第一朗読はエレミヤ書の最初の部分、エレミヤの召し出しについて述べている箇所です。  
神はエレミヤを召し出しました。まだ若者であるエレミヤは大変恐れ戦いて(おののいて)神に訴え、その困難な務めは自分には無理だと訴えたようです。  

その時神はエレミヤに言われました。  
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。」(エレミヤ1・7-8)  
これは旧約時代に神が言われた言葉ですが、主イエスは弟子たちを派遣するときには、  
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)  
と言われました。  
困難なこの時代、わたしたちはさらなる信頼をもって主イエスに支えられ励まされ導かれてそれぞれの任務を全うしたいと思います。  
教会の中には様々な役割があります。松尾さんは、やがて司祭になるべき者として、そしてアウグスチノ会の修道者として、日本の社会において、「修道者としての地の塩、世の光であるという召命」に忠実に歩んでいただきたいと思います。  
今日は松尾さんの召命のためにご一緒にお祈りいたしましょう。